WEB本の雑誌

« 2002年4月 | 2002年5月 | 2002年6月 »

5月31日(金)

 02年日韓共催のW杯がついに開幕。フランス対セネガルといういきなり歴史的問題を抱えた興味深い開幕戦。しかし僕はもちろん韓国にもおらず、あろうことかテレビの前にもいられない。なぜなら岸和田の怪人・中場利一氏が『岸和田少年愚連隊』シリーズ完結記念で上京して来てくれたからだ。こうなってしまったらW杯どころではない。

 中場さんにお会いするのは初めてだったので、とりあえず名刺交換。サンスポでW杯コラムを連載していると聞いていたので
「中場さん、W杯はどこが優勝ですか?」と何げなく質問してすると
「そやな…。まず頑張って欲しいのはフーリガンだ。フーリガン対大阪府警が一番の見せどころやな。あんな透明な楯つくたって、接近戦には弱いでぇ。フーリガンがみんなしがみついて、いいおみやげになるんちゃうか。そんでその次はフーリガン対広島暴走族だな」ともう岸和田ワールドまっしぐら。

 僕は、営業という仕事柄、かなり多くの人に会ってきた自信がある。けれどこの中場さんほど面白い人に会ったことはないような気がする。本日7時から飲み始めたのだが、あっという間に時計は12時を回り、その間、中場さんのトークによって3分間隔で大爆笑させられてしまったほど。筋トレなんかしなくても、腹筋がゴワゴワになるほど痛いのなんの。いったいどうして中場さんはこんなに面白い発想が出来るんだろうか?と頭の中味を調べたくなったが、もしそんなことをしたら僕が頭をカチ割られるは間違いないだろう。


 中場さんで思い出したが、先日読者の方からお問い合わせを受け調べたところ、なんとあのデビュー作であり、名作の『岸和田少年愚連隊』が幻冬舎文庫で品切れ重版未定だというではないか。単行本を製作した版元としてこんなやるせない事態はない。あれほど文庫に欲しいと打診しておきながら、いざ作ればたった1年程度で終わりだなんてちょっと信じられない。売れないのならともかく、僕は多くの書店さんで棚回転が良いと聞いていたし、うちの単行本だって非常に長く売れていたのだ。いったい、どういうことなんだ?

 こちらはまさに生みの親であり、育ての親。文庫に出すというのは、結婚で娘を奪われる哀しい親の気持ちというもの。どれほどツライ気分で送り出したかわかっているのだろうか? おまけに正編『岸和田少年愚連隊』が読めないのであれば、それに続くシリーズもある種無意味になってしまうではないか。納得できないこと尽くめに、憤りを感じてしまう。もうこうなったら単行本を再度増刷してしまおうかと考えている次第。

 いやはや、著者の皆さん。文庫は確かに普及版かもしれませんが、その普及期間は年々短くなる傾向にあります。かつてのように名作を長く受け入れる容器ではなくなって来ております。もしその文庫の在庫がなくなった場合、その作品は<この世に存在しない本>になる可能性も大きいです。文庫化の際は、このような点をご考慮下さい。

5月30日(木)

 気のせいかもしれないが、都内に外国人が増えているような気がする。先日も横浜へ向かう際、京浜東北線でアルゼンチンサポーターと隣り合わせで座った。彼らは二人組で、かたやスキンヘッド、かたやサングラス、そしてふたりともアルゼンチン代表のユニを着込んでいた。一見強面に見えるが、まあ、その程度なら駒場にもいるしと片言の英語…ではなく、固有名詞だけで会話を試みる。

「アルゼンチーナ?」
「○?×△◆!」(そうだ!とたぶん言っている)
「シメオネ、ベロン?」
「!◆&”#$&○?×△◆!」(おお、知っているのかアミーゴ。オレはこんな遠くまで来て知っている奴に会えてうれしいぜ…とたぶん言っている)
 調子に乗って僕は固有名詞を連発!
「クラウディオ・ロペス、オルテガ、マラドーナラ」
「$&○?×△◆!!◆&”#」(お前は最高の日本人だ。仕事中でなければ一杯奢りたい気分だぜ…とたぶん言っている)

 そしてここでアルゼンチンファンなら誰もが気になっている核心の質問を浴びせてみた。
「バティorクレスポ?」
「!◆&”#$&○?×△◆!!◆&”#$&○?×△◆!”◆&”#$&○?×△◆!」(オレは決定力のあるバティが好きなんだが、こいつはクレスポのファンなんだ。出来れば二人の強力ツートップを見たいけど、あの監督はそんなことをしないだろう。まあ、どっちが出たって優勝だぜ…と言っているはず)

 噛み合っているのか、噛み合っていないのか、たぶん一番わかっていなかったのは本人達だろう。とにかく、最後だけは文法に則り、しっかりとした言葉を伝えようと中学校の英語の教科書を必死に思い出す。

「ユー…、ウィル…、ビー、チャンピオン」

 二人はがっしりと握手を求めてきたので、まあ伝わったのだろうと一安心。しかしコイツら、信じられないことに横浜まで行かず、東神奈川で下車するではないか。ひとり残された僕は、周りの乗客に冷たい視線を投げつけられてしまったではないか。

 おまけに会社に戻ってこの出来事を話したら、編集の金子が鋭い一言。
「スギエッチさぁ…。アルゼンチンは英語じゃなくて、スペイン語じゃないの?」

 ああ。何をやっているんだか。

5月29日(水)

 中央線を営業。立川のO書店を訪問したら、不思議な本が平積みになっていた。

 お洒落な装丁でかなり大判の作り。そして厚い。「WORD '01'02 ワード文化大事典」というもの。うん?と中味を確認すると、どうも資生堂の文化事業の一環として毎週金曜日に講演会が行われていて、これはその収録を文章に起こしたものらしい。そういえば、小社刊行の『One author, One book.』の著者新元良一さんが資生堂でトークショーをやったことがあったなと、目次をペラペラしてみると、おぉ、その回も収録されているではないか。

 それにしても、講演(対談)をしたメンバーがスゴイ。例えば、川上弘美と江國香織、浅田彰と青山真治、枡野浩一と増田ミリ、内田春菊と植島啓司、おっと嶽本野ばらの名前もある。いやはや全部で50本くらい収録されているのだが、文芸関係だけでなく広いジャンルで今活躍している人達を呼んでいるようだ。

 あまり見かけない本だけに、いったいどうしたのかと担当のSさんに質問すると「これ直取引なんですよ、すごいメンバーなんで思わず交渉しちゃいました」とのこと。いやはやしっかりアンテナを張っているんだと思わず尊敬してしまう。たぶん青山ブックセンター辺りでも売っているんだろうけれど、ここ立川でこんな本をしっかり並べている本屋さんがあるとは、地元の方も幸せだ。

 その後、ポツポツと営業しながら、吉祥寺のR書店さんへ。担当のNさんとは会えず残念と思いつつ、2階のコミック売場へ『弟の家には本棚がない』の売れ行きを確認しにいく。ところがその途中にあるショーケースに思わず視線を奪われる。

 何やら動物をデフォルメしたペーパークラフトが展示されているのだが、これが異様に可愛いのだ。これは何?と考えながら辺りを見回すと店頭に同じ絵柄のポストカードが陳列されている。おお、これを切り取って張り付ければあの動物が出来るわけか…としばし見物。40種類くらいの動物があるのだが、その中には事務の浜田の好きなパンダもあった。思わず買って帰ろうかと思ったが、先日「日記の杉江さんはいい人なのに…」と嫌味を言われたことを思い出し、元に戻す。

 1年ほど前になるが、何件かの書店さんで犬の顔を魚眼レンズで撮ったポストカードが売れているんだと話されたことがあった。あのポストカードは順調に売れ続け、その後写真集になったり、ぬいぐるみになってコムサでも売られるほどになったよなと思い出す。もしかしてこのペーパークラフトも売れるんじゃないか? ちなみに名前は『アニマルクラフト』サトウナオコとあった。すでに有名なものかもしれないが…。

 何だか通常の本以外のことに感心してばかりいるが、今日は何といっても高村薫の待望の新刊『晴子情歌』(新潮社)が配本されていた。これが売れなかったら、6月の売上はいったいどうなるんだ?と不安視されているだけに、是非、是非しっかり売れて欲しい。

5月28日(火)

 ただいま社内で筋トレが流行っている。午後3時になるとチャイムが鳴り響き、各自床に散らばった書類などを片づけ、自分のスペースを作り、編集長の号令の元「イチ、ニ、サン…」と腕立て伏せを開始する。

 ……というのはまったくのウソだけど、各自家で鍛えているのは本当の話。それぞれ昨日やった腕立て、腹筋、スクワットの数を自慢するのが毎朝の日課になっているほどだ。

 苦労の多い単行本編集の金子は、ロックバンドを結成していたそのボーカルとしてステージに立つ。ある日、月1で行っている自分のライブをビデオ撮影してみたところ、あまりに貧弱でカッコ悪いことに気づき、それ以来筋トレに目覚めた。「オレのバンドはビジュアル系なんだよ」とのことだが、誰も言われるまでそのことに気づかなかった。

 続けて始めていたのは事務の浜田。彼女は日本中の女性の8割が患っていると言われる「今より5キロ痩せたい病」に取り憑かれ、いきなり筋トレにプラスして自転車通勤を始めたほどだ。おまけに三十路を前にして本人曰く「これからは重力との戦いなの、キィーーーー」と腕立て伏せに要点を置いているらしい。

 さて僕はというと、もちろん06年ドイツW杯を目指してのこと。僕のプレーで一番不足しているのは、間違いなくフィジカルの強さ。我がチーム「吉田屋レッドアダマス」で、FWをやっているのだが、どうもチビなだけにゴール前のポジション取りで突き飛ばされてしまうことが多いのだ。これを克服せずには絶対代表に呼ばれないだろうと、今まで大嫌いだった筋トレに着手。

 毎晩、「ホッヘ、ホッヘ」と情けない声を吐き出しながら、腕立て、腹筋、スクワット、背筋と1時間のトレーニング。その後は外に飛び出し、45分のランニングと20mダッシュ20本をするのが日課になりつつある。さすがに真っ暗なのでボールが蹴れないのは残念無念。仕方なく家の中でテニスボールを蹴飛ばしイメージトレーニングをしているが、これは家庭での評判が非常に悪い。

 そりゃ、いきなり僕の頭のなかだけはW杯決勝のゴールシーンになっていて、思いきりテニスボールを壁に蹴りつけりゃあ、怒られに決まってる。おまけに跳ね返ったボールが1歳の娘の頭をかすめたときたら……。いやはや日本代表までの道のりは恐ろしく遠い。

 ここまで書いていて気づいたのだが、数十年に渡って筋トレをやり続けている椎名を除けば、我が社で一番最初に筋トレをやり始めたのは発行人浜本だったのだ。確か三角窓口で腹筋が一度も出来なかったことを告白し、通販で売られているタイヤの付いた変なマシーンを買い込んだとか。あれからすでに数ヶ月。

「浜本さん、ところで、腹筋何回できるようになったんですか?」
「……。」
「いや、だからあの何とかマシーンは今使っているんですか?」
「……、もうどこにあるかわかんねぇんだよ」

 いやはや情けない三日坊主がいたもんだ。まあ、そもそも僕たちと違って動機が不純だから仕方ないか。

5月27日(月)

 快調な滑り出しの新刊『弟の家には本棚がない』の直納のため、新宿K書店さんへ。仕入で検品をしてもらっていると、顔なじみの営業マンD社のKさんと遭遇。

 かつて一度本誌にも登場願ったこのKさん。もし出版営業インパクトランキングというのがあったら、まず間違いなく1番になる方で、何といってもその風貌がスゴイ! スキンヘッドに口ひげ、おまけに身体は、日々の空手で鍛え上げられていて筋肉モリモリ。本人曰く「広島に営業に行って飲み屋に入ったら、いきなりあちらの人に深々と挨拶された」という逸話があるほどのこわもてだ。

 しかしその恐ろしげな風貌からは考えられないほど、本人はいたって優しく、腹を抱えてしまうほどの面白話術の持ち主。おまけに趣味が多彩で、火縄銃や日本刀の話は尽きることがない。いやはや、こういう個性溢れる営業マンには絶対に勝てないだろう。

 そのKさんと立ち話の後、日本橋の丸善さんへ移動。本日から始まった本の雑誌社全点フェア『ここが読書の起点です』を見に行く。

 いやはやこちらもスゴイ。自分で営業しておきながらこんなことを言うのも問題だが、フェア台の位置や展開があまりに良すぎて、とてつもないプレッシャーを感じてしまうではないか。なんと隣はハリポタ関連商品で、その隣はワールドカップフェア。こんなところに『本の雑誌』を並べて良いんだろうか。

 しかし担当のNさんは落ちついていて「大丈夫ですよ」の暖かいお言葉。「有り難い、有り難い」とまるで婆様のような呟きを吐きつつ、ポップを書く約束。

 読者の皆様、サイン本も多数入れており、特に<発作的座談会シリーズ>には、4人連名のものを作っております。是非ぜひ、お近くにお寄りの際は覗いてみてください。

5月24日(金)

 飯田橋深夜プラス1の浅沼さんイチ押し『アトランティスのこころ』S・キング著(新潮社)を読み終える。青春小説であり、成長小説であり、家庭小説であり、バクチ小説でもありその他諸々で、いろんな要素が絡まった小説の王様の感あり。

 これはS・キング嫌いを公言している顧問目黒に早く薦めなくてはと、4階に上がる、が、しかし目黒はとても不満げで「どうしてキングがそういうのを書くと薦めるわけ? 他の作家の時は知らんぷりしているのに」と怒られる。どうも他の人からも同じように薦められていた様子で、これは失敗。

 『アトランティスのこころ』の中にはいろんな小道具が出てくるのだが、その中で大事な役割をするのが少年時代に買ったグローブと不思議な老人テッドにプレゼントされた本『蠅の王』ゴールディング著(新潮文庫)なのだ。僕はこの古典を読んでいなかったので早速本屋に走った。ところがなかなか見つからず悪戦苦闘。

 うーん、こんな読者がどれほどいるのかわからないけれど、せっかく同じ版元新潮社なのだから、同時配本か、もしくはあの「今月の掘り出し物」のコーナーに展開しても良いんじゃないかと営業マンとしてちょっと考える。

 夜、千葉で書店さんと酒を飲む。面倒くさがりの僕がめずらしく自分で仕切った会で、それは是非、是非、お会いさせたい書店員さんがいたからだ。ひとりは柏のS書店Mさんで、もうひとりは銀河通信(http://www2s.biglobe.ne.jp/~yasumama/)でお馴染みの安田ママ。こちらとしてはまさに夢の共演で、お二人の話を聞いていたら、あっけなく時間は過ぎていってしまった。

 そのなかの話題でビックリしたのは、みんな本を読むとき「あとがき」や「解説」を先に読まないということだ。僕は本を読むとき、絶対にそちらから読み始め、ある程度話の方向をチェックしてから本文に入っていくのだが、皆さんそれをしては「さらな気持ち」で読書を楽しめないではないかと非難する。おかしい、みんな同じように読んでいると思ったのに。

 安田ママには「ミステリなんかだとたまにネタバレしているときがあって恐いじゃないですか」と鋭く指摘されるが、実は僕も仮性目黒病を患っているため、例えネタバレされていようともそんな解説ほとんど覚えていない。

 ところがところがその話題の間、じっと黙っていた老舗ミステリ版元T社のMさんがポツリと漏らす。

「実はわたし、最終章から読むんです」
「……。」

 沈黙の後、これには僕もビックリし、詳しく聞く。Mさん曰く「犯人が判った上でどんな書き方をしていくのかが楽しみ」だとか。さすがミステリ版元なのか、とんでもない読者なのか、そこは判断の難しいところ。

 これだけ本の読み方が人によって違うのなら、本誌の特集が出来るんじゃないか?と考える。来週出社したら浜本に話してみようと手帳にメモしつつ、武蔵野線に揺られて帰った。

5月23日(木)

 朝、郵便物を仕分けしていたら、僕宛にとても大きな封筒が送られてきた。厚さはそれほどなく、どう考えても本ではない。そして「二つ折り厳禁」の文字。いったい何?と思いながら仕分け作業を中断し、差出人の名前を確認する。しかし、見覚えのない名前が書かれていた。

 いったいこれは何なんだ?とあわてて開封すると厳重にダンボールで挟まれた一枚の色紙が出てくるではないか。そこには、なぜか浦和レッズのステッカーが貼られていて、直筆サインと3番の文字。3番…。我らが井原正巳のサインだぁ!

 話は急に変わるが、GWの4月30日。ナビスコカップホーム駒場での鹿島アントラーズ戦。前半0対0で折り返した後半、レッズが一気に攻め出す。そして2得点を挙げた。今日は押せ押せか…という雰囲気が漂いだした駒場スタジアムに目を覆うようなミスが出る。それは上記の井原のクリアーミスだった。そこから一気に攻め込まれ1点返され、もしやと考えているうちにまたその井原の絡むシーンで失点。信じられないことに楽勝のはずが終了間際に同点に追いつかれてしまったのだ。スタジアムの雰囲気は最悪な状態に変わる。怒り、嘆き、不甲斐なさ。怒号のような叫びのなか、僕は「絶対あきらめるんじゃねぇぞ」と怒鳴っていた。

 審判が時計を確認し出したその時、奇跡は起きた。我がレッズは、鹿島エンドのペナルティーエリア外側からFKを獲る。キッカーは福田。いったん右で構えたあと左に移り、GKの遠い方向からゴール前に曲がるボールを蹴った。そこに飛び込んだのは、散々失敗を繰り返した井原だった。頭で合わせたボールはゴール右隅をとらえ、ネットを揺らした。

 浦和名物バカサッカーといってしまえば、それまでだが、引き分けを覚悟した僕には興奮の勝利だった。スタンドも大いにわいた。しかしなぜかゴールを決めた井原は雄叫びを上げるのではなく、集まった選手にペコペコ頭を下げていた。

 これは家に帰ってからビデオで確認したのだが、井原はゴールを決めた後、しきりにチームメイトに「ごめん」と謝っていたのだ。それは信じられない光景だった。ゴールを決めた選手が、それも決勝ゴールを決めた選手が謝るなんて…。

 それでもしばらく考えているうちに僕は気づいた。こうやってミスをした選手が点を決めるとよく「ミスを帳消しにするゴール」と言う。しかしベテラン井原は、ミスはどんな状況でも帳消しにはならないということをわかっているのだ。ミスはミス、ゴールはゴール。それは完全に別物なのだと。ドラマチックな勝ち方よりも無失点で勝つことの方が、どれだけチームにとってもサポーターにとっても大事なことだとわかっていたのだ。だからこそ、謙虚に謝り続けたのだ。

 その瞬間、僕の井原への想いが劇的に変わった。今までどうしても井原は「青」の意識が抜けずにいた。青は、マリノスのカラーであり、日本代表のカラーだ。そして僕は、なかなか井原を仲間として認められずにいた。しかしこの日からものすごく近い存在に感じられるようになった。紛れもなくレッズのそして赤の井原に…。


 そんな風にして、僕は今、井原正巳がとても好きなのだ。しかしなぜその井原のサインが僕の手元に届けられたのか? いったい誰が?

 再度封筒の中味を確認すると、奥の方に一通の手紙が同封されていた。あわてて取り出し、読み出すと僕の謎は一気に溶けた。旧姓であれば一発でわかったのだ。そう、昨年夏に結婚退職されていった立川のO書店Sさんからの届け物だったのだ。

 その手紙には、井原のサインを手に入れ、僕に送ることになった経緯が書かれていた。そして、サインのことから思いだし、久しぶりに見た当「炎の営業日誌」の感想と、僕の営業に対する、それはそれはとても身に余る信頼の言葉が書かれていた。

 文面を追いながら、まるでドラマのように僕の頭のなかにはSさんが浮かんだ。元気な姿と笑顔、スッキリとしたしゃべり口調が鮮明に思い出された。気づいたときには目頭が熱くなっていた。

 この会社で働きだして4年半。前任者が体調を崩していたためほとんど引継もなく、ただただ、がむしゃらに書店さんの扉を開けるしかなった。営業として何が正しくて、何が間違っているか、誰も教えてくれなかった。上司もいなければ同僚もいない。基準がどこにもなかった。営業先の書店さんに教わりながら、手探りで進むことしかできなった。そして今でも自分のやり方が正しいのか自信はない。

 でも…。こうやって、例えひとりの書店員さんとはいえ、僕の仕事のやり方を信用してくれた人がいるなら、それでいいじゃないかと思えてくる。そう、僕は間違ってはいなかったんだと。それは今まで仕事をしていて感じたことのない大きな喜びであったし、自分を肯定できる数少ない瞬間だった。

 自然と涙がこぼれ落ちそうになった。でも、朝からみんなの前で泣くなんて恥ずかしすぎると思い、僕は唐突に歌い出した。そう井原のコールを。

「イハラー、イハラー、イハラー。」
 事務の浜田や経理の小林はビックリして僕を見つめる。

「イハラー、イハラー、イハラー、……。」
 その井原のコールは長く歌えずに終わった。結局涙をこらえきれなくなって、声が出なくなってしまった。

 井原のサイン以上に、Sさんからの手紙は僕の宝物だ。

5月22日(水)

 ここのところイレギュラーな仕事が重なり、思うように営業に出かけられずにいる。それはフェアであったり、イベントであったり、あるいはDMの製作であったり。どれもこれも仕事として重要なのはわかっているのだが、書店さんをしっかり訪問できないというのは、僕にとってかなりストレスとなる。

 そんななか朝の埼京線が信号機故障で遅れ、イライラが一段と募る。会社に着いたのは結局通常よりも1時間遅れ。午前中に少しデスクワークをして営業に出かけようと考えていたのだが、これでは無理。いい加減スッキリしたいので、今日一日社内にいて、一気にデスクワークを済ませることにした。

 まず、フェアの発送。運良く椎名を捕まえられたので、単行本へのサインをお願いする。快く引き受けてくれ、あの誰にも読めないミミズ文字をガシガシ書き出す。いやはや、さすがに椎名は早い。80冊近くあったというのにあっという間に終わってしまった。驚きつつ、すぐさまダンボールに詰め、出荷の手配。

 次はイベントの告知文章を書き上げ、勢いに乗って7月号の編集後記。おまけにここのところ遅れ気味の日誌は昨夜自宅で書いて送信しておいた分の手直し。メールの返事。いったい僕はどれだけの文字数を吐き出したことになるのだろうか?

 さすがに疲れたので2階に上がって在庫チェック。不足分は倉庫に連絡し、移動をかける。

 気分転換を終え、またパソコンの前に。今度はDMを作る。うーん、ネタ切れだ…としばし泣く。

 その間、何度も電話に出る。『弟の家には本棚がない』の追加注文の嵐。うれしい限り。

 それにしても、僕がいきなり電話に出るとなぜか見知っている書店さんは驚く。「まさか杉江さんが出るなんて」と。僕は電話に出なくて良いというところまで、まだ偉くはなっていないし、電話応対はかなり好きな仕事のひとつだ。みんな、お前は変わっていると言うけれど、特にクレームの電話が好きだ。

 そうこうしているうちに一日が終わる。そしてすべてのデスクワークも終わった。明日から一気に営業だ!

5月21日(火)

 イベントの企画を持って、池袋のジュンク書店さんを訪問。本来『ほんや横丁』で連載して頂いている田口さんがイベント運営の担当なのだが、扱う書籍がコミックのため、まずそちらの担当者に挨拶をしに行く。僕自身、仕事をしていて一番ツライのが、いわゆるトップダウン的な仕事をされることなので、話だけは通しておこうという考え。

 担当のHさんを訪問するが、あいにくの不在。残念に思いつつ、仕方なく階上の田口さんのところへ向かおうとした。すると、その応対をしてくれた方がいきなり「すみません、ご挨拶させて頂いて良いですか?」と予想外の言葉を投げかけてくるではないか。

 えっ、と思いつつ名刺交換させてもらうと、なんとそのTさん、他の書店さんで何度も名前をお伺いしていたTさん本人で、僕もいつかお会いしに行こうと考えていたのだ。ビックリしつつ、話を伺うと共通に面識がある書店員さんの名前がざっと挙がり、何だか初対面とは思えない不思議な展開。おまけにイベントの話をしたら、大喜びしてくれるではないか。こんな出会いがあるから、営業マンを辞められないのだ。

 今回『弟の家には本棚がない』の営業のため何軒かの書店さんでコミック売場を廻ってきた。今まで僕はほとんどコミック売場には顔を出しておらず、また面識のある文芸担当者がコミック担当になったこともなく、まったく話をお伺いする機会というのがなかった。

 これはまだ廻っている件数も、お会いしている担当者さんも少ないのでうまく言葉にできないけれど、同じ書店という仕事でありながら、どうもコミック売場と文芸書売場では何かが違うような気がしてならない。

 売れ数や売れスピード、配本システムなどはもちろん違う。しかしそれだけでなく棚の作り方や見せ方、あるいは担当者の意識。いつも文芸書の売場を廻っている僕からすると何か違和感があって、その違和感のなかに文芸書の売り方や作り方への大きなヒントが隠れているような気がする。

 これは僕の宿題として、今後もTさんを始め今回知り合ったコミック売場担当の方々に話を伺っていきたいと考えている。

5月20日(月)

 渋谷のS書店M店長さんとはとても古いツキアイ。前にも書いたことがあるけれど、かつて勤めていた医学系の出版社のときから大変お世話になっていて、僕はMさんに会う度、いろんなことを教えられてきた。

 そんなMさんのところに『弟の家には本棚がない』の営業に行ったのは先月のこと。どうも今までMさんが配属されるお店とうちの本の兼ね合いが悪く、なかなか売上に貢献することができず心苦しく思っていた。Mさん自身もそんな風に考えてくれていたらしく、いきなり『弟の家には本棚がない』のチラシを見て、「杉江くん! やっとしっかり仕事ができるかもしれない」と
喜んでくれるではないか。そうこのお店には、別フロアにドーンとコミックを展開している売場があるのだ。

 早速担当のNさんを呼んでくれ、久しぶりにMさんと真面目な商談。なんと担当のNさんが吉野さんのファンとのことで、あっという間に店頭ワゴンが決まってしまった。

 そしてそのワゴン用の看板を製作することを僕は約束していた。しかしそのようなものを印刷会社やデザイナーに発注するほど本の雑誌社にはお金もなく、また僕にはそういうものを作るセンスの欠片もない。自慢じゃないが、かつて勤めていた書店でポップを書いた際、装着して数分後に回収された経験があるのだ。

 困ったときには大きな声でブツブツ言え、というのが僕の仕事の師匠Hさんの教えなので、それに従い社内で騒いでいた。

 すると助っ人学生の浅野さんが恐る恐る「あの~、杉江さん。わたしそういうの作るの大好きなんで作りましょうか?」と救いの神になることを申し出てくれるではないか。「いやー、そんなことまで助っ人さんにやってもらっては…」と僕は一瞬困惑気な顔を作り恐縮してみたが、なぜか身体は反応し、すぐさま画材屋に走らせてしまった。どうもサラリーマンを長年続けていると、心と身体が別物になってしまって仕方ない。

 それから数日後、浅野さんが大きな袋を持って出社。話を聞くと、妙に真剣に作りたくなってしまってなんと自宅で徹夜して製作してくれたとか。出来上がった看板を見せてもらうと、まさに僕が思い描いていたものどおりの出来で、思わず感動の涙。

 感謝の気持ちを現そうと思ったが、二十歳の女性の頭を撫でるわけにもいかず、また抱きつくわけにもいかず、ただただ「ありがとう」の言葉を並べることしか出来ない。感謝を伝えるのは、怒りを伝えるより難しい。

 結局仕事をしていると、当然のことだけれど「自分ひとりでは何もできない」ということを思い知らされる。現在、今月末から行う予定の日本橋丸善さんでのフェア用にサイン本を作りまくっているのだが、その手配もほとんど事務の浜田任せ。何とも情けないほど、僕は何も出来ない。

 十代の頃非常に長かった鼻は、いつの間にか逆にへこむほど無くなってしまっている。まあ、それはそれで良いけれど、もう少し自分で出来るようにならないと周りに迷惑かけるばかりの、とんでもない人間になってしまいそう。

 どうにか持ち場の仕事である、営業でそのマイナスを取り返したいと考えている。
 浅野さん、ありがとう。

5月17日(金)

 会社に残って、W杯日本代表最終メンバーの発表を待つ。それは、誰が選ばれるのかといった意識ではなく、僕は選ばれないだろうか?といった期待からである。

 そのことを朝から社内で吠えていたのだが、発行人浜本は「ふ~ん」と言ったきり仕事に没頭し、事務の浜田には「そうですね、選ばれると良いですね」なんて妙に暖かすぎる言葉をかけらる次第。どうしてもう少し真剣に考えてくれないんだろうか?

 僕は、ここ数日自分が日本代表に選ばれることを想像し、そして選考される理由に思い当たったのである。

 まず第1に。僕は確実に選ばれるであろう中田英寿や小野伸二よりもサッカー歴が長いということ。小学校3年の時に家の隣に住んでいる素晴らしくサッカーの巧い5つ離れたお兄さんからサッカーを手ほどきされて以来、かれこれ20年が過ぎている。中田にも小野にも、その他今まで日本代表に呼ばれた多くの選手よりもきっと長い。

 その2。3年ほど前、唐突に僕は大きな勘違いに気づいた。それは、それまで考えていた利き足(右足)が間違いで、実は逆足(左足)が利き足だったということだ。蹴ってみたらいきなりスコーンとボールが飛び、最高のセンターリングを上げていた。あわてて練習した結果、今では両足で同じようにボールを扱えるようになり、右足でトラップし、左足でドリブル、再度持ち替えて右足でシュートを打つことも可能になったのだ。もちろんその逆もまったく問題ない。

 ということは、中村俊輔や名波のように、ぎこちなくどんなボールも左足に切り替える必要がないということだ。これはかなりの利点だと思われる。ただ大きな問題がひとつある。僕の両足と、中村や名波の逆足(右足)の実力差が…。

 その3。僕は今年になって自分のチーム試合で7本のシュートを決めている。これは現在代表に呼ばれているどのFWよりも多い。……。

 最後に。トルシエはフランス人だ。その母国フランスで先日行われた大統領選挙で、国民が現職を毛嫌いするあまりに極右政党に投票してしまい、とんでもない結果になったではないか。そんなやけくそな気分を持つ国民性のトルシエならば土壇場で23名のうちひとりくらいへんてこな奴を選んでくれそうではないか。

 こんなに真面目に考えていたのに、どうして会社の人達は冷たいんだろうか?と思いつつ、発表の3時半をただただ待つ。

 結果は当然というか、残念というか、僕の選出はなくガックリ。浜田も同様にガックリしているので、僕の気持ちをやっと理解してくれたのかと思ったが、話を聞くと中村俊輔が落ちたからだとか…。ああ。

 せめて誰か、僕の落選記者会見を開いてくれないかとわざわざ遅くまで残って期待していたが、誰も反応してくれない。仕方なくひとり助っ人机の上に乗り、前日から考えていたコメントを発表した。

「まだ、30歳。06年のドイツW杯のときは34歳です。まだ、充分可能性があります。それに僕は年々サッカーが巧くなっているので、大器晩成なのではないかと思います。ドイツに照準を合わせ、そのときサッカー選手としてピークが来るよう、明日からより一層努力します」

 すると奥の方から金子の「うるせぇ!」の一言。どうしてみんなこの気持ちわかってくれないんだろう。

5月16日(木)

 もし「本屋さんで一番面白い棚はどこか?」と聞かれたら、僕は「客注品取り置き棚」と答えるだろう。まあ、反則だけれど…。

 なぜ客注品の棚が面白いのかというと、そこには基本的に店頭に並んでいない本がズラリと並んいるからだ。日頃目にする機会のない本が山のようにあり、おっこんな本が出ていたのか?という発見とともに、わざわざ時間がかかっても良いから欲しいという読者が存在していることを実感できる喜びもある。

 おまけに一度に多数の本を注文したお客さんの傾向が見られるのも面白い。たいていそんな客注は輪ゴムでまとめられているのだが、その組み合わの妙に、思わず唸ってしまうほど。いやー、楽しいのなんの。

 本日も相模大野のK書店Sさんを訪問し、話し込みながら思わず客注棚に目が泳ぐ。○○全集やら僕の知らない出版社の本やら、バシバシ飛び込んでくる。唸りつつ、「面白いもんですね」とSさんに話しかけると「そうなんですよ、客注はやっぱり大変なんですけど、本が必要とされていることがわかる喜びがありますよね」と答えられる。

 そう、客注棚を眺めていると大きな勇気が湧いてくるのだ。

5月15日(水)

「うちの下の息子が今年から高校に通っているんだけど、それが学校まで電車に乗って1時間くらいかかるんだ。満員電車がイヤだとか生意気言って、朝の7時前に家を出ていくんだ。それだとガラガラなんだって。で、ゆっくり座って行けるから何かしようって考えたらしくて、『お父さん面白い本ない?』って聞かれてさあ。いやー、焦ちゃって。とりあえず、息子と同じくらいの主人公が出てくる話がいいだろうと思って、まず『GO』金城一紀著(講談社)を渡したら、あっという間に読み終わったらしくて、『この人の他の本を!』って言うんだけど、ないじゃないあと1冊しか。それで長野まゆみを何冊か渡して、その後、『僕は勉強ができない』山田詠美(新潮文庫)と『インストール』綿矢りさ(河出書房新社)って今のところ続いているんだけどねぇ。なんか本読むの楽しいみたいなんだよ。これが自分で読みたい本を見つけだせるようになったら、うれしいよねぇ。」

 と、目尻を下げたP書店のHさんが話してくれた。町の小さな本屋さんで、売上もあんまり芳しくないけれど、絶対Hさんは幸せだと僕は話を伺いながら考えていた。そしていつの日か、その息子さんがHさんの本棚をぼんやり眺める日が来たら、もっともっと幸せだろうと。

5月14日(火)

 夕刻から突然会議の招集を受ける。元々ゴールデンウィーク明けにやろうと話していた企画などの打ち合わせがのびのびになっていたのだ。浜本、金子、松村と雁首揃え、あーでもない、こーでもないと2時間半が過ぎていく。

 編集者の考えと営業マンの考えがくい違うのはこの1点に集約されると思う。それはこんな条件で

1. 内容に自信があって、売れる自信もある本
2. 内容に自信があって、でも売れる自信がない本
3. 内容に自信がなくて、でも売れる自信がある本
4. 内容に自信がなくて、売れる自信もない本

この(2)と(3)の優先順位が違うのだと。

 僕は営業だから、とにかく売れる可能性の高いものを追い求める。もちろん(1)が一番いいけれど、それが例えどんな安直な企画だとしても、上の条件で言えば、(2)より(3)が上位なのである。しかし編集者はそれに拒否反応を起こす。そんな本は作りたくない!と。

 そして変わりに挙げてくる企画といえば、これがまた営業のしづらい本なのだ。例えば無名の新人であったり、内容が今の売れ方に即していなかったり…。

 夜遅くまで、机を囲んで互いに言いたいことを言い合いながら、徐々に企画が固まっていく。そして内容だけでなく、本の判型や表紙のデザインなども決まっていく。

 これは当たり前のことだけど、営業や編集どちらか片方の意見だけで本を作っていたら大変なことになってしまうだろう。売場を見ていない本、売場だけを見ている本。どちらもかなり危険で、そのバランスを取るのが編集長や発行人の腕の見せどころだと僕は思う。

 本の雑誌社はチビ会社なのでその辺は非常にやりやすい。浜本と椎名がバランスを取ってくれるので、僕や金子や松村は安心して想っていることを好き放題言えるのだ。例えそれがすべて通らなくても、結果として少しでも反映していれば、喜びになるのは間違いないし、多くの意見を出し合った本は、少なからず売上に良い影響が出るもんだ。

 大まかな予定が決まり会議は終わった。ちなみに最後の最後までこのHPで唯一単行本化されずにいる当『炎の営業日誌』の話は出なかった。ある意味、我が社の編集者のまともさがわかって、それはそれで一安心。

5月13日(月)

 地方・小出版流通センターへ『弟の家には本棚がない』の事前注文分の短冊を持って行く。担当のKさんと初回搬入部数について打ち合わせをし、その後は業界の話。そして帰り際1枚のレポートを渡された。僕は市ヶ谷の急な坂を下りながら、ゆっくりそれを読んでいく。

 それは、僕にとっては、意識としても実質的な距離としても、かなり遠い国で起こっている悲しい争いについてのレポートだった。そして、その現地を訪れた女性をKさんの家にお呼びし、ざっくばらんに話を聞こうという会の案内でもあった。僕はしばらく外堀を眺めながらあることを考えていた。

 会社に戻り、事務の浜田にもそのレポートを渡した。真剣に読み込んだ浜田が一言ポツリと漏らす。
「Kさんって偉いですよね」
 その言葉の奥にあることが何となくわかっていたけれど、浜田の考えを確かめる意味で「何が?」と問い返してみた。

「だって、Kさんって昔からこういう社会のことを考えているじゃないですか。あんまり詳しく話してくれなかったですけど、確か学生運動のようなものをやっていたって飲んだ時に話してましたよね。でも、大抵の人はその一時期を過ぎると、すっかり忘れちゃってることって多いですよね。私の前の会社の上司はそんな人だったんですよ。そのくせ、酔うと自慢げに話していて。でもKさんは今でもしっかり社会や世界のことを見つめていて、それを今も考えているってスゴイことですよね。」

 僕が外堀を見ながら考えていたことをそのまま浜田は口にしていた。付け足すなら僕の古い知人もしっかり世界で起きていることを見つめ、そしてそのなかで知り合った思想家の言葉をどうしても本にしたくて出版社へ押し掛け、就職してしまった奴がいた。

「なんかさ、まったく興味を持っていないよね、そういうことに」
「そうですね。話せることって言ったら、新聞やテレビの聞きかじりだけ…」と浜田は答えた。
「こういう大人嫌いだったよね」
「スゴイ嫌いでした」
「参ったね……」

5月12日(日) 炎のサッカー日誌 2002.06

 なぜか毎年のようにシステムが変わるヤマザキナビスコカップ。今年はJ1、16チームを4グループに分け、ホーム&アウェー方式の予選を戦い、1位2位が決勝トーナメントへ進むW杯同様のシステムへ。確か去年は1stレグ、2ndレグとかいって、ホーム&アウェー、トータルの得失点を競ったような記憶が…。

 まあ、とにかく我が浦和レッズは、なぜかこんなときにチームパフォーマンスがぐっとあがり、本日の予選最終戦を前にDグループ1位突破を決めてしまったではないか。それはもちろんうれしいことだけれど、どうしてこの勝ち点をJリーグに取っておけないのか…。いささかその不甲斐ないリーグ順位と勝ち点を確認しJ2降格を恐れつつ、そんなことを考えてしまった。

 それでもとにかく決勝トーナメント進出はうれしい。どんな大会でもいいから優勝したい!というのが、ただいまレッズを応援する人の願いなのではないか。今後の組み合わせを見るかぎり、決勝までコマを進める可能性も少なくない。

 最悪なのはナビスコカップ優勝、J2降格なんてことだけど、サポーターが信じずして、いったい誰が信じるのだ!と気合いを入れ直し、早朝6時に列並び。そこで僕のうしろに並んだ2名おばさんサポとちょっとしたレッズ談義。

「決勝トーナメント進出が決まっても結構いるわね。」
「そうですよね、消化試合なのに…」
「消化試合? 確かにそうだけど、負けたくないわよね」
「もちろん勝たなきゃ」

 この会話に現れているのは、ある意味レッズの選手の不幸かもしれないと、試合が終わったあと気づいた。今日の試合は本来予選という意味においては勝っても負けても関係ない。上にも書いたがすでに予選1位抜けが決まっていて、完全なる消化試合なのだ。しかし、それがこのレッズの聖地<駒場>では絶対許されないことになっている恐ろしさ。僕にとっては当たり前のことだけれど、きっと選手にとってはキツイことだろうと。

 結果は最低の大敗北。なんとグランパスに1対5。試合後スタンドに挨拶に来た選手達は、大きなブーイングを浴びることとなった。僕も大声で不満を表した。

 きっと選手達は想っているだろう。「1位抜けしたというのに…」と。

 しかしやはり消化試合とはいえ、勝負は勝たなければならない。そして、それ以上に選手はどんな試合でも100%ファイトする姿勢を見せなければならないと、隣で僕同様に不満を表しているKさんの声を聞きながら感じていた。

「負けてもいいよ。でも前半で0対3なら、後半になって死ぬ気でボールを追って、せめて2対3で終わらなきゃ。」

 やっぱりレッズには消化試合なんてないんだと足早に人が減っていくスタンドに残りながら考えていた。

5月10日(金)

 助っ人学生浅野さんが、同じく助っ人学生の中川さんに向かって話かける。
「ああ、今日で十代が終わっちゃうぅ。超ショック…。」

 それを聞いていた事務の浜田の顔が一瞬ぴくりと動く。彼女とは向かい合わせに座っているのでそんな表情の変化が僕にはよくわかる。

 しかし遠く離れた助っ人机に陣取っている二人はまったく気づかず、二十代という響きに含まれたちょっとした老いについて、話し続けていた。

 浜田は顔面の右側を大きく引きつらせ硬直させていった。しかしここで不満を言えば、自分が年について気にしていることを白状することになってしまうため、じっと耐えているようであった。ちなみに浜田はあと三ヶ月で二十代よりもうひとつ上の世代に突入するのだ。

 浅野さんと中川さんの会話が続く。遅生まれの中川さんは、まだかなりの間十代で過ごせると自慢げだ。僕の前の浜田の顔は今までみたどんなホラー映画の化け物よりも恐ろしいほど憤怒の形相になっていた。

 フゥー、と深呼吸をして浜田は若干その怒りを吐き出した。しかしまだ治まりきっていないのは、眉毛のピクつきでよくわかる。

「あのさぁ、杉江さん。」
「うん?」
「杉江さんって今年で三十歳? それとももう三十歳?」

 どうしてこんな判りきったことを聞くのだろうかと思いつつも、ここで化け物に暴れられては困ると、素直に答えた。

「オレは今年の七月で31だよ。」
「ああ、そうなんだぁ、その間、杉江さんと私は二つ違いになるんだ。わたしは二十代。へぇ、杉江さんってもう完全におっさん…。キキキ。」

 結局、浜田は僕を虐げることによってガス抜きできたようだ。助っ人学生二人の命を救ったと思えば、それはそれで仕方ない。中間管理職はつらいもんだ。

5月9日(木)

 飯田橋の深夜プラス1浅沼さんを訪問すると「今年のナンバー1が出たよ!」と大興奮しているではないか。「えっ、それは先月訪問した際に聞きました『著者略歴』ですよね」と答えたら「違う!違う!『著者略歴』に判定勝ちしたんだよ」と2冊の本を渡される。『アトランティスのこころ』S・キング(新潮社)だった。

 どうして本好きはすぐさま「今年のナンバー1」という言葉を使うのか? 顧問目黒しかり、茶木さんしかり。まだ今年も半年過ぎていないというのに。

 笑いながら浅沼さんから上下巻2冊の本を受け取ったが、どうしてハードカバーなんですか? これって確か文庫も同時発売で話題になっていたじゃないですか? もしかして内容が違うんですか?と疑問だらけで浅沼さんに質問すると

「いやー、その方が儲かるでしょう。うちはノルマ書店だから営業マンは最低5冊のお買いあげ、ご協力よろしくお願いします」と笑いながら話される。いやその目、笑っていないんじゃないか…。

 ところが僕がすでに『アトランティスのこころ』を購入済みだと知ると、今度は急に話題を変えられ半村良へ。「凝っているんだってぇ…。じゃあコレね」と渡されたのが『産霊山秘録』(角川春樹事務所)。まあ、浅沼さんにしてやられているような気もするけれど、僕にとっては読書の師匠なので、嫌な気分どころかうれしい気分で購入し、その後柏方面へぐぐっと移動する。

 その移動の最中、もし全国の書店さんで出入りの営業にお薦め本を売り出したら、それだけでかなりの売上になるんじゃないか?とこちらとしてはかなり恐ろしい発想が思い浮かんでしまった。ちょっとそれは断りずらいし、信頼している書店員さんのお薦めだったら読みたくもなる。もしかすると営業マンなんて、押すことばかり考えていて、逆に押された場合非常に脆いような気がする。

 ああ、注文を取った数よりも、お薦め本の方が多かったりしたらこりゃ大変。いや、売上は会社の財布に入り、本の購入はどっちみち自腹だから何冊だろうと関係ないか。うーん、あまりにおそろし過ぎる発想なのでこれにて失礼致します。

5月8日(水)

『本の雑誌』6月号搬入日。雑誌を出している出版社にいると、その雑誌の発売で1ヶ月を理解する。それにしても1ヶ月なんてあっという間だ。なぜか営業マンが書かされている編集後記の〆切日、完徹の編集部が散らかした会社に出社する下版日、そして120冊を持って階段を駆け上がる搬入日と時は過ぎていく。それが12回集まれば1年の経過で、何だか年々その時の過ぎ方に拍車がかかっているような気がして仕方ない。

 お気に入りの作家が、こちらの興味のあるテーマを小説にする…というのはとても期待の高まるものだが、その結果が裏目に出ると最悪の状況になるようだ。村上龍の新刊『悪魔のパス 天使のゴール』(幻冬舎)のことなのだが、これがもうちょっとヒドイ小説で、今まで散々外れはあったものの、ここまで酷くなると、たまの佳作を期待してすべて購入するほどの意欲もなくなっていく。何だか怒りを通り越して悲しくなってしまった。

 なぜか海外サッカー愛好者の書き手は、海外のサッカーを描きつつ、日本サッカーや日本サッカーの観戦者を批判をする。しかし、本人達はまともにJリーグを見ているわけでもなく、ただただ印象で語っていることが多い。頼むから見てもいないJリーグに余計な口出しはせずに、海外のサッカーだけを勝手に見てレポートしてくれ…とJリーグを真剣に見ている僕は思う。

 そもそもイタリアにしてもイギリスにしてもスペインにしても、サッカーっておらが町のチームを応援し楽しむものなんじゃないのか?

 まあ、こんなことを書いているとキリがないので辞めておくけれど、『サッカーの敵』(白水社)や『ワールドカップ・メランコリー』を書いたサイモン・クーパー、超傑作『ぼくのプレミアライフ』ニック・ホーンビィ著(新潮社)などの海外の書き手が描くサッカーの文章を読む限り、Jリーグ選手やJのサポーターよりも、よほどサッカーライターの方が海外に遅れを取っているような気がするのはどういうことだ。

 早く日本人でしっかりサッカーの書ける書き手が出てくる日を、サッカーバカ&本好きのひとりとして願うばかり。

5月7日(火)

 連休明けの出社。今まで自分がいったい何時に家を出て、何時の電車に乗っていたのかも忘れてしまっていた。あわてて家を飛び出してみたものの、通常よりも30分早く会社に到着してしまった。なんてもったいないことを…。

 すると会社の入り口にやたらと荷物を抱えた怪しげば人物がうろついているではないか。もしや…と思って身構えつつ、近寄っていくとなんと顧問目黒で、いつも週始めは午後からふらりとやってくるはずなのに、どうも目黒も僕と一緒で自分がどんな生活をしていたのか忘れてしまっていたようだ。このままこの習慣が根付いてくれるととても仕事がやりやすくなるのだが、きっと3日で元に戻るだろう。

 その目黒がやっぱり早く会社に来すぎて暇なのか、やたら1階に降りてくる。こちらは連休明けで溜まった仕事をやらなければいけないのに「君たちは連休中に何をしていたの?」なんて聞いてくるではないか。浜田は田舎に帰り、小林はどこそこへ出かけたと答えている。

 僕は面倒なので黙っていたが「杉江君は?」と促されたので「いや、どこも行かず家でボーっとしていました」とありのまま答えた。すると「えっ、もったいない!連休だよ!どこにも行かないなんて信じられない」と。

 自分でもそのことに気づいていてが、何だか本の雑誌NO1出不精の目黒に改めて言われるとショックを受ける。悔しいので、「じゃあ、目黒さんは何をしていたんですか?」と問いただしてみると「競馬と仕事だよ」とやたら胸を張って答えるではないか。それは僕とたいして変わらないと思うんだけど…。

 午後からリハビリをかねて直納と営業に出かける。新宿駅構内を歩いている人々もいつもより若干スピードが遅い。そののんびり感に身を任せていたが、マイシティのY書店コミック担当Nさんを訪問すると、Nさんはエンジン全快でコミックの売り方について教えてくれる。あわててこちらも頭の回転速度を上げて応対。

 よくよく考えてみれば、書店はGWも関係なく開いているわけで、書店員さんももちろんこの連休中働いていたのだ。だから休みボケなんてまるでなく、いつも通り仕事をしているのだ。いやはや、これではリハビリなんて暢気なことは言ってられず、一気にテンションを上げるしかない。

 しかしその後、午後4時を過ぎた頃から異様に足が重くつらくなる。駅のベンチに座って一休みしていると立ち上がるのが面倒になってしまった。やっぱり日がな一日ぼんやり何もしない連休を過ごしたの失敗だった。せめてぶらぶらと歩き廻っておけば良かったのだ。例え数日でも怠けていれば、足の筋力が衰えてしまうのだ。

 ああ、仕事は山のようにあるというのに身体がついていかないなんて情けない。明日から仕切り直しで頑張ろうと思いつつ、今日はいつもより早めに会社に戻ることにした。

5月2日(木)

 GWの10連休中だが、本日は8日(水)搬入の『本の雑誌』6月号の部決日にあたり、5日ぶりに出社。連休前の数日狂ったように仕事をしたため、どうにか赤印の日は休めており休息は充分。経理の小林もいつも通り出社しており、単行本編集の金子も午後には顔を見せる。

 といってもこのメンツ、半分ワカーホリックになりかけているので、誰も「代休をくれ」とか「休日手当を出せ」なんて言いだしはしない。それよりも逆に面倒だから「会社に住ませろ」と言い出しかねないところが恐ろしい。とにかくこんな仕事熱心な社員を持った本の雑誌社はなんて幸せなんだろう。11連休中の発行人浜本の席に向かってみんなでそう呟く。

 5日ぶりの会社は山のようにファックスや郵便物が届いていて、そのチェックだけで1時間近くかかってしまう。そのなかにはフェアの注文書など大変重要なものも含まれていて、こちらは早速出荷の手配。

 今月末あたりに日本橋の丸善さんで、大々的なフェアを開催する予定で、そのフェアのキャッチコピーを社内で求めていたのだ。ところがみんな「考えておきます」と言ったまま連休に突入してしまったため、結局僕がいくつか候補考えざる得ない状況に追い込まれてしまった。

 連休前に届けておいた候補のうち、担当のNさんが選んでくれたのが「ここが読書の起点です」という、勝手に自画自賛していたコピーだっただけに非常にうれしく眺めていた。

 ところが金子はいつもの通り、ブツブツと難癖を付け始める。言葉に対しての編集者の言うことは非常に正しいことばかりなのだが、無理難題が多く、僕のような営業マンにはとても消化できそうにない。途中から耳をふさぐことで解決。

 そんななか親友シモから携帯に電話。先日貸した『模倣犯』を読み終わったとのこと。友人のうち本の話が出きる人間はかなり数が限られており、このシモと相棒トオルくらいのものだ。それ以外の家に遊びに行っても、本棚すらない家も多く、いつも淋しく思っている。

 ときたま唐突に読み終えた本が、誰々に向いているだろうなどと友人を頭に描いたりするけれど、薦めたところで読むわけではないのが非常に悲しい。みんな口々に「忙しい」と言うけれど、いったい何がそんなに忙しいんだろうか。

 僕なんかサッカーのない休みの日は暇で暇でしょうがない。やることは本を読む以外ほとんど何もなく、もしかして僕は何か大切なことをせずに生きているんじゃないかと不安になってしまう。そうだ、今日だって昨日だって仕事をしていなければ、何もやることがないのだ。こんなまま人生を進んでいって良いのだろうか?

« 2002年4月 | 2002年5月 | 2002年6月 »