第6回 特別編 座談会 焼酎割り飲料は東京のローカル文化だ!〈前編〉
4.酎ハイの起源について
Q)昭和26(1951)年に、曳舟の三祐酒場で発案されて、翌年に天羽飲料が商品化(ハイボールA)したのが焼酎ハイボールの元祖だ、という説がありますが?
一同)それはちがいます。そうじゃない。炭酸割りは他にもありました。
阿)三祐酒場へ、ぜんぶ私が炭酸を配達していましたから、よく知っていますが、酒屋が先で、となりにカウンターをつけて、立ち飲みに近いお店でした。
神)あとになって、私が三祐さんに配達していたこともありましたが、最初三祐さんに炭酸水を入れていたのは丸源さんです。原液はあそこが自分で考えて、それを天羽さんに渡したんじゃないかな。自分で考えた割り材は、みんな秘密にして、作り方を教えないんです。戦後は、酒屋さんや飲み屋さんが、その店独特の、妙な割り材を考えていました。
阿)自分で考えた独自の割り材と、独自の煮込みを作って、その両方でお客さま、固定客をつかんでいったわけです。三祐酒場は、今でこそ京成の駅から少し離れていますが、昔は改札を出てすぐでしたから、お客さんの数は多かったですよ。原液はお店独自で考案して、製造をどこかに頼む、そういうケースが多くあったんじゃないですか。
寺)それは、どこの飲み屋でもやっていました。
Q)それぞれのお店は、割り材の原料をどこから仕入れるんでしょうか?
神)香料屋さんから買っていました。詳しいことは教えないんです。飲み物をひそかに持って帰ろうとすると、店外持ち出しは「勘弁してくれ」と怒られてしまう。
阿)ある程度量のはける飲み屋さんだと、自分の店用に、たとえばレモン味を混ぜて作ってくれないか、とリクエストできる。
Q)天羽さんの素も神田食品さんの素も、お店によってさまざまなブレンドが加えられることを前提に、レシピが組み立てられているように思います。
寺)戦後、シロップ屋さんがだんだん増えてきましたが、品物のない時代には、薬局が原料を手配したことが多かったと聞いています。レモン、オレンジ関係のフレーバー抽出は、ちょっと化学の知識がある人なら、遠心分離機が二台あれば、できます。
阿)フレーバー(フレーバリング・エキストラクト)と色素と酸で、そのお店独自の割り材を作れないかというお話を持ち込まれることが、よくありました。果汁が入っている今の「サワーの素」は、当時に比べるとかなりグレードが高いのです。昔は砂糖と水と色素とクエン酸(柑橘類や梅の酸味成分)に、香料を加えれば、何でもできるというやり方でした。
Q)シロップ製造は戦前もありましたね?
阿)もちろん戦前からあった、カキ氷に使うシロップを混ぜることもできます。しかしカキ氷用は甘いので、焼酎を割るのには嫌われました。だからカキ氷を作るシロップの、甘味が少ないやつ。そんなオーダーをされたのです。
寺)どんな注文をされたのかは、われわれではなくて、もっと上の世代でないと分かりません。
阿)はっきりしたことはわかりませんけれども、私たちの記憶では、すでにいろんなところで焼酎ハイボールをやっていました。
神)天羽さんに追随して、戦前からウメ割り、ブドウ割をやっていた人たちが、いろいろ作っていますから。たとえば丸源さんは「ウイスキータンサン」を出していたし、他にも「ホップ割り」、戦後はホップの割り材があって、それに焼酎と炭酸を混ぜていました。
阿)そうですね。うちの場合は、炭酸にウイスキーのフレーバーと色をつけて、焼酎を割る商品です。今、ウイスキー風のエッセンスを炭酸の中に入れただけで「ウイスキータンサン」と名乗ったら怒られちゃいますが。昭和30年のちょっと前から、昭和40年近くまでやっていて、35本入りの炭酸が一日5ケースくらいはけていました。
神)木箱の、底が抜けちゃうケースね。
阿)いちどお客さんがつくと、お客さんはもうそれしか飲まないといいます。「自分はこれ」と決めて、その店の煮込みと一緒にいつも頼む。そういう話でしたよ。
Q)どんな商品があったか、詳しいことはわかりますか?
阿)資料はほとんど残っていません。炭酸飲料をやっていた東京のメーカーは、それぞれの商品を持っていたはずです。
寺)多くは下町のメーカーでしょう。うちは山の手ですから(東京飲料合資会社・東京都中野区新井)、炭酸水そのものが出ない。当時の山の手では、そもそも焼酎が売れませんから。
神)甲類焼酎を飲むのが、下町のドヤ街とか、繁華街のヤミ市跡とか、そういうところでしたから。
寺)山の手では、炭酸水っていつごろ出たのかな、と思うくらい、ごく一部でしか製造していませんでした。ところが下町の飲み屋さんには、炭酸を10ケースも20ケースも積んで、一日ではけちゃうぐらい繁盛したお店が、当時ずいぶんあったようです。