09「平田漬物店」
正午を過ぎると、市場で働く人たちもお昼時を迎える。「平田漬物店」の前を通りかかると、玉城文也さんが身を小さくしながら帳場でお昼ごはんを食べているところだ。
「この時間は二階の食堂が忙しくなるから、一階はちょっと暇なんです」。文也さんはそう教えてくれた。「でも、いつお客さんがいらっしゃるかわからないんで、いつもここで食べてますね。今日は二階の『がんじゅう堂』ってお店の味噌汁です。沖縄の味噌汁は具だくさんで、お肉ももやしも豆腐も入っていて、どんぶり一杯ぐらいあるんです。これだけでおかずになっちゃうぐらいなんですよね。スピード勝負で、急いで食べなきゃいけないんですけど、やっぱり昼飯が一番の楽しみですね」
あっという間に食事を終えると、文也さんは仕事に戻り、通りかかった観光客に漬物を勧める。にこやかに声をかけて、島らっきょうを箸でつまみ、ひょいっと手のひらに渡して試食させる。立ち止まったお客さんには、次から次へといろんな漬物を出す。味の異なる漬物をつまむ前に、容器の淵に箸を打ちつける。そのたびに小気味いい音が響く。その箸さばきに見惚れる。
「お店の手伝いは、小さい頃から当たり前のようにやってましたね。やっていたというか、やらされてたというか(笑)。『お客さんに挨拶しなさい』と言われたり、店の片づけを手伝ったり、商品をパックに詰めたり。スクガラスを瓶に詰めるのも、別に適当に入れてもいいんでしょうけど、向きを揃えてびっしり綺麗に詰めるんです。見栄えで売上が変わるっていう商売人の考えがあったんでしょうね、小さい頃から『綺麗に並べたほうが売れるよ』と言われてましたね」
漬物店を始めたのは、文也さんの祖母・平田文子さん。昭和4年生まれの文子さんが漬物店を創業したのは、戦争が終わって間もない頃だという。
「おばあちゃんが始めた頃は、まだ青空市場と呼ばれていた時代ですね。このあたりはもともと闇市で、天井もないような市場だったんです。戦後すぐで、食べ物もそんなにない時代だったから、長く置いておけるものはないかということで、漬物を売り始めたみたいです。沖縄にはもともと塩漬けの文化があって、豚バラ肉を塩漬けにしたスーチカーや、アイゴの稚魚・スクを塩漬けにしたスクガラスはずっと昔から食べられてるんです。その塩漬けの文化を参考にして、うちのおばあちゃんが島らっきょうを塩漬けにして売り始めたと聞いてますね」
文也さんは平成元年、四人兄弟の末っ子として生まれた。「平田漬物店」の三代目にあたる。小さい頃から祖父母や両親の仕事ぶりを見て育ち、店も手伝っていたけれど、「いつか継ごう」と思っていたわけではなかった。父・鷹雄さんは「俺の代で終わらせる」と言っていて、文也さん自身も一度沖縄を出てみたいという思いが強かった。スプレーアートからデザインに興味を抱き、高校を卒業すると福岡の専門学校に通い、卒業後は念願叶ってデザイナーとして働いていた。ただ、沖縄を離れても、店のことは頭の片隅に残り続けていたという。
「デザインの仕事を選んだのは、『いつかはうちの店の商品パッケージを作れたらいいな』と思っていたこともあるんです。実際、福岡でデザイナーの仕事をしている頃に『お前、作れるか』と頼まれて、パソコンさえあればデータは送れるから、パッケージを作ったり、レジ袋を作ったり、お店のポロシャツを作ったりしてましたね」
「平田漬物店」で働く人は皆、文也さんがデザインしたポロシャツと前掛けを身にまとっている。文也さんの長兄・康鷹さんは公設市場で「WAZOKU ism」という酒屋さんをやっていて、文也さんがデザインした数々のグッズはここで販売されている。そうして福岡でデザイナーとして働いていた文也さんが帰郷することになったのは、父の鷹雄さんが体調を崩したことがきっかけだった。
「うちの兄ちゃんたちも皆、一度は沖縄を離れてるんです。兄ちゃんたちは先に沖縄に戻ってたんですけど、僕が27歳のときに父ちゃんが体調を崩したことがあって。それで『店を続けるなら、兄弟全員でやったほうがいいんじゃないか』って話になったんです。そのとき、沖縄に戻るかどうか、正直ちょっと迷ったところもあるんです。でも、当時働いていたデザイン会社の社長と相談したら、『会社を立ち上げるのは簡単だけど、それを継続するのがいちばん大変なんだ』と話してくれて。『お前の実家は70年近く続いているんだから、それは残したほうがいいんじゃないか』と背中を押してくれて、店を継ぐことに決めたんです」
小さい頃から手伝いをしていたこともあり、漬物屋の仕事にはすぐ慣れた。「仕事をしないと食べていけないっていうことで叩き込まれてたので、全然苦になることはなかったですね」。文也さんはそう語る。父・鷹雄さんもすっかり元気になり、親子二代で店を切り盛りしている。
「うちの父ちゃんはリーゼントで、CMにもちょこちょこ出てる名物おじさんなんです。だから、買い物にくるっていうより、おばあちゃんや父ちゃんに会いにくるお客さんは昔から多かったんですよね。市場は相対売りがメインだから、おしゃべりしながら商売する。今はスーパーが増えたから、こういう昔ながらの相対売りは珍しくなったんで、それを楽しみに遊びにきてくれるお客さんも多いですよ。だからやっぱり、『お父さんのときはこうだったのに』と思わせないように、自分が見て育ったスタイルを受け継ぎながらやってます」
お客さんの反応は温かかった。「これからはあなたたち息子が頑張っていかないとね」と励ましてくれる人もいた。「家族全員商売人だから、おしゃべりが好きなんです」。文也さんはそう言って笑いながら、通りかかった観光客に「よかったら食べてみて」と漬物を差し出す。売りつけようとするのではなく、ごく自然に差し出されるせいか、観光客は手のひらを差し出して漬物を試食してゆく。
「今の時代、スーパーに行けばパックで漬物を売ってますけど、秤売りのほうがいいと言ってくれるお客さんもいますし、そこは昔ながらのスタイルを変えずにやっていきたいと思ってますね。昔ながらの対面売りで、お客さんとお話をして、気に入れば買っていただく。でも、接客業は紙一重だなと思います。お話をしたときにお客さんが気分を害してしまうと、もう来てもらえなくなる。だから言葉遣いには気をつけてますね。ただ、丁寧にすればいいってものでもないんですよね。ちょっとオラオラ系な感じで接客しても、それを『可愛いね』と言ってくれる方もいる。ひとりひとり反応が違うので、お客さんの様子を見ながら勉強してます」
昔ながらのスタイルを引き継ぎながらも、時代に合わせて変えるものもある。取り扱う漬物の種類は、昔に比べると大幅に増えている。
「たとえばゴーヤの漬物となると、昔は一本漬けしかなかったですけど、細かく刻んでキムチと漬けたり、いろいろ味付けを変えて出してます。これは時代とともに変わりましたね。らっきょうも、昔は塩漬けだけでしたけど、キムチ漬けや醤油漬けを出すようになりました。お客さんの要望で味を変えることも多いですよ。時代が変わったなと思うのは、食材ですね。ばあちゃんの頃は漬物だけじゃなくて、アサリの秤売りもやってたんです。親父の代になると台湾からの観光客がすごい増えて、塩漬けの鮭やたらこ、大根のべったら漬けがバカ売れした時代ですね。最近は皆が健康志向になってきた感じはします。漬物は一個食べると血圧が一気に上がるから、大量に買っていく人がいると『大丈夫なのかな』と思ったりもします(笑)」
平成生まれの文也さんは、市場ではかなり若い世代だ。市場には高齢の店主も多く、後継者がいなくて廃業する店も少なくない。
「昔は若い人がたくさん働いている市場だったと思うんですけど、今は『おじいちゃんやおばあちゃんが働いている市場』ってイメージになっているところもありますよね。同世代で働いている人もいますけど、やっぱり少なくて。うちのおばあちゃんが漬物店を始めて72年経つんですけど、3代目として、とりあえず100年までは続けるのが目標ですね。今はこの古い建物に魅力を感じて遊びにきてくれるお客さんも多いと思うんですけど、これからどうやって市場に魅力を持たせていくか――最近は若い人たちが組合に入って、いろいろ動いているんです。昔のおじいちゃんおばあちゃんの思いは残したまま、まったく新しく、遊びに行きたくなる市場づくりをしていく。それが若者の仕事かなと思っています」
近くのベンチに腰掛けて、お父さんと一緒に接客する文也さんの姿を眺めながら、「平田漬物店」が100周年を迎える日のことを想像する。その頃には文也さんも還暦が近づき、ベテラン世代になっているはずだ。その頃の市場にはどんな時間が流れているだろう?