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6月13日(金)

 車のナンバーを見るのが癖になっている。交差点で信号の変わるのを待っているとき、止まっている車のナンバーを見る。あるいはタクシーに乗っているとき、すれ違う車のナンバーを確認する。意識して見ているわけではない。いつも無意識に見ているのだ。だから「癖」なのである。ナンバーに「春日部」とか「習志野」とか地名が付いていますね。あれを確認するのである。

 たとえば近所の駅周辺に、自転車とバイクが大量に停められている。線路際がその駐車スペースになっていて、斜めにずっと停められているが、そこを歩くとき、一台づつ確認していくのである。もちろん圧倒的に「町田市」が多い。中に「青葉区」とか「八王子市」があるが、これはどちらも隣接している街だから、そういうバイクが停められていても不思議ではない。ところが中には、どうしてこんなところに停まっているの、というものがあるのだ。

 先日見かけたのは、「松山市」と「呉市」で、ええっとびっくり。そんな遠くからどうやってお前は来たの。こういうのを先に見てしまうと、「前橋市」が出てきても驚かない。えっ、前橋なのかよ、と驚きたかったという気がしないでもないが、こればかりは仕方がない。

 ずいぶん前、皐月賞を観戦しに中山競馬場まで早朝車を飛ばしたことがある。私が運転したわけではなく、知人の車に乗せてもらっただけだが、JRAの駐車場に停めて、正門に向かおうとしたら、「函館」ナンバーの軽自動車がその駐車場に停まっていたので、思わず足がとまってしまった。函館かよ。見て見て、と知人に言ったが、どうして私が感服しているのか知人には理解できなかったようだ。

「松山市」や「呉市」のナンバーをつけたバイクは、そこからいきなり町田にやってきたわけではないのかもしれない。JRAの駐車場に停まっていた「函館」ナンバーの軽自動車も、皐月賞を観戦しに北海道からやってきたとは限らない。たまたま東京か千葉にきた人が、その日中山を訪れたということも十分にありうる。他にもいろいろな事情があっても不思議ではない。

 しかしそういう遠い地のナンバーをつけたバイクや車を見かけるたびに、そこから延々とやってきたイメージが浮かぶのである。で、すごいよなあと勝手にため息をつくのだ。ええと、それだけの話なんだけど。

6月5日(木)

 私の実家は池袋から歩いて20分ほどのところにある。池袋駅を背にして西口に降り立つと、右前方に伸びているのが東上線。左前方に伸びているのが西武池袋線。その東上線の大山という駅と、西武池袋線の東長崎という駅を線で結び、池袋西口を背にしてまっすぐ前方に引いた線の交わったところに、私の実家はある。

 ようするに、どの駅からも遠い。したがって高校時代は池袋までバスに乗っていた。そのバスに乗ると約10分。で、先日、実家に行く用があったので、実に久々にそのバスに乗ったのである。25年ぶりか。当時とは池袋のバス停留所の位置も変わっていたが、これはすぐにわかる。
 問題は、実家の近くにあった停留所の名前である。いくら考えても思い出さない。まあ、近くに行けばわかるだろうと、とりあえずそのバスに乗ってみた。バスは大通りから狭い道に入り込んでいく。方角はいいのだ。間違いなく実家の方にむかっている。しかし、こんなに狭い道だったのか、とびっくりするほどの道をバスは走っていく。その道幅は、私の記憶の半分しかない。
 夜なので外の景色がよく見えない。記憶を振り絞る。「水道タンク裏」というバス停留所名だけは記憶にあるが、ほかの停留所名はまったく記憶にない。そろそろ、実家の近くなのだが、こんな名前じゃなかったよなと降りずにいると、バスは右に曲がっていくのでようやく通りすぎたことを知る。さっきの停留所でよかったのだ。結局、一つ先の停留所で降り、戻ることになったが、そのバス停まで戻っても、その名前は記憶にない。本当にこんな名前だったのだろうか。

 先週、池袋で読売新聞の取材を受け、夏目書房で撮影したあと、しばらく西口付近を歩いたが、街の風景が変貌していることに驚いた。高野書店がもはやないことは知っていたが、近藤書店までないとは知らなかった。大学生のとき、麻雀で大勝ちしてすぐに萩原朔太郎全集を買ったのは近藤書店だ。大通りは変わってないが、そこに面した商店がほとんどといっていいほど様変わりしているのだ。
 実家近くの家々の風景も、私の記憶とはまったく違っていた。すぐ近くに鬱蒼とした木々のある一角があり、そこを「森」と私たちは呼んでいた。その近くの豆腐屋を「森の豆腐屋」と呼び、パン屋さんは「森のパン屋」と呼んでいた。ところが今回、訪ねてみると、これが森なの? と驚くほど、普通の木が一本あるだけだった。たしかに大きな木ではあるけれど、森というほどのものではない。
 近所の家も建て直したのだろう。大半の家が見知らぬ家になっている。実家の前は駐車場になっていたからびっくり。そうか、Nさんは引っ越していったのか。さらに住宅街だというのに、手打ち蕎麦の店があったので驚いてしまった。その場所に住んでいたのは誰さんだったのか、名前を思い出せない。

 その手打ち蕎麦の店の前の路地で、小学生の私たちはローラースケートに興じたのである。一日中遊んでいても、車は滅多に通らなかったので、路地は私たちの遊び場だった。そうだ。森の真下に、紙芝居のおじさんがやってきて、みんなで駆けていったことを思い出す。母親から貰った50銭を持っていくと、「ぼうや、それは使えないよ」とおじさんに言われ、泣きながら帰ってきたことを思い出す。でも母親に言えず、土間の入り口に佇んでいたら、どうしたのと母親が振り向き、わけを話すと、かあさんは悲しそうな顔をした。そうか。あれは私がまだ小学校にあがる前だ。
「じゃあ、オレが言ってやる」と小学生の兄が、紙芝居のおじさんに交渉して、50銭でせいべいを買ったことは覚えている。そのとき、どんな紙芝居をやったのか、そういうことはまったく覚えていないが、土間で母親が掃除をしていて、その後ろ姿を見たら何も言えなかったこと、紙芝居のおじさんとの交渉がうまくいったときの兄の得意満面の顔。そういうことは覚えている。ほかのことは全部忘れても、そういうことを覚えていればいいか、と思いながら、バスに乗って帰ってきたのである。

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