第74回

'88年2月号/表紙・姫乃樹リカ/グラビア・北岡夢子(サイパンロケ)/アイシミュ・美少女学園すみれ組/IDOL SCRAMBLE・姫乃樹リカ・土田由美・白田あゆみ

 2月号は、アイドル界に美少女ブームを巻き起こした後藤久美子の所属するオスカープロモーションとの繋がりができた記念する号だ。それもその年('87)に行われた"第一回全日本国民的美少女コンテスト"グランプリの藤谷美紀('73年9月15日生まれ、愛知出身)のみならず、その他の受賞者全員まとめて出してくれるという大盤振る舞いだった。
「投稿写真」のマニア向けアイドル誌化に着手して、ちょうど一年、キャスティングで困ることは多々あったが、グラビアやインタビューにレギュラー的に出てくれるアイドルも増え、アイドル担当の企画ができるなど、アイドル誌としての体裁はたいぶ付いてきた。
 オレ的には、最初から相手にしてくれない大手プロダクションとその系列(例:バーニングプロダクション)と所属しているアイドルのパンチラを載せすぎていて怖くて電話できない事務所(例:ホリプロ)を除くと出来れば協力的な関係を結びたい事務所の最終の砦が、オスカープロだったので、アポが取れた時は小躍りしたい気分だった。
(これで、「ザ・シュガー」に出てるアイドルの8割方は、「投稿写真」にも出てくれるようになった)
 '87年6月号で「投稿写真」のマニア向けアイドル誌化は完了と書いたが、それはあくまでも紙面上のことで、それを支えるための体制ができたワケではない。そういう意味で、2月号は、表も裏もアイドル誌化が完成した号といってよかった。
(なんとか、異動前にできたかな)
 年末進行のさなか、オレは年明けに異動になることを覚悟していた。というのもサン出版では、新人は最初の配属先から、早くて3ケ月、遅くとも一年後には異動するのが慣例になっていたからだ。それが、そろそろ2年になるというのに、異動されない方がおかしい。間違いなく、年明けには異動させられる、その前に次の担当者が楽に引き継げるよう課題を残さない方針でいたのだ。

 異動になろうとなかろうと年末進行は待っちゃくれない。しかも3月号から今までは突発的に掲載していたアイドルイベントの取材記事が「IDOL EVENT駆け込み報告」と題したレギュラーコーナー(もちろんのように担当はオレ)となり、暮れも押し迫った12月26日(会社的には仕事納めの日)まで取材に追われた。
 取材後、すぐにフィルムを現像に出し、ラフを切ってデザイナーに渡して、二度目の年末進行をなんとか終えることができた。
 この号の特集は、姫乃樹リカが年明けの2月3日にデビューが決まったのに先駆けて、そのスカウトからデビューまでのいきさつや業界的な動きなどを追った誌上ドキュメンタリー企画"アイドル誕生物語"と5月号のおニャン子特集と同じくらい時間と手間を掛けたものだった。フツーに考えたらとてもとても年末進行時にやるような企画ではない。しかし、タイミング的に1月25日発売の3月号でやらなかったら、いつやるんだというタイミングの問題で、やらざるをえない。幸い、デビュー日が早目に決まったので、2月号の編集会議の時に3月号の特集はこれと決めて、2月号の特集の「投稿写真が選ぶ'87年新人アイドルグランプリ」の受賞者に表彰状を手渡しする合間を縫って、取材を進め2ヶ月がかりで準備したからできたものだ。当時の手帳を見るとサイパンロケから帰った11月16日から仕事納めの12月26日まで、2月号の校了のため編集部にいなければならなかった12月7日から9日の3日間を除くとほぼ毎日、取材か撮影が入っていて真っ黒だ。2年目だったので息絶え絶えながらも完走できたが、一年目だったらおそらく息絶えていたに違いない(笑)。