西武池袋線を営業していたところ、事務の浜田から携帯に電話が入る。この電話に出なければ僕は幸せな一日を遅れたはずなのに、ついつい通話ボタンを押してしまい、今後に続く最悪な一日がスタートした。
「杉江さん、ちょっとお願いがあるんですが…」
と浜田は言い淀みつつも、僕の返事を待たずに要件を切り出した。
「編集部が深夜プラス1に本の注文をしていて、ちょっとそれをついでに取ってきて欲しいんですけど」
「ついで」といっても僕が今いるのは東京郊外で、どう考えても「ついで」ではない。おまけに本日夜、僕は書店さんとの飲み会があり直帰する予定だったのだ。
「でも、オレ、今日会社に戻らないんだけど」
若干不満のニュアンスを含ませて応対すると
「あっ、いいんです、受け取って月曜日に持ってきてくれれば」
と切り替えされる。どうしても取ってきて欲しいらしいのだ。ならば、その飲み会も飯田橋であるから確かに「ついで」になるかと考え直す。しかし一瞬嫌な予感がしたので、その「量」を確かめた。
「あのさ、何? どれくらい?」
「えーっと、えーっと、2000円くらいです」
と浜田は答えた。本の量を聞いているのに、その値段を答えるのはおかしいんじゃないか。どうして何冊と答えないのか少しだけ疑問に感じたが、まあ2000円なら文庫で4冊、単行本なら2冊が限度だろうと、渋々了解したのであった。
営業を早めに切り上げ、飯田橋駅にたどり着いたのが5時過ぎ。深夜プラス1の浅沼さんから本を受け取り、近辺を営業して、ちょうど飲み会の待ち合わせ時間6時。なんてぴったりな行動なんだろうと一人悦に入りつつ、深夜プラス1へ。
「すいません、編集部の注文を受け取りに来たんですが」
と声をかけると、いきなり浅沼さんは写真集やエロ本を取り上げ出す。お決まりの冗談に、「いい加減にしてください」と突っ込みを入れると、ハハハと笑いながら今度は分厚い少年漫画誌を詰め込み出す。今日はやけにしつこいなと思いつつ、
「浅沼さん、わかりましたから、本当の注文をください」
と再度突っ込みをいれたところ、
「いや、杉江君、本当にこれが編集部の注文なんだよ」
深夜プラス1を出たときには、僕の両手に大きな紙袋がふたつ。あの分厚い少年漫画誌が計8冊も入っているのだ。値段は確かに2000円ちょっと。両手はブルブルと震えていた。それは本の重さ以上に怒りの震えであった。
こんなものを一度持ち帰って出社しろというのか? ただでさえ重いのに、この後酒を飲んでまともに帰れる訳がない。酔っぱらった僕が、どこかに捨てる可能性は大。もし、万が一持ち帰ったとしても翌月曜日にこんなものを持って超満員の埼京線に乗る自信もない。しかし会社に戻っている時間はない。6時の約束はもうすぐなのだ。おまけにこんなものを持ってこの後、営業を続けることも出来ない。思わず飯田橋の駅前で、一歩進んでまた戻りの繰り返し。どうしたら良いんだと呆然と立ちつくす。
結局、僕は一旦会社に戻ることにした。飲み会の相手には1時間ほど遅れますとお伝えして…。
総武線の中で、怒りがこみ上げてくる。初めからわかっていたのになぜ言わなかったのか? 本の量を聞いたときになぜ内容を言わなかったのか? 全部が全部不満である。ここ数年、僕は会社で怒ったり叱ったりすることを控えていた。それは、小さな会社で誰かが声を荒らげると、全体に影響することを感じたからだ。その時以来僕は、ムードメーカーになろうと決意し、一切小言を言うのを辞めていた。しかし今日は我慢できない。これは絶対に怒るべきだと考えていると、足は自然と速くなる。
容疑者その1 事務の浜田
彼女は、助っ人の仕事を管理している。本日編集部からあがったこの受け取りの仕事を助っ人が少なかったため、僕に依頼したのだろう。それはまあ許す。しかし、内容を知っていながらそのことを告げなかった罪は重い。
容疑者その2 編集の松村
この仕事を出した張本人。浜田のミスでない可能性があるとしたら、松村が浜田に内容をしっかり伝えなかったということ。こちらの罪は浜田以上に重い。
容疑者その3 全員
たまには杉江をおちょくってやろうと社内中で発案。この場合、僕はただちに辞表を叩きつけよう!
さて、どう始末してやろうかと考えつつ、笹塚10号通りを歩いていた。いや、ほんとのところは、そんな深く考える余裕なんてまるでなく、ただただこみ上げてくる怒りを静めるので精一杯であった。
会社のドアを乱暴に開け、「どういうことだ!」とふたりの容疑者を睨んだ。すると<容疑者1>浜田は「あれ?杉江さん直帰じゃないんですか? どっか具合でも悪くなったんですか」と凄まじいおとぼけをかますではないか。「これだよ!」と証拠物件を机の上に投げ出すと、浜田もビックリ!
「えっ、こんなにあったんですか!」と僕が深夜プラス1の浅沼さんの前でした顔と同じ顔をするではないか。元々浜田は演技が下手なだけに、これは犯人ではないとこちらもピンと来た。お前はウソをついていない。では次なる<容疑者2>松村の仕業か?
すると松村、僕の大声と大魔人のような顔に驚き、あわてて奥から飛び出してきた。僕をはめた割には焦っているのがわかる。しかし松村は日頃著者という一筋縄ではいかない人達の相手をしているだけに油断はできない。
「すみません、すみません、あれこんなに大きいんですか? 『少年ジャンプ』って…。いや知りませんでした、ほんとにすみません」
ついその言葉を聞いて、思わず弱い口調になってしまう。
「えっ、松村さん『ジャンプ』知らないの?」
「えっ、あっ、はい。わたしコミック誌全然知らないんです。いや他にも知らないことがいっぱいあって、ほんとわたしはダメなんです。どうもすみません」
いや、そんなことは聞いていないんだというほど、あれも知らないこれも知らないと発言するではないか。確かに松村は炭疽菌を知らなかったけれど、まさか『ジャンプ』を知らないとは…。しかしその言葉はウソではなかった。浜本も金子も朝から不在で、ということは、犯人は誰もいなくなってしまった…。
僕はこの怒りをどこに下ろしたら良いのかわからなくなってしまった。被害者はいるのに、犯人がいないのではどうすることもできない。それどころが異様に怒っている僕がまるでおかしな人のように浮いている。ああ、どうしてこうなってしまったのか。悶絶の苦しみのなか、再度飲み会の飯田橋へ向って走った。
ああ、チクショー!!!