5月25日(月)
武蔵野美術大学短大の生活デザイン学科の非常勤講師になったのは、もう四半世紀近く前のことだ。土曜の午後の授業を担当していたのは、ちょうど競馬を休んでいたころで、土曜は空いていたからだ。今なら無理だったろう。
最初の十年近くは、鷹の台の学校まで通っていた。国分寺から西武国分寺線に乗って数分、鷹の台駅で降りて徒歩数分。新宿から通うと遠い。90分の授業だが、往復の時間を入れれば土曜はほぼそれだけで終わる。それでも通っていたのは、仕事以外の趣味がない私にはそれが息抜きになっていたからだ。講師の先生方と夕方から国分寺に繰り出して飲んだことも数えきれない。
大教室の授業を一年だけ担当したことがあるが、後ろのほうの学生は隣のやつと喋ったり、眠ったり、授業をまったく聞いてないのでイヤになった。出席を取らないのだから、聞く気がないなら出なければいいのだ。翌年から四十〜五十人規模の小教室の授業に戻してもらったが、大教室で授業する先生をいまでも私は尊敬する。あの徒労感によく耐えられるものだ。
私の授業名は「編集計画㈼」というもので、何の制約もないので出版業界のことを中心に講義したが、はたしてあれで役立ったのかどうか、自分ではわからない。本業が忙しくなり、さらに競馬を再開して土曜が空かなくなったということもあり、週末に鷹の台まで通えなくなったのは本の雑誌社が笹塚に引っ越す直前だったと思う。
短大には専攻科というのがあって、卒業生が一年だけ通うコースだが、そこに進むのは毎年十二人前後。その専攻科の学生を相手にする授業に変えてもらったのである。笹塚の事務所まで毎週木曜の午後に学生諸君にきてもらって、奥のソファで講義した。
十二人とはいっても、それは専攻科の学生の総数であり、木曜の午後には私以外にももう一つ授業があって、生徒はどちらかを選択。つまり半分になるので、私が担当するのは毎年五〜六人。奥のソファにぎりぎり座れる人数だ。雰囲気的にはゼミに近い。
もっとも講義は半分くらいで、あとは街中の取材調査実験が中心だった。たとえば、通勤客は車内でどんな活字を読んでいるかを調べるために満員電車に乗り込んだり、あるいはプラットフォームのゴミ箱に捨ててある新聞雑誌などを拾ってきてデータを取ったり、渋谷駅前で待ち合わせている人は何人くらいの人が活字を読んでいるのか、そして何を読んでいるのかを調べるために、さりげなく近寄って覗き込んだり、そういう調査をしてレポートを書くという授業である。
そのレポートの大半は当時の本の雑誌に「活字探検隊」報告として掲載した。それはもちろん、武蔵美のS教授に、こういう企画を考えているんですがどうでしょうと事前に打診し、「それは学生の勉強にもなりますから、どんどん使ってください」と了承をもらったうえでの調査である。
「活字探検隊」報告は、本の雑誌社に出入りするアルバイト学生諸君が担当したものもあるが、当時はその大半が私のゼミ生徒だった。
これは七〜八年続いたろうか。実質的にはそれが私の最後の「授業」といっていい。というのは、その後、武蔵野美術大学の短大が閉校になったのである。で、縁が切れるかと思ったら、S教授が通信教育の責任者になり、そちらで力を貸してくれないだろうかと言われ、それからは年に一度のスクーリングに出かけることになった。最初の数年は吉祥寺の分校(のようなもの)に通い、その後は新宿センタービルに武蔵野美術大学が借りているフロアに通った。年に一度、午後4時間くらいの「授業」をする。「授業」とはいっても、相変わらず最近の出版界について、あれこれとよもやま話をするだけだから、これで授業と言えるのかどうか。
で、先週の金曜、最後の授業を行ったのである。S教授が定年になるまでは付きあうという約束だったのだが、今年でとうとう定年で、私の役目も終わったというわけだ。
それはいいのだが、その最後の「授業」で失敗をしてしまった。最近の雑誌事情の話の中で、数独で好調のパズル雑誌「ニコリ」の話をしたのだ。で、「世界を変えた100人の日本人」という番組が毎週金曜の夜8時からテレビ東京でやっていて、今日、その「ニコリ」の社長の鍛冶君が出ます、と言ってしまったのである。いや、そのときは疑うことなくそう思っていた。
というのは、私の記憶ではその授業の前の週の出来事なのだが、鍛冶が出るというのでその番組を見たのに出てこず、ヘンだなあと思ったら次週予告に出ていたので、なあんだ一週間違えたのか──と思ったという経緯がある。だから、次の週、つまり最後の授業があった日に放映されるのは当然といっていい。で、授業を終えて帰宅して、その番組を見たのだが、鍛冶は全然出てこないので、おやおや。これでは私が嘘をついたことになる。
たぶん考えられるのは、私が予告を見たのはその前の週ではなく、2週前のことで、肝心要の放映日にはすっかり忘れて見なかったのだろう。で、その忘れたことまで忘れ、最後の授業の日がその放映日だと勘違いしたと思われる。それしか考えられない。
しかしなあ、なんだかすっきりしない。狐につままれたような気分である。放映しなかったんじゃないかテレビ東京。
最初の十年近くは、鷹の台の学校まで通っていた。国分寺から西武国分寺線に乗って数分、鷹の台駅で降りて徒歩数分。新宿から通うと遠い。90分の授業だが、往復の時間を入れれば土曜はほぼそれだけで終わる。それでも通っていたのは、仕事以外の趣味がない私にはそれが息抜きになっていたからだ。講師の先生方と夕方から国分寺に繰り出して飲んだことも数えきれない。
大教室の授業を一年だけ担当したことがあるが、後ろのほうの学生は隣のやつと喋ったり、眠ったり、授業をまったく聞いてないのでイヤになった。出席を取らないのだから、聞く気がないなら出なければいいのだ。翌年から四十〜五十人規模の小教室の授業に戻してもらったが、大教室で授業する先生をいまでも私は尊敬する。あの徒労感によく耐えられるものだ。
私の授業名は「編集計画㈼」というもので、何の制約もないので出版業界のことを中心に講義したが、はたしてあれで役立ったのかどうか、自分ではわからない。本業が忙しくなり、さらに競馬を再開して土曜が空かなくなったということもあり、週末に鷹の台まで通えなくなったのは本の雑誌社が笹塚に引っ越す直前だったと思う。
短大には専攻科というのがあって、卒業生が一年だけ通うコースだが、そこに進むのは毎年十二人前後。その専攻科の学生を相手にする授業に変えてもらったのである。笹塚の事務所まで毎週木曜の午後に学生諸君にきてもらって、奥のソファで講義した。
十二人とはいっても、それは専攻科の学生の総数であり、木曜の午後には私以外にももう一つ授業があって、生徒はどちらかを選択。つまり半分になるので、私が担当するのは毎年五〜六人。奥のソファにぎりぎり座れる人数だ。雰囲気的にはゼミに近い。
もっとも講義は半分くらいで、あとは街中の取材調査実験が中心だった。たとえば、通勤客は車内でどんな活字を読んでいるかを調べるために満員電車に乗り込んだり、あるいはプラットフォームのゴミ箱に捨ててある新聞雑誌などを拾ってきてデータを取ったり、渋谷駅前で待ち合わせている人は何人くらいの人が活字を読んでいるのか、そして何を読んでいるのかを調べるために、さりげなく近寄って覗き込んだり、そういう調査をしてレポートを書くという授業である。
そのレポートの大半は当時の本の雑誌に「活字探検隊」報告として掲載した。それはもちろん、武蔵美のS教授に、こういう企画を考えているんですがどうでしょうと事前に打診し、「それは学生の勉強にもなりますから、どんどん使ってください」と了承をもらったうえでの調査である。
「活字探検隊」報告は、本の雑誌社に出入りするアルバイト学生諸君が担当したものもあるが、当時はその大半が私のゼミ生徒だった。
これは七〜八年続いたろうか。実質的にはそれが私の最後の「授業」といっていい。というのは、その後、武蔵野美術大学の短大が閉校になったのである。で、縁が切れるかと思ったら、S教授が通信教育の責任者になり、そちらで力を貸してくれないだろうかと言われ、それからは年に一度のスクーリングに出かけることになった。最初の数年は吉祥寺の分校(のようなもの)に通い、その後は新宿センタービルに武蔵野美術大学が借りているフロアに通った。年に一度、午後4時間くらいの「授業」をする。「授業」とはいっても、相変わらず最近の出版界について、あれこれとよもやま話をするだけだから、これで授業と言えるのかどうか。
で、先週の金曜、最後の授業を行ったのである。S教授が定年になるまでは付きあうという約束だったのだが、今年でとうとう定年で、私の役目も終わったというわけだ。
それはいいのだが、その最後の「授業」で失敗をしてしまった。最近の雑誌事情の話の中で、数独で好調のパズル雑誌「ニコリ」の話をしたのだ。で、「世界を変えた100人の日本人」という番組が毎週金曜の夜8時からテレビ東京でやっていて、今日、その「ニコリ」の社長の鍛冶君が出ます、と言ってしまったのである。いや、そのときは疑うことなくそう思っていた。
というのは、私の記憶ではその授業の前の週の出来事なのだが、鍛冶が出るというのでその番組を見たのに出てこず、ヘンだなあと思ったら次週予告に出ていたので、なあんだ一週間違えたのか──と思ったという経緯がある。だから、次の週、つまり最後の授業があった日に放映されるのは当然といっていい。で、授業を終えて帰宅して、その番組を見たのだが、鍛冶は全然出てこないので、おやおや。これでは私が嘘をついたことになる。
たぶん考えられるのは、私が予告を見たのはその前の週ではなく、2週前のことで、肝心要の放映日にはすっかり忘れて見なかったのだろう。で、その忘れたことまで忘れ、最後の授業の日がその放映日だと勘違いしたと思われる。それしか考えられない。
しかしなあ、なんだかすっきりしない。狐につままれたような気分である。放映しなかったんじゃないかテレビ東京。