7月16日(火) 怒る老人
- 『暴走老人! (文春文庫)』
- 藤原 智美
- 文藝春秋
- 560円(税込)
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ずいぶん前のことになるが、電車の中で突然怒鳴られたことがある。あのときはびっくりした。何の前触れもなく、私の前に立っていた老紳士が怒ったのである。
そのときの状況を、もう少し説明する。
夕方の中央線なので車内は混んでいた。私は知人と一緒にその電車に乗り込んだのだが、混んでいるので私と知人の間に見知らぬ他人が挟まれた(それが老紳士だ)──そういう状況である。それでも知人の体は半分私のほうに出ているので、彼に話しかけていた。穏やかな談笑といっていい。時々くすくすと笑ったかもしれない。
しばらくして次の駅についたとき、私の正面にいた老紳士が私に突然怒鳴った。どうしてその老人が怒ったのか、何に対して怒ったのかが、さっぱりわからない。その老紳士はその駅で降りていったので、質問することも出来ず、呆然としたまま私は車内に残された。なにいまの? 知人に尋ねてもわかるわけがなく、彼も首をひねっていた。
そのときの推測はこうだ。その老紳士が一目でわかるような上等なスーツを着ていたので、普段は満員電車になど乗らないような会社の偉い人だろうと私は推測した。にもかかわらず、満員電車に乗るような状況に自分が置かれたことが、彼は基本的に面白くないこと。そのときにたまたま正面に立った若僧が笑っていたこと。それが自分を笑っているような気がしたので、降りる間際に怒鳴ったと。いや、本当にそうなのかどうかはわからないが、そうでも考えなければ、あの突然の怒りは解けない。
30年前のその光景を思い出したのはつい先日のことだ。その日は家族で横浜に出掛けた。みなとみらいのホテルで食事をして、1階に降りてきたのは午後3時過ぎ。さあ、どうしよう。その日は日曜日だったが、今から帰っても競馬には間に合わない。どうするの? と次男が尋ねてきた。中途半端な時間である。家族全員が集まるのはゴールデンウィーク以来。なんとなく別れがたい。しかし特に行くところもない。そうだ、赤レンガ倉庫が近くだから、行ってみる? 特に興味があったわけではないが、家族でぶらつくのもいいものだ。
しかしやっぱり関心がないものを見ても盛り上がらず、建物のなかを通り抜けて、ふたたび、さあ、どうする? となった。向かいにもう一つ、赤レンガの建物があるが、もう見なくていいだろう。そのとき、突き当たりが港になっていて、クルーザーが停泊しているのが目にとまった。そこまで歩いていくと、湾内一周とは別に、横浜駅東口まで行くことが判明。あと5分で出るよ、乗る? と長男が言う。
問題はこのあとだ。横浜駅東口まで20分で、大人1名が580円。じゃあ、4人分で幾らかと頭のなかで計算しながら、港に浮いている切符売り場まで、なんというんですか、タラップというんですか、ひょいひょいと揺れながら降りた。
で、売り場に金を出そうとしたら、後ろから係員らしき男性がきて、何か私に言うのである。何を言っているのか、具体的にはまったくわからないが、ようするに、お前はどけ、と言っているらしいことは判明した。いや、そんなに命令口調では言ってないんですよ。ただ、ニュアンスはそういうことなのである。
すると長男が私の服の端を掴んで軽く引っ張る。仕方なく切符売り場の前から右にズレると、あとからやってきた若いカップルが切符を買う。そのあとで家族全員の切符を買ってから長男に尋ねた。なにいまの?
ようするに、横浜駅東口まで行くクルーザーの前に、湾内一周のクルーザーが出る予定になっていて、しかもその時間が迫っていたと。だから、湾内一周のカップルに先に切符を買わせてあげてくれと。そういうことだったらしい。
私が勘違いしていたのは、横浜駅東口まで行くクルーザーの出発時間は5分後であり、その前に出発する便があるとは思っていなかったからだ。そのとき、切符売り場の左横には一艘のクルーザーしか停泊していなかったのである。実はそれが湾内一周のクルーザーで、それが出たあとに、横浜駅東口まで行くクルーザーが右側にやってきた。おいおい、あとから来るのかよ。
このときに、30年前の車内で突然怒った老紳士を思い出したのである。
家族が一緒だったので怒鳴りはしなかったが、しかし切符を買おうとしたところを止められたとき、あのときの紳士のように沸騰しても不思議ではなかった。意外に思われるかもしれないが私、結構短気である。
おそらく長男は、私たちがそのクルーザーに乗ろうと港に近づいていったとき、若いカップルが湾内一周の説明を受けていたこと、横浜駅東口まで行く時刻表の横に、もう一つ時刻表があり(たぶんそれが湾内一周の時刻表だったのだろう)、それをちらりと見て、そちらが先に出ること、ということはいま停泊しているクルーザーは湾内一周用であること、そういう情報を瞬間的にぱっぱっと積み上げ、そして係員が父親に声をかけたときにぱっと判断したに違いない。
ところが哀しいことに年を取ると、情報の処理速度が遅くなるのだ。私も若いカップルが湾内一周の説明を受けていた姿は見ているのだ。もう一つ時刻表らしき看板があったことも見ている。問題は、そういう情報が細切れになって、頭のあちこちに散りばめられ、そのままであることだ。統合されるまで時間がかかるのである。
街中で突然怒る老人を見ることがある。そういう姿を見ると、自分の思った通りにならないんで面白くないんだよ、と言う人がいる。年を取ると短気になるんだよ、と言う人もいる。私も30年前は誤解していた。違うのである。周囲のスピードについていけないのだ。情報の処理速度が遅くなったことに呆然としているのだ。
それを逆に言えば、年を取ってなおかつ穏やかな人は、たくさんの情報をいつも頭のなかで素早く、ぱっぱっぱっと処理しているということだ。だから突然の事態にもすぐに対応でき、あわてることがない。穏やかな表情は、情報の処理の速さが生み出している。
いいなあ。私もそういう老人になりたい。