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8月23日(月)この夏いちばん驚いたこと

引かれ者でござい―蓬莱屋帳外控
『引かれ者でござい―蓬莱屋帳外控』
志水 辰夫
新潮社
1,680円(税込)
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 いやあ、びっくりした。新刊コーナーの前で、思わず私、体が固まってしまった。何なんだこれ! そこには志水辰夫の新刊『引かれ者でござい』(新潮社)が積まれていたのだが、その帯に大きく、「北上次郎、絶賛」とあったのである。文芸の老舗である天下の新潮社が無断でこんなことをするとは思わなかった。

 実は私、帯の推薦文というのをやったことがない。これは以前も書いたことだが、繰り返す。私の場合、新聞や雑誌等に書いた書評からの引用ということにしていただいている。初出を明記してもらっているのも、それが読者にもわかるようにするためだ。ようするにこれは宣伝のために書いたコピーではなく、書評からの引用であるという宣言にほかならない。したがって、「推薦」とか「絶賛」という版元用語の使用は避けて、書評の中の実際のフレーズを引用してもらっている。

 それが本当に正しいことなのかはわからない。私が考えているような効果が実際にあるのかどうかもわからない。つまり、「本の雑誌」8月号よりという初出と、「胸が痛くなる小説だ」(これは例ですよ)という書評からの引用を見て、「このコピーは宣伝のために書いたんではなくて、本当の感想なんだ」と思っていただけるかどうかは、わからない。「○○氏、絶賛」とあるだけよりも、どういうふうに絶賛したのか、その内容を知りたいと私は思うのだが(そのためにポイントを引用してほしいのである)、それが本当に効果があると自信を持って言えるわけではない。

「○○氏、絶賛」とだけ帯にあればそれで十分だ、という考え方もあるだろうし、それを否定するものではない。誤解されないように書いておけば、ほかの方が何をしてもかまわない。自分がしたくないだけだ。ようするにこれは、私のこだわりにすぎない。それに読んでみたら、全然胸が痛くならなかったりする方もいるだろうから、何がはたしていいものやら。書評の真贋ということが先に問われているので、それ以外はすべて付け足しだ、という考えもあるだろう。だからまあ、仕事の進め方として私の選んだ方法がある、というくらいの意味に受け取っていただければいい。

 書評の中から、これは宣伝に使えるなと思ったフレーズを帯や広告等に引用したいと版元が考えた場合、通常は担当編集者なり広告担当者から連絡がくる。私がどういうルールを持っているかなど知らないほうが当たり前だから、そのたびにこちらの要望(前記の三つだ)を伝えていく。それで何の問題も生じない。それは日常のルーティンだ。

 これまでに3回、何の連絡もなく、帯に大きく、「北上次郎、絶賛」(一回は「激賞」だったけど)とやられたことがある。これはすぐに抗議したが、まさか長い付き合いの(しかも大ベテランの)編集者に同じことをやられるとは思ってもいなかった。これはないぜ、セイちゃん。考えてみれば、長い付き合いだけど、彼とはこういうふうに仕事を一緒にしたことがなかった。つい先日も某K書店のY君から電話がきて、推薦文を書いてくださいよと言われ、オレそういうのやったことない、と言うと、ええっそうだったのと驚かれたが、もう長いこと池林房で呑んでいるのに彼と仕事をしたことがなかったのである。

 残念なのは、これで新聞書評を書くことが出来なくなったことだ。私は年内一杯、読売新聞の読書委員というのをやっているので、この志水辰夫の新刊を読売紙上で大きく書評するつもりだったのである。ところが、解説を書いた本と、帯に自分の名前が載ったもの(つまり推薦帯の付いたものだ)は書評できないという内規がある。朝日新聞にもNHK衛星放送のブックレビューという番組にも同じ内規があったので、おそらく読売新聞にもあるはずだ。いや、解説を書いた本は書評できないことを確認しただけで、帯に関しては読売側にまだ確認したわけではないのだが、たぶん同じだろう。「本の雑誌」10月号の新刊ガイドはすでに書いて編集部に渡してある。あとは読売新聞に書くのを楽しみにしていたのに、とても残念だ。

 飛脚問屋蓬莱屋シリーズの第一作『つばくろ越え』のときはわからなかったことが、第二作の『引かれ者でござい』でわかるようになった顛末は、新潮社の「波」に書いた。その原稿を送ったのが8月12日。すぐにセイちゃんから電話がきて、その日の夕方、電話で少し話した。そのとき、単行本の発売日を尋ねると、8月18日だという。私が書店でこの本を見たのは20日だったから、18日というのは見本が出来る日だったのかもしれない。普通は引用したいフレーズがあれば、そのときに言われるものだ。それが何もなかったので、そうか、18日ではもう間に合わないのだと思った。そのとき、こちらから、帯その他へ引用する場合はこの三条件を守ってね、と言っておけばこういう問題もなかったのだが、引用したいとも言われていないのに、こちらからそんな話をするのはヘンだ。

 哀しいのは、志水辰夫は私が日本でいちばん好きな作家なのに、そしてこれは本当に傑作なのに、こういうことがあると、なんだか思い出したくない作品になりかねないことだ。新潮社の方で、もしこの日記を見ている人がいたら、セイちゃんに伝えてくれ。増刷がかかったときには(おそらく増刷がかかるだろうから)、必ず帯を直してくれ、と。

8月6日(金)灼熱地獄の東京で

 私が若いころのことだから、ずいぶん昔のことなのだが、乾燥機付きの洗濯機を買うか、エアコンを買うか、悩んだことがある。洗濯機を置く位置が外に面していないため、乾燥機をつけても外までパイプを伸ばさなければならないということもあり、見積もりを取ったらすごく高価なのだ。そのころのエアコンとほぼ同価格だったから、両方ともに買うのは予算的に難しい。どちらかにしなければならない。そのときのことを夏が来るたびに思い出すのは、エアコンを付けなければ寝苦しくて眠れない日は一夏に十日しかないではないか、という理由でエアコンを断念し、乾燥機付きの洗濯機を購入したからである。

 ようするに、十日間の灼熱地獄を我慢できるならエアコンはいらないのだ。それが三十年前の東京の真実である。もっと前はどうだったろう。私が幼いころ、つまり半世紀前はもちろんクーラーもなく、家庭にあったのは扇風機だけ。それで十分暑さをしのげたことにいまとなっては驚く。

 そのころ、映画館はどうだったのか、まったく記憶にない。池袋から東武東上線に乗って数分のところに大山という駅があり、その商店街の中に大山東映という映画館があった。私の生家から歩いて20分のところにあったから、兄に連れられてよく映画を観にいった。片岡千恵蔵が七役をやる映画があって、何に扮してもそれが片岡千恵蔵であることはミエミエなのに映画の中の人たちは誰もそのことに気づかないということがとても不思議であった。一年中その映画館に行っていたから、夏も行ったはずだ。汗だくになっていたら記憶に残っているだろうから、そうではなかったのだ。

 昭和三十年代初頭の東京の映画館にはクーラーがあったのか。それともクーラーなどなくても過ごせるほどの気候だったのか。それが無性に知りたい。

 そうか、ホームに滑り込んでくる電車の窓が開いているか、閉まっているかをどきどきしながら待っていた記憶がある。電車の窓が開いていれば冷房車両ではないということで、ツイてねえなと思うのである。あれはいまの郊外の家に越してきてからのことだから、そんなに昔のことではない。

 全車両冷房というのは今や当たり前になっているが、そうなったのはごく最近なのである。10年かなあ。正確に調べたわけでもないのに、こんなことを言うのも何なのだが、20年ということはないと思う。

 ようするに、こんなにひどい状態になったのはごく最近のことなのである。昨年まではもう私、死ぬかと思った。夏が来るたびに、その暑さにふらふらになり、永遠に秋はこないのでないかと思い、暗い気持ちになった。

 で、今年も夏がやってきて、いやだなあ、あの夏が始まるのか、と最初は身構えていた。ところがとても不思議なのだが、今年は平気なのである。いや、もちろん暑いんですよ。たまらないんですよ。でも昨年までの、どうしようもないという感じはない。

 サラブレッドの世界では、高齢馬は夏の暑さに強いと言われている。何度も暑い夏を経験しているので我慢強くなっているというのだ。その意味で私、ようやく真の意味での高齢馬になったのかもしれない。ここ数年の東京の8月の平均気温はマレーシアと同じらしいが、いまなら私、マレーシアでも暮らせそうだ。

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