新橋のB書店に向かう。B書店は古くから『本の雑誌』を取り扱ってくれているお店で、そのつきあいは長い。目黒考二著『本の雑誌風雲録』で記されているような配本部隊が通っていた頃からのお店である。もちろん今は取次さんを通しての扱いになっているが、本の雑誌社の直時代を知っている数少ない書店さんだ。
新橋駅を降り、駅前の汽車を横目に見ながら、徒歩数分。数十坪の小さなお店だが、サラリーマンの客足は途絶えない。都市部の、町の書店だ。
僕は、赤信号で足を止め、目の前をB書店を見てハッとした。いつもなら棚に収まった本や、窓に貼られたポスター、お客さん姿が、混在してカラフルに目に映るはずなのに、今日はなぜかモノクロな風景。一瞬、道を間違えたのか思い、辺りを見回したが、間違いなくB書店の十字路。冷静さを取り戻すように、横断歩道の向こうのB書店を見つめると、ガランとした店内が見える。見えてきたものによって、また僕は呆然とする。 店内で、数人の男性がハンマーを振りかざし、棚を壊しているのだ。破壊的な音が、窓から漏れてくる。その窓には何か小さな張り紙がある。一瞬にしてすべてを理解する。「頼む、リニューアルであってくれ!」窓に貼られた紙に祈りを捧げる。
信号が青に変わり、数歩進んで見えた文字は、「閉店」だった。
B書店のN店長はとても気さくで、人柄の温かい人だった。僕が毎月顔を出すたび、笑顔で迎えてくれて、バックヤードの小さな部屋でいろんな話を聞かせてくれた。本のこと、商売のこと、出版のこと、長い経験を積んだ話はとても面白く、また興味深いことばかりだった。また、ときには業界のことを離れ、N店長の子供の時話や娘さんとの山登りの話など、いろんな話をN店長の柔和な口から聞いた。自分の父親から聞いたら、素直に耳を傾けられないようなことも、素直に聞けた。そして僕がその時その時持っている悩みのようなものにも、的確なアドバイスをくれた。
僕はそんなN店長の話が大好きだった。いつも、N店長との話を終え、店を出る際に「ありがとうございました。」と声をかけるのは、仕事の意味ではなく、もっともっと人間的な感謝の気持ちだった。
そのN店長のお店が、今、閉店する瞬間だった。 店内を埋めていた書籍はすでになく、また平台や棚もあらかたハンマーによって壊されていた。「バッコーン」「ガッターン」と打ちつけるハンマー、部屋に飛び散る木片、19年間の埃、あっと言う間に店はなくなる。これも商売の生存競争なのかもしれない。言葉ではわかっているが、感情は追いつかない。涙があふれそうになる。 もう、N店長と会えないのか…、呆然とドアからその最後の景色を眺めていた。
ふっと気付くと、奥の方で最後に残った平台に座る人影が見える。こちらからは後ろ姿しか見えないが、その後ろ姿だけで、それがN店長と気づく。僕は、歩み寄ろうとしたが足が動かない。どんな言葉をかければいいのか……。 N店長の哀しみは、僕の何十倍のはずだ。15年近く寝食を共にしてきたお店が、今、なくなろうとしているのだ。そのことを考えると声をかけるのもはばかられた。 どうしたものか…と悩んだが、ここで声をかけなければ今後、一生N店長と会う機会も失われてしまうような気がした。それは悲しすぎる。ためらう気持ちを振り払い、声を、かけた。
壊された棚の山がうず高く積まれた店内で、N店長と二人で話をした。じっと二人で壊された棚を見つめながら話をした。
N店長の言葉の断片。
「やっぱり最後に残るのは人間関係だよね。もう、この年になって、普通に仕事を探したら見つかるわけないよ。でも、今までのつきあいで、2つ3つ声をかけてくれている人がいるんだ。ほんと人だよね。社会は人が作っているんだから、当たり前だよね。でもそのことを分かってない人が多すぎるんだよね…。
昨日から娘と一緒にマラソンをしだしたんだ。体が丈夫じゃないと、気持ちも滅入るからさ。体力に自信がないとダメだよね。
また、次が決まったら連絡するよ。」
僕は、大きな声で「ありがとうございました。」と声をかけ、店を出た。