第7回 特別編 座談会 焼酎割り飲料は東京のローカル文化だ!〈後編〉

8.東京の庶民文化を支える中小清涼飲料メーカー

阿)東京の清涼飲料業界も、戦後の最盛期には150社くらいあったのが、かなりお辞めになりました。

神)今では30数社。

阿)今はもう40社弱です。歴史を知っている人たちが消えてしまったし、書き残す人もいません。

Q)玉ラムネにせよ割り材にせよ、いまだに残っているのは大変なことですね。

阿)オランダの風車村へ行った時、ラムネのびんが飾ってあるのを見つけて、譲ってくれないかと頼んだら、一本しかないからと断られました。うちにも、戦前に作ったラムネのびんが、2本だけ残っています。

神)ラムネほど歴史の古い炭酸飲料はありません。王冠という密栓方法のない時代に考えられた方法です。

久)ペリー来航の時はまだコルク(キウリびん)でしたが、イギリスで玉詰めビンが発明されて、明治25年ごろ、国産の玉詰めびんができる。大阪の徳永ガラスがつくったという記録が残っています。そのころすでに、アメリカで王冠が発明されていました。だからビー玉で栓をする時期は50年くらいしかなかった。王冠の方が圧倒的に、栓をする機能、コスト、作業効率の点ですぐれています。栓をする革命、技術革新ですから、あっという間に世界に広がり、ラムネビンはすたれました。イギリスでもヨーロッパでも同様だと思います。

Q)それが、日本ではなぜか残っている。レトロブームもたまにはいい方向に働くことがあるのですね。

久)王冠も明治30年代後半に、いち早く日本に入ってきました。王冠が入ってくるとサイダーができるようになり、ビール会社など大手が手がけるわけです。

Q)サイダーは高級品という位置づけでした。

神)ラムネとサイダーの違いはビンだけで、内容物はほとんど変わりません。サイダーはみな共通のビンで、いつでも手に入ったものですから、ほうぼうに売れるわけですよ。ラムネは飲み終わったら(ビンが高価なため)回収しないといけない。だからラムネは地場の小さな店でもやっていけます。サイダーは昔から東京のメーカーが貨車積みをして、たとえば新潟あたりまで送っていました。ラムネはそういうわけにいきません。ラムネビンがそんな遠いとこまで行ったら、たとえ返ってきたとしても汚れがひどくて、洗えなくなってしまいます。だからラムネは、地場でビンを出して、返ってきたのを洗ってまた出すという、零細企業の小さな仕事ですね。

阿)地場の、ひじょうに商圏が狭い中で流通していたから、生き残れたのでしょう。
(脚注:中小企業で、リサイクル容器を使用する場合、回収効率が収益に圧倒的影響を与えるので、自社の組織力・機動力で容器の回収ができる範囲に、販路がおのずから限定されてしまう)

神)でなければ、とっくに大手にやられて無くなっていますよ。

阿)ラムネだけは大手メーカーが手を出さなかったのは、そういうわけです。

神)ワンウェイビンのラムネだったら大手はいくらでもできますけども、それをやられたらたちどころに廃業に追い込まれますから、中小企業分野宣言で、大手にお願いして、残してもらっているのです。

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