第8回 新しい庶民酒をつくる東京の地域力 〈前編〉

2.チューハイとコンクジュース、そしてレモン濃縮液

 そこで思い出すのが、チューハイの誕生に、業務用コンクジュースが重要な役割を果たしていた事実です。『ダカーポ』2005年6月15日号によれば、「1978年、池袋の喫茶店『300B』がチューハイを開発、チューハイパブに転身」とあり、同誌07年7月18日号の記事では、このお店の代表にインタビュー取材をしています。
 「300B」(筆者注:オーディオ界で有名な真空管からきています)は1975年創業のオーディオ喫茶でしたが、喫茶店ではもう立ち行かないと考え、お酒を出すようになったそうです。「そこで考えたのが、喫茶店で使っていたソーダ水のコンクと焼酎を組み合わせたチューハイでした。当時、焼酎を炭酸割りしたものはありましたが、それはあくまで酔うためのお酒。甘くて飲みやすいチューハイが、それまであまりお酒を飲まなかった女性たちもとりこにした」と、甲類焼酎の炭酸割りにコンクを混ぜて出した甘い酒が「チューハイ」のはじまりだと証言しています。

 また『女性セブン』84年7月19日号では、西池袋3‐29‐4杉本ビル2階にあった『300B‐V』という店で、「ピーチ、パイン、グレープ」など全21種類の「ジュース感覚で焼酎カクテルを注文する女性客が多い」と報じられていました。
 焼酎の売り上げは、70年代前半が底でした。1974年、アメリカで、国民酒・バーボンの消費量がウオッカに抜かれ「ホワイト・レボリューション」と呼ばれた社会現象を見て、日本でも、割りやすいスピリッツベースのミックスドリンクが受けると考えた宝焼酎が、甲類焼酎「純」を1977年3月に発売。過去の焼酎のイメージを知らない若者、人口の過半数を超えるようになっていた戦後生まれ世代に、受け入れられたのです。

 神田食品研究所が老舗として開発を進めたような高果汁の喫茶店業務用コンクは、1970年代後半、ホワイトリカーと呼ばれていた甲類焼酎を割るために使われ、昭和50年代の、山の手のチューハイ人気確立に大きな役割を果たしたと考えられます。
 もっとも、焼酎ハイボールの略としての「チューハイ(酎ハイ)」という呼び名は、もともと下町のものだったことは、以前に天羽飲料の堺社長が証言してくれました。その証拠に『平凡パンチ』73年7月30日号では、故・田中小実昌が「下町で"ハイボール"といえば、ほとんどがチューハイ」と証言し、『angle』誌77年10月号では三ノ輪の名店「中ざと」の紹介記事で、「客にレモン半切れと炭酸をびんごと渡し、それぞれ自分でレモンをしぼって好みで炭酸で割るという飲み方、これをチューハイ(150円)と名付けている」と書かれているほか、『サンデー毎日』78年2月12日号では、やはり三ノ輪の煮込み屋で「小ジョッキに入ったチューハイを出してくれる」「焼酎(ホワイトリカー)に炭酸を入れたものだ。中にレモンがひと切れ浮いている。別にレモン汁を頼み、少しずつチューハイに注いで飲むのが三ノ輪方式。一杯120円ぐらい」と紹介されていました。

 当時、神田食品研究所でも、「無糖レモン」など希釈用レモン商品を発売したと、秦研究開発室長は証言してくれました。
本邦初の無糖レモン濃縮液は、昭和31(1956)年、ヤンズ通商が発売。ニッカレモン(現・ポッカコーポレーション)も翌年に参入しています。折からの洋酒ブームで、カクテルに使う業務用のびん詰めの需要が急伸、昭和38(1963)年に第一次レモンブームが起きます。さらに昭和40年代にかけて、レモン液は女性の美容飲料として人気を博し、昭和41(1966)年には第二次レモンブームが到来しました。

 生レモンの輸入は昭和39(1964)年に自由化されたものの、当時の製品のほとんどは果汁を含まず、クエン酸水溶液など人工合成の製品だったため、昭和42(1967)年に『暮らしの手帖』誌が、広告で「新鮮なレモンのビン詰」をうたいながらレモン果汁を含まない商品を批判。同年11月、公正取引委員会は排除命令を出し「合成レモン」表示を義務付けています。それでも、果汁含有量が10%以上あれば、「果汁入り合成レモン」と名乗ることを許されたわけですから、当時の水準がうかがえます。

 高果汁の製品を手がけた神田食品研究所は、日本社会が豊かになり、消費者が果汁をぜいたくに使用した商品を求める「本物志向」の時代を先取りしていました。無果汁清涼飲料に対する、主婦連などの「うそつきジュース」「いんちきジュース」の批判を受けて、昭和44(1969)年、公正取引委員会は「ジュース」は果汁100%を指すとの見解を出し、翌年に「キリンジュース」が「キリンオレンジエード」に名称変更。昭和48(1973)年、公取は原材料に果汁、果肉が使われていない清涼飲料に「無果汁」等の表示をするよう義務付けました。こうして、60年代に全盛を誇った着色・着香炭酸飲料(コーラ類、ファンタやミリンダなど)から、70年代には果汁飲料へ人気が移ってゆき、その後現在にいたるまで、果汁100%の製品が当たり前になっています。

 もともと下町の人々に愛されていた焼酎カクテル・酎ハイが、その出自や歴史を消去され、山の手の若者の新しい消費文化のシンボル「チューハイ」として新生することができたのは、よく指摘されるような、「宝焼酎 純」や「樹氷(サントリー)」「ロックアワー(協和発酵)」「ワリワリの酒 ワリッカ(合同酒精)」「JOH(キッコーマン)」などの新機軸の焼酎が売り出されたことだけでなく、高果汁のコンクジュースが同時期に普及していたことも、大きかったのです。

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