14「大和屋パン」
市場中央通りを南に進むと、右手に小さな路地が見えてくる。かつて「惣菜通り」と呼ばれた路地で、名前の通り、何軒もの惣菜屋さんが軒を連ねていた。市場界隈の店は、昔は早朝から夜遅くまで営業しているところも多くあり、食事の支度どころではないという店主も少なくなかった。そこで自宅でご飯だけ炊いてきて、惣菜通りでおかずを購入し、ごはんを済ませていたのだという。今では「かりゆし通り」と看板の掲げられたこの通りで、古くから営業を続ける店がある。「大和屋パン」だ。
「パン屋を始めたのは、私の叔父なんです」。現在「大和屋パン」を切り盛りしている金城勝子さんはそう語る。彼女の叔父・山口賢明さんは、戦後いくつかの仕事を転々としたのち、パン屋という商売にたどり着く。賢明さんは自宅を工場としてパンを作り、それを母・山口ウトさん――勝子さんからすると祖母にあたる――に預け、惣菜通りで販売してもらっていたのだという。
「私は昭和二十四年生まれだけど、気がついたときにはもうパン屋を始めてたから、創業七十年近くになるんじゃないかね。私が小さい頃はね、すごく売れてましたよ。当時は工場まで仲卸の人がパンを買い付けにきて、あちこちにある雑貨店に売りにいくわけ。この人はこの地域、この人はこの地域と決まっていて、二十人ぐらいの人が売って歩く。まだ車なんかない時代だから、頭に箱を載せて運んでたよ」
内地に比べると、沖縄はパン食の普及が早かった。一九七〇年、『琉球大学農学部学術報告』に発表された「沖縄における穀類の消費構造について」という論文では、内地に比べると「那覇市の米食率は低く、パン食率がかなり高」く、「朝食、昼食とも、トーストが多く、サンドイッチは案外少ない」「その他、菓子パンが比較的多い」という指摘がなされていた。
「私もね、小さい頃からしょっちゅうパンを食べてたよ。食べるのは菓子パンが多くて、だからずっと小太りだったさ。今は皆、車でいろんなとこに遊びに行くけど、あの時代は公休日になると市場で楽しむっていうのが主で、子供の遊び場も市場だったわけ。土曜日になると遊びにきて、おばあちゃんにパンとお小遣いをもらって、おそばとぜんざいを食べて帰ってたね」
勝子さんにとって、祖母のウトさんは親同然の存在だった。小学校三年のときに母を亡くした勝子さんを、ウトさんは自分の子供のように可愛がってくれた。
「私は内孫じゃなくて外孫だったのに、大事に育ててもらったわけ。一緒に住んでたわけじゃないのに、経済面ではすごく援助してもらって、制服もおばあちゃんが買ってくれて。お小遣いもくれて、貧乏ではあっても、困らん程度には過ごせてたよ。怒るということを知らなくて、とっても情に厚くて良い人で、皆から愛されてたよ。すごいのはね、私が嫁いだあとも、お肉やお菓子を持ってきてくれるわけ。その恩返しも出来ないうちに亡くなってしまったけど、ほんとに天使様みたいな人だったね」
高校を卒業すると、勝子さんはパン工場で働いた。七年ほど勤めたのち、結婚を機に退職し、三人の子供を育てた。再び働きに出たのは、四十代半ばの頃のことだという。
「最初は県庁前にあるショッピングセンターのパレットくもじで面接を受けたんだけど、年齢で断られたわけよ。その次にダイエーのおもちゃ売り場の面接に行くと、差し引き計算のテストがあったのよ。『何円の商品を買ったお客様が、何円札を出しました、お釣りはいくらですか』と。私はソロバンをやってたから、計算は得意だけど、一緒に面接を受けた若い子は計算が苦手だったのよ。それで面接に受かって、ダイエーで働き始めたわけ」
勝子さんが勤めていたのは、沖映通りにあった「ダイエー」(那覇店)だ。一九七五年に「那覇ショッパーズプラザ」として創業すると、人の流れが変わったのだと勝子さんは振り返る。それまで公設市場で買い物をしていたお客さんも、百貨店で買い物をしていたお客さんも「那覇ショッパーズプラザ」に足を運ぶようになったのだという。
「あのときは人の流れがすごかったよ。沖映通りを歩く人は皆、ダイエーに行きよったね。忘れられないのは、オープンのとき、ヘリコプターでチラシを撒いてたこと。そのぐらいお金をかけて宣伝してたよ。あのときの大型店というと、国際通りに山形屋と三越、百貨店が二つあったわけ。百貨店で売っているのは高級品だけど、ダイエーはスーパーだから、いろんなものが安く手に入るでしょう。だからダイエーがオープンした当時は、百貨店に入ってもお客さんがいなかったね」
働き始めてまもなく準社員に登用され、忙しく働く日々が続く。そんな勝子さんがパン屋さんを継ぐことになったのは、「大和屋パン」が倒産してしまったことにある。
「工場は閉めることになったんだけど、叔父さんが『惣菜通りの店を引き継がないか』と声をかけてくれたわけ。おもちゃ売り場の仕事も楽しかったけど、人に使われる仕事は飽きがくるでしょう。ちょうど辞めたいなと思っていたのと、おばあちゃんがやってた店を残したいという気持ちもあって、ここでパン屋を継ぐことにしたのよ。それが一九九六年のことだね」
いきなりパン屋を始めるのは大変だろうと、最初の二年間は叔母が一緒に働いてくれて、ノウハウを教えてくれた。その頃には市場界隈に観光客が増え始めていたこともあり、パンだけでなく、ちんすこうなど土産物も販売していた。
「昔は地元のお客さんがほとんどだったから、パンがよく売れてたわけ。でも、あちこちにスーパーやコンビニが出来ると、よそで買うお客さんが増えてきて。この通りだけでもパン屋さんが三軒あって、昔はどこも売れてたのよ。この通り以外にも、沖縄では有名なぐしけんパンやオキコ、第一パンも近くに出店したけど、単価が安くて利潤も薄いから、やっぱり厳しいさーね。今は皆潰れてしまって、残っているのはうちだけ。惣菜屋さんも少しずつ閉店してしまって、ここ数年で一軒もなくなったね」
お店を継いで二十年のうちに、状況は様変わりした。当初は小禄にあるビジョンという会社からパンを仕入れていたけれど、そこも倒産してしまい、現在は三つの会社からパンを仕入れている。その関係もあり、現在の「大和屋パン」の開店時刻は十二時と遅めに設定されている。「ほんとは十時くらいに開けられるといいんだけど、仕入れ先の都合もあるからね」と勝子さんは語る。
アンパンやクリームパン、カレーパンにメロンパンと定番商品がずらりと並んでいる。菓子パンが多く、うぐいすパンやかぼちゃパン、紅いもパンや田いもパンもある。沖縄では定番だという、パン生地を渦巻き状にロールして、あいだに生クリームやいちごジャムを挟んだ菓子パンもある。
話を聞かせてもらったのは夕暮れ時で、ひっきりなしにお客さんがやってきた。この日は食パンがよく売れた。お客さんの要望を聞き、勝子さんはパンをスライスする。
「月の初めは菓子パンがよく売れるけど、月末になると食パンがよく売れるのよ。月末というのは、給料日前だからね。菓子パンを何個も買うと何百円かになるけど、食パンなら安上がりさーね。自分の好みの厚さに切ってくれという人もいれば、家族の人数に合わせて切ってくれという人もいますよ。それはね、『菓子パン一個ください』というのは気兼ねする人が多いということでもあるわけ。私も雑貨店に行くと、一個だけというのは買いきれんわけさ。沖縄の人は情が深い人が多いから、一個だけだと申し訳なくて、何個か買っていくのよ。そんなお客さんが多いから、物を売る前に人を売る商売をしないとね。殿様商売では駄目。いつも買い物に来てくれる方には、『いつもありがとう』と手を握ってお釣りを渡すときもある。感謝してるから、自然にそうなるわけ。そんなふうにやっているから、まだ成り立ってるんじゃないかね」
帳場に置かれた公衆電話が鳴る。どうやら近所から注文が入ったようだ。注文があれば、勝子さんは店を空けて配達に出る。界隈にある喫茶店には「大和屋パン」から仕入れをする店も多く、店を閉めたあとで納品に出かけてゆく店もある。
「今から配達に行ってくるから、ちょっと店番しててくれる?」。勝子さんはそう言い残すと、駆け足で出かけて行った。僕は出来うる限りの笑顔を浮かべて、どぎまぎした気持ちで店番をした。