04「長嶺鮮魚」

 沖縄と聞いて、エメラルドグリーンに輝く海を思い浮かべる人は多いだろう。海だけでなく、そこを泳ぐ魚も色鮮やかだ。牧志公設市場の鮮魚部を歩けば、色とりどりの魚たちが陳列されており、観光客は思わずシャッターを切る。水槽の中ではエビやカニが小さく動いている。

「私が働き始めた頃は、こんなして陳列してなかったですよ」。そう教えてくれたのは「長嶺鮮魚」の長嶺次江さんだ。「昔はこんな近代化してなくて、水槽もなかったです。100メーター先の氷屋から氷を買ってきて、それを広げた上に魚を並べてましたね」

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 1941年生まれの次江さんは、19歳の頃から市場で働いてきた。ここでお店を創業したのは叔母で、「店が忙しいから加勢してくれないか」と頼まれ、次江さんも鮮魚店で働き始めた。半世紀以上にわたり市場を見守ってきた次江さんは、今や「長嶺鮮魚」の名物女将となり、お客さんを呼び込んでいる。小さい頃から人と話すのが好きな子供だったのだろうか――そんなことを訊ねると、「あの時代の子供に、会話する暇があるの」と、次江さんはぴしゃりとした口調で言う。

「私が小さい頃は、今日は何を食べる、明日は何を食べるという時代ですよ。ごはんを食べていくためには、小さいうちから働かないといけない。とにかく『お母さんに楽をさせてあげたい』ということしか考えられなくて、会話なんてしている暇がないですよ。ちょっとでも良い仕事がないかといつも探して、それで市場にきたわけ。その当時は若い人なんて数人しかいなくて、働いているのはほとんど戦争未亡人のおばちゃんたちでした。皆さん私より年上だったけど、優しくしてくれて。沖縄の商売は会話が大事だから、ユーモアの精神でやる。そこで周りのみなさんに教わって、色々会話をするようになったんです」

 次江さんが生まれたのは、本島最南端にある糸満市だ。糸満は古くから海人の町として栄えてきた。琉球王朝が農業を奨励した時代にも、農耕に適した土地が少ない糸満では漁業が認められていた。

「糸満は海人の国で、お父さんは漁に出るわけ。それをお母さんが受け取って、たらいを頭に乗せて行商に出る。これが糸満の風景だね」

 お母さんというのは、島言葉で「アンマー」と言う。糸満の女性たちは「糸満アンマー」と呼ばれ、沖縄各地まで行商に出た。公設市場で扱う魚もまた、行商にやってきたアンマーたちから仕入れたものだった。

「行商は糸満だけじゃなくて、やんばるからくる人もいれば、石川からくる人もいるし、各地域からバスに乗って売りにくるんです。それを天秤に載せて重さを量って、仕入れたぶんを並べる。あの時代はね、今みたいにいろんな魚を並べてないですよ。小魚を売る店は小魚を売る、マグロを売る店はマグロを売る、大きい魚を売る店は大きい魚を売る。そうやって店ごとに全部分かれてましたよ」

 大きな魚は高級品だったこともあり、多かったのは小魚を売る店だ。市場に並ぶ魚はどれも新鮮だが、生で食べることは珍しかったという。

「沖縄だと、刺身というのもあまり食べなかったんですよ。食べるとしたら行事のときぐらいでしたね。それも、醤油につけて食べるんじゃないんです。"なまし"と言って、小魚を切って、酢と味噌と和え物にして食べるのが普通だったんですよ。夏はそこにきゅうりを入れたりしてね。復帰してからワサビが流通するようになって、醤油で刺身を食べるようになりました」

 刺身を食べる人が増えると、「長嶺鮮魚」でも刺身を扱うようになった。地元のお客さんはミーバイならミーバイ、マグロならマグロ、タコならタコと単品で買ってゆく。ただ、観光団が増えたことで、今は刺身の盛り合わせも提供するようになった。ホタテにマグロ、いかにサーモン、それにウニがついて500円と手頃な値段だ。「長嶺鮮魚」ではオリオンビールも250円で販売しており、近くに用意されたテーブルで食べていける。ただ、市場の醍醐味と言えるのはやはり「持ち上げ」だろう。

「観光団が入るようになったときに、市場の組合で『観光客の方に市場で買い物してもらえるように工夫しよう』という企画を立てたんです。せっかく旅行に来たんだったら、ホテルで食事を済ませるより、市場で食材を見てもらって、それを二階の食堂で調理したらどうか、と。それが今でも続いてるんですね」

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 第一牧志公設市場で「持ち上げ」が始まったのは1990年頃のこと。2000年に沖縄サミットが開催され、翌年には沖縄を舞台としたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』が放送されると、市場を訪れる観光客が急増した。鮮魚店で購入した品物は、ひとり3品まで「持ち上げ」が可能で、二階の食堂に調理手数料として500円を支払う。「長嶺鮮魚」の店頭に並べられた魚介類には、それぞれおすすめの調理法が書かれている。かにはチリソースと汁、アバサ(ハリセンボン)は汁と唐揚げ、高級魚のイラブチャーは刺身か唐揚げ、うしえびは塩焼きやバター焼きからチリソースにフライと幅広い。

 ここ数年は中国からの観光客が増えたこともあり、中国語の案内もある。案内だけでは対応しきれず、鮮魚部には中国語を話せる従業員を雇う店が増えており、「長嶺鮮魚」にも中国語が話せる従業員が二人いる。そのうちのひとり、山城蓉子さんは中国の福建省出身だ。

「私が生まれたのは福建省の廈門というところで、今年で58歳です。日本にきたのは30年前で、最初は日本語学校で日本語を勉強してましたね。そのうちに旦那と知り合って、結婚してずっと住んでますね。最初は二階にある『きらく』という食堂で20年近く働いてたんだけど、孫が生まれて辞めたんですよ。中国だと、おばあちゃんが孫の面倒を見るのは当たり前だから。でも、孫が保育園に通うようになって余裕が出来たときに、『最近は中国人観光客が多いから働いてくれないか』と言われて、働くようになったんです」

 沖縄を訪れる中国人観光客は、この10年で急増した。特に多いのは夏休みと旧正月だ。

「昔は旧正月になると家族が集まって過ごしてたんだけど、今の若い人の家には仏壇もないからね。だから旧正月でもおうちで過ごす人は少なくなって、それで旅行に出かけるわけ。あと、2001年にビザの仕組みが変わったでしょう。最初に沖縄で1泊すれば、そこからは自由に日本に滞在できるビザが出来たんですよ。一度に滞在できるのは30日までだけど、そのあと3年間は何度でも日本にこれる。これもあって、沖縄にくる観光客が増えてるんですよ」

 蓉子さんが来日した時代には、中国からやってくるのは留学生が多かった。でも、中国経済が成長するにつれて留学生は少なくなり、観光客が増えている。ただ、公設市場でアルバイトしている中国人は留学生が多いのだという。

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「今はもう、中国語をしゃべれないと駄目だっていうぐらい中国のお客さんが多いですよ。80パーセント近くが中国のお客さんという感じ。中国は水が駄目だから、生では食べられないけど、日本は生で食べられる。それが珍しいから、皆さんすごくたくさん買い物していきますよ。4、5名できたお客さんでも、10万円から20万円も食べたりする。ただ、せっかく日本に来たんだから日本人と話がしたいと思う人もいて、そうすると中国人の店員じゃなくて、日本人の店員に話しかけるお客さんもいますね」

 店頭でのやりとりを眺めていると、蓉子さんだけでなく、次江さんもまた中国語で接客していることに気づく。「『食事していきますか?』とか、『手数料はいくらですよ』とか、そういう基本的なことは話せるようになったんですけど、普通の会話は出来ないんですよ」。次江さんはそう言って笑った。
 最初は伯母と二人で営んでいた「長嶺鮮魚」だが、現在では7名の従業員を抱えている。次江さんは社長であるにもかかわらず、今も朝7時から夜8時まで店頭に立ち続ける。80歳を過ぎた今も、そんなに働くのはなぜだろう?

「何でと言われても、お客さんと話すのは面白いからね。小さい子供もいれば大人もいる、おじいちゃんおばあちゃんもいる。こうやって働いていると、いろんな人と話せるでしょう。お店というのは面白いですよ。地元のお客さんがくれば方言で話して、内地のお客さんがくれば標準語で話す。昔は方言しか話せなかったけど、今は標準語も上手になってるさ。今度は中国のお客さんがくるようになって、中国語で話しかけたりね。明日はどんなお客さんと会うかなと考えると、毎日楽しいですよ。そうじゃなかったらこの仕事はできないですね」

 話を伺っていたところに、さきほど「長嶺鮮魚」で買い物した観光客が通りがかった。次江さんはすぐに笑顔を向け、「どうでしたか、おいしく食べました?」と声をかける。観光客は「美味しかったです、立派でびっくりしました」とお礼を言って、満足した顔で去ってゆく。