第3回

 '85夏、大学4年だったオレは、まだ内定の1つどころか会社訪問さえしていなかった。というのも当時は就職協定なるものが、一部、特にマスコミ関連では厳密に守られていて、会社訪問は9月、説明会が10月、試験は11月解禁だったのだ。今では就活の常識にもなっている新聞社などのセミナーでの青田刈りは、こっそりと行われているようだったが、それも都市伝説まがいの噂でしかあらず、一般企業志望の同級生が猛暑の中、汗だくになりながらスーツを着て就職活動に精を出すのを横目に見ながら、「汗かきのオレだったら、スーツがすぐクタクタになっちゃうな」と涼しい顔で変な心配をしていた。

 8月12・13日が「本の雑誌」43号の発売日。12日に日航ジャンボ123便墜落事故があって、13日は一日中、配本用のレンタカーのカーラジオからアナウンサーが乗組員名簿を何度も何度も連呼していたのを憶えているので、その配本に参加していたのは間違いない。大学3年の内に就職活動が事実上終わってしまう、今の時代からは考えられないお気楽さだ。
 
 とはいえ、何もしていなかったわけではない。同じ志望の他大学の友人らと2週間毎にテーマを決めて作文の勉強会をやったり、普段はハナもひっかけないようなベストセラー本を立ち読みしたり、経済のことなんかロクに分からないのに新聞を日本経済新聞に変えたり...。マスコミ志望なら誰もが考えつきそうで、誰もがやっていそうなことをやって、同級生が必死に就活をしている中、就職協定のせいとはいえ、動こうにも動けないもどかしさと不安を消そうともがいていた。
 
 不安とは裏腹の(今から思えば噴飯ものだが)自信もあった。大学1年の秋から「本の雑誌」の助っ人となり、2年の冬には、本の雑誌探険隊からの報告という記名の原稿ではないもののライターデビュー(というにはおこがましくもありますが)。高校時代、写真部だった腕を活かして、目黒さんの一日書店員の取材にカメラマンとして同行し、カメラマンデビュー(というにはますますおこがましい)。2号しか出してはいないが、「ようなもの通信」編集長(おいおい)。そして亀山湖キャンプから東ケト会にも参加していた(未だに椎名さんの単行本のグラビアに見開きで焚き火飛びの写真が載っているのは、困りものだが...)。

 『助っ人は配本が主な仕事で...つまらない仕事の上、無報酬ですがそれでも』というニュアンスのことがその頃の助っ人募集には、必ず書かれていたが、これは目黒さんがその後の著作で種明かしをしているように、応募者が殺到して業務に支障を来さないための布石だ。実際は原稿取りや校正、下版の手伝いなど、立ってるものは親でも使え的に編集実務を振られ、現場の中で学ぶことができたのだ。

 その一方で、「噂の真相」の仕事も手伝っていた。
 「噂の真相」と「本の雑誌」は、副編の川端さんと「本の雑誌」現社長の浜本さんが大学のゼミで先輩後輩の仲、編集部が同じ新宿5丁目のミニコミ同士という縁(?)もあって、「噂の真相」でどうしても人手が必要な時に浜本さん経由で頼まれて、オレは何度か手伝いに行っていた。
 初めのうちは、印刷所から取次への追加搬入とかの雑用だった。
 出入りを始めたばかりの頃、岡留さんと、
「うちでも募集すれば、本の雑誌の助っ人部隊みたいなのが作れるかな?」
「学生の読者も多いでしょうから、募集すれば集まると思いますよ」
 といった会話を交わした憶えがある。実際、オレ自身、助っ人の募集に応募したきっかけは、「噂の真相」に載っていた募集広告だったし、それで10数人の応募があったはずなので素直に答えたつもりだ。ところが、その頃から、「噂の真相」は読者の高齢化に苦慮していたそうで、実情とは大分食い違っていたようだ。
 
 何度目かの手伝いの際、雑談の中でカメラを使えることを話すと、雑用だけではなく、出版系の授賞式のパーティ取材やターゲットを狙ってのパパラッチみたいな仕事を頼まれるようになった。
 パーティ取材は、巻頭の1Cグラビア用で、基本的にはメインの絵と参列者の著名人を一通り撮れば終了。立食パーティであることが多かったので、苦学生のオレは豪華な食事にありつけるだけでもありがたかった。
 
 パパラッチ的な仕事は、実は一回しかしていない。
「今日、撮りに行くのはこの人」
 薄暗い編集部のさらに暗い奥の棚から、岡留さんが取り出した「日本紳士録名鑑」(書名はうろ覚え)なるアルバムを見せられ、ターゲットの顔を確認し、記憶するようにといわれた。5分間ぐらいじっと見つめて、なんとか脳みその襞に刻みこめたような気になったので、アルバムを返し、いざ出陣。気分はパパラッチどころかスナイパーだったが、結局ターゲットは張り込んだ現場に現れず、空振りに終わった。
「もうちょっと、あぶない仕事もあるけど、やってみない? もちろん、しっかりガードはするからさ」
 帰り道に川端さんからいわれたが、緊張でヘトヘトだったので、もったいなくも固辞してしまった。ただ、数回とはいえ、潜入的な撮影に同行し、そのノウハウはきっちり身につけたつもりだ。