5月30日(水)先輩

 明治大学に入ったとき、決めていたのは映画研究部に入ろうということだけだった。この話はいつかどこかで書いた記憶もあるが、まあいいか。とにかく1965年の4月、明治大学和泉キャンパスで各サークルの出店が並ぶ中を、私はまっすぐ歩いていった。他のサークルには用はない。どこだ、映画研究部。

 そのとき映画研究部の出店に机を置き、その前に座っていたのが菊池仁と高橋三郎という2年生コンビであった。新入生を勧誘する声が飛び交う中で、この二人はやる気があるのかないのか、静かに座っていた。オリエンテーションの初日の、しかも朝である。その年の、私は入部第1号だった。

 そのとき、菊池仁から「好きな映画監督は?」と質問され、「石井輝男!」と元気よく答えたことを覚えている。実は私、それ以外の映画監督を知らなかった。1965年といえば、石井輝男が「網走番外地」の第1作を撮り、大ヒットとなった年だが、その公開前のことである。私が知っていたのは、その前年に石井輝男が撮った「ならず者」という映画だった。香港、マカオでオールロケした映画である。日本からきたちんぴらを演じたのは若き日の高倉健で、現地の娼婦役南田洋子と暗い部屋の中で延々会話するシーンが今も記憶に鮮やかだ。ちなみに、新人の加賀まりこも出演していた。

 大学の映画研究部では、そういうプログラムピクチュアは話題にならないことを、当時の私は知らなかった。おまけに、「好きな作家は?」という菊池仁の質問に、「黒岩重吾!」と私は答えたのである。当時、貸本屋にはまっていた私の大好きな作家であった。そういう娯楽小説はサークル内であまり話題にならないことも、そのとき私は知らなかった。

 菊池仁と親しくなったのは、彼もそういう娯楽小説を好きであったからだ。横浜の貸本屋で借りてきたと思われる寺内大吉の時代小説を、平気な顔で部室で読んでいたりするのだ。大江健三郎や、福永武彦や、三島由紀夫などの本を小脇に抱えて部室にやってくる他の先輩たちと、菊池仁は明らかに異質であった。

 ところがその菊池仁の書く映画評が難解で、何度読んでもその意味がわからない。同期の野間廣道と二人で勉強会と称して、よく会っていたが、一時期は菊池仁の映画評をテキストにして、本人を呼んで質問したりした。

 野間廣道の父親が作家(野間宏)であることは知っていたが、彼がまだ実家にいたころ、一度だけ泊まりに行ったことがある。家中に本があふれていた。二人で本郷の古本屋をまわり、ある店で「これ、お前向きじゃないか」と彼が棚から取った本を差し出してきたのは、野間の家に泊まった翌日のことである。その本が、塔晶夫『虚無への供物』だった。埴谷雄高が朝日新聞のコラムで「埋もれた本」としてこの小説を紹介する前だったと思う。

 えーと、話がずれてしまった。菊池仁の映画評が難解だったという話の続きである。当時はサークル内に幾つもの雑誌(同人誌に個人誌)が乱立していて、それらに映画評やらなにやら書くことが私たちの活動でもあった。菊池仁の映画評もそれらのサークル内ガリ版誌に載ったものである。

 そういうサークル内雑誌に書くとき、私はいつも菊池仁を意識していた。彼がどう読んでくれるかが最大の関心事だった。菊池仁が「面白かった」と言ってくれれば、それだけで嬉しかった。逆に、「あの展開は強引だよな」と批判されたりすると、そうかあと考え込むのである。大学四年間、私の「読者」は菊池仁だけであった。他の人はどうでもいいのだ。彼に伝わるかどうか、それだけであった。

 年に一回、長い「論文」も書いた。いまでも覚えているのは、ブッダ・ゴータマとゴーギャンと漱石のモチーフを考察する「グルグル・イルベーク」という「論文」で、それにしてもなんというタイトルなのか。

 その後、「本の雑誌」を創刊し、書評を書くようになっても、学生時代の気分はずっと続いている。つまり、全国のどこかに必ず、「菊池仁」はいるのだ。その「菊池仁」に伝えたい、と思って私はいまでも書評を書いている。

 その菊池仁が入社した会社に翌年私も入り、そこで椎名誠と知り合って、後年、「本の雑誌」を創刊するにいたるのだが、だからということではなく、本の読み方、対し方、そのすべてを教えてくれた菊池仁に、私は感謝している。

 そんなことは直接会って言えばいいのだが、それも言いにくいので、ここに書くことにした。あなたに会えてよかった。あなたと知り合うことで、私は多くのことを教えてもらった。あなたとの出会いは、私の人生に、喜びと励みを与えてくれた。そのことに感謝したい。

 先日、菊池仁の末の弟さんが亡くなった。「本の雑誌」の5号から10号まで奥付の「スタッフ」に「菊池晃」の名前があるが、つまり初期の助っ人である。その通夜の会場にいくと、菊池仁がいた。「こういうときしか会わないな」と菊池仁がいった。ここ数年、古い知人が相次いで亡くなり、そういう通夜の席で菊池仁とよく会うのだ。

 そうか。私も菊池仁もそれなりの年齢なので、いつどうなることか、わからない。亡くなってから遺影に向かって感謝の気持ちを伝えるのもなんだかなあ、という気がして(いや、私のほうが先かもしれないが)、とにかくこの原稿を書くことにした。生きている間に、感謝の気持ちは伝えておきたい。先輩、あなたに会えてよかった、と。