01「上原果物店」

 夜明け前、市場界隈はまだ静まり返っていた。人影もまばらで、往来の真ん中では猫が毛繕いをしている。そんな時間からシャッターを上げている店が一軒だけある。「上原果物店」だ。

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「朝五時には店に来て、仕事を始めるの」。商品を並べながら上原信吉さんは語る。「年を取ってくると、酒も飲みきれん、タバコも吸いきれんもんだから、あんまり眠られんわけ。朝四時には目がさめるから、早めに来て仕事をするようになってきたの」

 八十六歳を迎えた今でも、毎朝こうして働いている。お若いですねと話を向けると、作業の手を止めて、「若くないですよ。白髪も一杯だから」と笑う。昭和七年生まれの信吉さんは、十三歳で終戦を迎えた。

「うちがまだお母さんのお腹の中にいるときにお父さんは亡くなって、だから家庭はものすごい苦労したの。戦争のとき、お兄ちゃんは防衛隊へ取られていたから、お母さんと二人でいたわけ。防空壕に入っておけばよかったのに、弾が飛び交うなかを逃げて。体が小さいもんだから、弾が当たらなかったんじゃないかね。それでやっと摩文仁の海について、あのあたりは今だとたくさん樹が生えてるけど、当時はアメリカが戦争で皆焼き尽くしてしまっていたの。そこで牛島中将が切腹したんだけど、その近くで捕虜にされたわけ」

 戦争が終わると、信吉さんは米軍相手に働いた。軍作業に始まり、米軍基地内にあるメスホール(食堂)でテーブルボーイとして働いた。

「テーブルボーイっていうのはね、食事が終わったあとに片づけをするわけ。当時はまだ十七、八歳だったけど、戦前の沖縄だと芋しか食べてなかったもんだから、アメリカの食事というのはすごいなと思った。あの頃はハンバーグというのは少なくて、一番驚いたのはステーキだね」

 話を伺っていると、外国人観光客が通りかかり、信吉さんは台湾語で接客する。台湾からの観光客を相手にしているうちに覚えたのだという。ただ、しゃべれる外国語は台湾語だけ。テーブルボーイや、米軍住宅で家事を手伝うハウスボーイとして数年間働いたが、英語が話せるようにはならなかった。そんな信吉さんが公設市場で働くことになったのは、昭和三十年頃のことだ。

「最初はね、親戚のおじさんと一緒に肉屋を始めたの。おじさんはブラジルに移住してたんだけど、戦争が終わったあとで沖縄に帰ってきてたわけ。うちの実家があるのは小禄なんだけど、小禄は昔から肉屋が多いから、それで『一緒に肉屋の商売をせんか』と誘われて、公設市場に店を出すことになった。朝早いうちに豚を潰して、それを肉にして市場に持ってくるもんだから、それで早起きする生活になったわけ」

 そうして公設市場で働き始めたのだが、三年ほど経ったところで「ブラジルのほうが生活が楽だ」と、おじさんは再び移住してしまう。そこで信吉さんは、妻のヒロコさんが営んでいた果物屋で一緒に働き始める。

「果物屋といっても、果物を専門に扱ってた店じゃないよ。当時は昆布の千切れや乾物なんかも扱ってたし、野菜も扱ってるし、いろんなものを売ってたの。だから今でもこうして玉ねぎや島らっきょうなんかも扱ってるわけ。果物はそんなに多くなかったけど、その当時よく売れてたのはアメリカのネーブルだね。アメリカ軍の払い下げでネーブルが手に入ったから、それを売ってた。あの頃の公設市場は、今みたいに立派な建物じゃなくて、トタン葺きでボロボロだったよ。まだアスファルトで舗装されてなくて、田んぼみたいな感じ。大雨が降れば水が溢れてきて大変だったね」

「上原果物店」の向かいには、現在では水上店舗というビルがずうっと続いている。名前の通り、そこを流れていたガーブ川に蓋をする形で一九六四年に建てられたビルだ。およそ三〇〇メートル続く水上店舗は、緩やかにカーブしており、そこが川だった時代が伺える。水上店舗が建設されるまでは、川の上に木の板を渡して商売をする人たちが大勢いた。大雨が降るたびに川は氾濫し、あたりは水浸しになっていたという。

 信吉さんが公設市場で働き始めて六十年以上経つ。これまで過ごしてきた時間を振り返って、一番印象に残っているのは、公設市場が火事になったときのこと。一九六九年、それまでトタン葺きの建物で営業していた公設市場を移転させる計画が持ち上がる。市場で働く人たちは移転賛成派と反対派に分かれ、建物が完成したあとでも移転に反対する人は少なくなかった。何度か不審火があり、信吉さんも寝ずの番をしたこともあるが、昼間に大きな火災があり公設市場は消失してしまう。紆余曲折の末、公設市場は元通りの場所に建設されることになった。そうして現在の建物で営業が始まったのは一九七二年、沖縄が返還された年の秋だ。

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「昔は地元のお客さんばかりだったけど、復帰してからは次第に観光団が増えてきて、扱う品物も変わってきたね。昔はマンゴーなんてなかったけど、今は一番売れる。八月だとアップルマンゴーがあって、九月はキーツマンゴー。この季節が終わると、今度は輸入品が入ってくるから、それを並べる。沖縄のぶんだけではちょっと足らんから、輸入品を売るわけ」

 七時半にはすべての品出しを終えて、信吉さんは椅子に腰掛けて一息つく。いつも決まってラジオをかけていて、流れてくる民謡に耳を傾ける。昼は観光客で埋め尽くされているが、朝の時間は人通りも少なく、トラックも行き交う。皆顔なじみなのだろう、運転手は挨拶をして通り過ぎてゆく。毎日朝早くから働いている信吉さんにとって楽しみは、仕事を終えたあとで家に帰り、のんびりする時間だという。

「家に帰ったら、もうのんびりです。何もやらない。新聞を読んだり、あとはテレビを観たりするくらいだね。今の時期はね、相撲を観てる。これが楽しみなわけ。応援してるのは、やっぱり沖縄の力士だね」

 昨日は沖縄出身の美ノ海が勝ちましたねと話を向けると、信吉さんは嬉しそうに笑った。八時頃にお孫さんがやってくると、バイクにまたがり、颯爽と帰ってゆく。この時間に市場も開場時刻を迎え、あたらしい一日が始まる。