WEB本の雑誌

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7月31日(水)

 もうこの国は、この街は、そしてこの地球は壊れてしまったのかと思うほど異常な暑さのなか営業に出かける。本の雑誌社営業の掟として、書店さんに入る際は、どんなときでも上着を着るべし!というのがあるのだが、ここまで暑いと上着を着ている方が迷惑な気がしないでもない。

 書店員さんも、ダラダラ流れ落ちる僕のおでこの汗を眺めつつ(年々落ちるスピードが速くなっているのはなぜ?)上着を脱いで良いですよと優しい一声をかけてくれるのだが、なかなか素直に従うことが出来ずにいる。

 それは前の会社も含めて10年以上に渡ってこのようなスタイルで営業を続けてきたある種、職業病なのであろうが、上着を着ずに訪問すると欠落感というか喪失感というか、妙に不安な気持ちになってしまい、いつも以上におどおどした営業になってしまうのだ。僕のなかでは上着=公の場という動かしがたい概念が出来上がってしまっている。

 それ以外でも、3色ボールペン(決して本を声に出して読まない)、手帳、注文書、画板が僕にとっての武士の刀にあたるもので、そのどれかひとつが欠けると、途端に営業力が弱まってしまう。

 埼玉を営業。川口のS書店さんを訪問すると、ポイントサービスが開始されていて、おお!と驚く。担当の方に話を聞くと、実はこれが一大事になってしまっていて、組合や出版社からクレームが来ているとか。

 1000円購入すると50円の商品券(その書店で使える)を渡していて、これは再販制という考えから問題になるのだろうか? それにしてもポイントカードは何軒かの書店さんで既に導入されていて、そちらはそれほど問題にならず既成事実として受け入れられつつあるような気がしていたから、いまいちクレームの根拠が理解できない。

 先日横浜を訪問した際、駅ビルルミネではルミネカードでのお買い物は、常に全商品5%OFFと大々的に歌われていて、それが確か本の購入にも有効になったと聞いている。また他のルミネでも同様に実施されているはずで、それはルミネ主導の方式で、書店側が反対してもかなり強行に加盟させられるという話だった。

 それにパルコ系列では何年も前からバーゲン期間中のペックカードでのお買い物は、同様に5%引きになっていて、その期間書店さんの売上がドーンと増えると聞いたことがある。

 S書店さんの方式が現金購入に対することだから厳しい指摘を受けるのか、本しか買えないポイント還元だからなのか、主導が書店さんだからなのか、よくわからない。どちらにしても、片方を許して、片方はダメという指導の仕方はおかしいと思う。

 いや、もしかしたらどちらにも指導はしているのかもしれないが、だからといって今までポイントカードを実施していたお店に、何らかの実際的な報復措置が取られたとは聞いていないし、そもそも今年の3月再販制維持が決まったとき、ポイントサービスなどによる、段階的還元だかを促進していたような気がするし、出版社主導の値引き本というのもよくわからない。いったい再販制の下では、どれが良くて、どれがダメなんだろうか? メーカーに定価決定権があるということなら、例えば本の雑誌の単行本を3冊以上買ったら、5%引きという取り決めは可能なのだろうか? 業界内にいながら恥ずかしいけれどよくわかない。

 そんな疑問のオンパレードのなかでも、デパート関連のポイントカードに対し、出版業界内のルールが、果たして小売りという大きなルールに対抗できるのだろうかという疑問が一番大きい。

7月30日(火)

 31歳の誕生日。何の感慨も覚悟もなく、ただただ365分の1日。プレゼントは会社から支給される5000円の図書券のみ。周りも興味がないってことだ。

 誕生日で思い出したが、この『炎の営業日誌』を書き出して間もなく2年が経とうとしている。29歳の誕生日を迎えた頃、浜本に呼び出され「来月から我が社のHPが出来る。杉江のページを作ったから何か書くように」と突然命令されたのだ。「何か書け!」と言われても、特に書くこともないので、その日起こったことや心に残ったことをダラダラ綴ってきたが、2年間で約400本の原稿をアップするのは、簡単なことではなかった。

 それに出版営業なんていう、黒子中の黒子が何かを書くということ自体、おかしな話だと今でも感じている。営業マンは書店さんや取次店さんで活躍すれば良いのであって、こんなところで何かを語るのはお門違いだろうし、他の営業マンからみれば、大した仕事もしていないくせにうるさい奴だと思われていることだろう。

 多分、読む方だって、同じことを前に読んだとか、話がマンネリになっているとか、つまらないとか、進歩しないとか、いろいろと感じておられることだろう。

 『WEB本の雑誌』もこの2年間でかなり連載や内容も充実してきていると思う。初めの連載は、ウエちゃんと吉田さんと僕と編集部しかなかったのだ。それが今では『ほんや横丁』なんて姉妹ページまであって、そんじょそこらの会社のHPとはかなり違う到達点まで辿りついているのではないか。

 会社的に考えてみても、もう僕のこの埋め草的原稿の使命は終わった気がする。

 一応、2年間を区切りにして『炎の営業日誌』を辞めたい、と浜本に申告している。
 解答は今のところ「保留中」である。

7月29日(月)

 土曜日。酷暑のなか、午前中から駒場スタジアムに並び、じっと耐えたが、試合はくだらないミスのオンパレード。もちろん我が浦和レッズの方であり、そのミスから失点を期し、前半早々0対2という有様。それ以上に酷かったのは、大人になりきれないエメルソン坊やの退場劇。審判の判定に不満を現し、唾を吐いたとか。まったく、唾を吐く前に、10時間近く並んでいるファンの気持ちを考えてくれ。あまりにアホくさいので『炎のサッカー日誌』を書く気になれずダウン。

 日曜日。誰が予定を組んだのか知らないが、自分のサッカーチームの試合。昨日のレッズ選手の気持ちがちょっとだけわかるようなダラダラした展開で、僕自身パッとしたプレーも出来ず、終了のホイッスルが鳴り響く。こういう時のストレスは、半端なストレスではない。グランドから家まで帰る車のなかで、失敗したプレーを思い出し、ヒステリックに叫ぶ。

 怒りの収まらないまま、家に到着。すると突然車も怒りに燃えたのか、エンジンから真っ白い煙が濛々と吹き上げる。まるで炊飯器の米が炊ける前のようではないか!と一瞬感心していたが、こりゃ大変。あわてて遠くへ避難。

 しばらく見つめていたが、特に爆発する様子はない。恐る恐る近づきエンジンルームを開け、中を確認。かなり恐ろしい。車の下から何やら液体が漏れている。指で拭って、匂いを嗅ぐが、無臭。先週リコールのハガキが来ていて、部品交換したばかりなのだ。怒りを増幅させ、ディーラーに電話すると、すぐさまやって来るとか。

 結果、予想通り、冷却水の漏れだった。部品交換の際に、キャップをしっかり閉めてなかったのが原因。お前らなぁ…と思いつつ、ご苦労様と缶ビールを数本渡す小心者。

 深夜。今度は寝ていた1歳半の娘が突然激しい咳き込み。あわてて「たまひよ」の小冊子を確認し、縦抱きに。背中をトントンしていたら、咳と同時に嘔吐。子供は良く吐くけれど、いまだ慣れず、あわててしまう。その後、思い出したように激しい咳をするので、抱いたり、水を上げたり、横にしたりしているうちに朝になる。子供ができてわかったことのひとつ。心配が多大に増えるということ。

 そして本日。朝イチで子供を病院へ連れて行く。熱はなく、やたら元気。病院に着いた頃には咳も止まっていて、何じゃこりゃと言った気分。お医者さん曰く「風邪のひきはじめかな? とりあえず薬を出しておきますね」子供が出来てわかったことのその2。親が悩むほど、医者は悩んでくれないということ。

 午後から出社。今週は「夏休み獲得のため営業強化週間」を予定していたのに、いきなりの頓挫。それでも気合いを入れて、渋谷に向かうが、またまたツキがなく、10件中書店員さんに会えたのはわずか2件のみ。夏休みであったり、単なる休みであったり、富士ロックフェスのお疲れ休みであったり…。

 渋谷の雑踏の中、これだけ多くの人がいても、ここ数日の僕ほど不幸な男はいないだろうと塞いだ気持ちになっていく。そんななか文庫の棚をうろついていたら、いきなり一輪の花に遭遇!なんとなんと、待ちこがれていた新刊『アバウト・ア・ボーイ』ニック・ホーンビィ著(新潮文庫)が並んでいるではないか!!

 僕が今、常に新刊を待っている著者はふたりいて、ひとりはこのニック・ホーンビィであり、もうひとりは『俺たちの日』や『曇りなき正義』(ハヤカワ文庫)のジョージ・P・ペレケーノスである。どちらも最強にオススメしたいが、誰が読んでも面白いと思うのかはよくわからない。風の噂で聞いたところ、ジョージ・P・ペレケーノスはあまり販売状況が良くないようで、そろそろ翻訳が打ち切られる可能性があるとか。そうなったら、僕は英語を勉強するしかない…。

 とにかく至福の喜びを抱え、『アバウト・ア・ボーイ』をレジに持っていく。(映画カバーなのはちょっとショックだったが、この際良いんだ、なんだって)

 明日で31歳だ。

7月26日(金)

 とある書店さんで新刊棚をチェックしていた。一番良いところに積んであったのが『たま先生に訊け!』倉田真由美著(双葉社)だったから、「この人過激なこと書いているわりに、結構かわいらしい人なんだよなぁ」なんて思いつつ、奥付を確認。出版営業はついつい刷り数を確認してしまうもの。

 すると隣からちょっとした視線を感じた。うん?と首を捻り、そちらを見ると、僕と同年代のビジネスマンが『サティスファクション』キム・キャトラル/マーク・レヴィンソン著(アーティストハウス発行 角川書店発売)の上から2冊目を抜き取り、急ぎ足でレジへ向かって行った。なるほどなるほど、こういう人がこの本を買うのか…。

 今度は僕の背後からヒソヒソ声が聞こえてくる。聞き耳ダボン化。
「こっちが良いんじゃない?」
「いや、こっちでしょう?」
「前に読んだ、なんだっけ? 地図を読めない女と、えーっと桃じり娘、違う…」
「でも重いよ」
「そうだよな」

 大学生風青年2人組はそんな話をしながら平台に本を戻し、お店を出ていった。二人がどっちを買うか悩んでいたのは『銀座のママが教える「できる男」の口説き方』と『銀座のママが教える「できる男」「できない男」の見分け方』(共にますいさくら著・PHP研究所)であった。うーん、彼らは何を求めて、この本を買おうとしたのか? 「できる男」になりたいのか? それともこの本で夏休みの課題を書こうとしたのか…。

 その後、担当の書店員さんが休憩から戻ってきたので、そちらに向かうと、すれ違い様OL風女性が『白い犬とワルツを』K・テリー著(新潮文庫)を大事そうに抱えているのが目に入った。

 僕はいまだに営業中に自社出版物を買う人に出会ったことがない。これがベストセラーとそうでない本の違いなのか…。ガックリ。

7月25日(木)

 どこの書店さんを訪問しても、売上が芳しくないようで、ため息まじりの憂鬱顔。ワールドカップ後で期待が大きかっただけに、ツライさも2倍以上。おまけにこの後の8月は、いわゆる商売の鬼門ニッパチ月なので期待も薄い。

 書店さんの売上が不振ならもちろん作っている方の出版社もダメなわけで、顔見知りの営業マンも、とほほ状態で書店さんを駆け回っていた。

 ところがそのため息の元である前年比を確認すると、去年の7月はちょうどハリーポッターの3巻が出た月だったのだ。それはとても日野原先生&石原新太郎の老人パワー本やドジョウだらけの日本語本では追いつけないでしょう。前年比ほどくせ者はないんじゃないか。

 怪物・ハリーポッター。今年は10月に第4巻が上・下2冊組で発売になるらしい。ただ、今回は「買い切り」商品になるため、書店さんはそれぞれ頭を痛め、注文部数を書き込んでいるようだ。

 ところが、その頭を痛める原因は別にあるようで、とある書店員さんに詳しく聞いたところ、このハリーポッター第4巻の「買い切り」が、不思議な買い切りになっているという。通常、買い切り商品なら返品がないため、満数(書店さんが書き込んだ注文数)配本になるはずなのだが、このハリーポッター第4巻。なぜか、減数(書店さんの注文数を出版社や取次店が勝手に減らすこと)の可能性があると言われているようで、書店員さんは、だったらいったい何のための買い切りであり、どう注文数を割り出せばいいのか?と頭を悩ませている。

 業界内では、このハリーポッターの矛盾に、いろんな噂が流れているが、結局書店さんは、注文分の減数を見越して、満数出荷が確約されている客注分にダミーの客注を混ぜるという、いたって面倒な方法を取っているところもあるようだ。

 まあ、とにかく10月末には、書店さんも少しは笑顔になるでしょう。

7月24日(水)

 書店員のYさんは、僕がお店に顔を出すと「杉江くんに話そうと思っていたことがあるのよ」と、駆け寄ってきてくれる優しい人だった。元気で、気さくで、話題が豊富。チャーミングな書店員さんだから、お客さんにも人気があった。いつも店内を駆け回り、小さな身体なのに本を山のように抱え、商品補充や品出しに精を出し、お客さんの問い合わせには親身になって応対していた。

 その笑顔を店頭で見かけなくなって半年以上が過ぎていた。いつ訪問してもいらっしゃらない。もしかして退職してしまったのか…。

 その書店さんには月に一度の割合で訪問していて、Yさんを見かけなくなってから、もう一人の文芸担当Kさんと打ち合わせをしていた。いったいどうしてしまったのか、同僚のKさんに聞いてみようと考えていたのだが、何となく聞きづらい面もあって、そのままになってしまっていた。

 本日、日傘を差した人がやたらに多い銀座通りを歩き、その書店さんに向かった。雑誌売場を抜け、急な階段を上りながら、もし今日Yさんの姿が見られなかったら、今日こそ理由を聞いてみようと決心していた。

 新刊平台を見て、その後、レジに視線を移した。そのレジにYさんの姿があった。

 ★  ★  ★

 Yさんが売場で倒れたのは、12月25日、クリスマスの日だった。どの商売も一番忙しくなるこの時期、もちろん書店さんも多忙を極める。年末年始分の搬入、在庫の管理、多くの人が街に繰り出してくるためいつも以上の接客応対。そんななかYさんは倒れた。

 近くのお医者さんで診察を受けると、すぐさま大学病院への紹介状を渡された。大きな病気だと考えていなかったYさんはそこで初めて衝撃を受ける。えっ、そんなに大変な病気なの?

 大学病院でいろんな検査を受け、その結果が出る。甲状腺の病気だが、原因はストレスと疲労だと言われた。よくこんな状態になるまで、立ち仕事を続けられたねとお医者さんが驚くほど体の状態は悪かった。

 書店員の仕事ほど見かけと実際に大きな差がある仕事も少ないだろう。商品補充や新刊出し、在庫の移動などでは完全な肉体労働を強いられ、接客では精神的な疲労が澱のように溜まっていく。労働時間は不況の影響からジリジリと伸び、早番と遅番の日ごとの変更により、生活のリズムが作れない。多くの方にあるイメージ。カウンターでのんびり本を読んでいる書店員さんの姿なんて実際にどこにもないのだ。

 Yさんは入院するか、自宅療養するか、お医者さんに選択を迫られた。入院によるストレスを考えると家にいる方が楽だと思い自宅療養で通院することを選んだ。しばらく休んでいれば疲労も回復し、仕事に戻れるだろうと考えていた。

 そのしばらくは、予想を越えて長くなった。初めはソルトレイク五輪が終わる頃には…と目標を立てていたが、数日良くなって、これならと思うと、またドーンと悪くなるのくり返しが続く。一向に微熱が下がらない。せめてワールドカップが終わる頃には…と次の目標に切り替えた。

 精神が病み、身体を悪くし、またそのせいで精神が狂う。6ヶ月以上にも渡って仕事を休むことは、それだけで人に負担を与えるものだ。特に責任感の強いYさんような人は、休んでいることに罪悪感のようなものを感じてしまうあろう。きっと、ふらりと近所の本屋さんに行くのは、もっとも恐いことだったのではないだろうか。

 ワールドカップが終わり、微熱も下がり、やっと仕事に戻れる身体になった。しかし、これだけ長い間休んでしまったことで、会社に行くのが恐くなってしまっていた。玄関を開け、さあ、と思うと足がすくんでしまう。

 そんなとき会社の社長さんと電話で話した。Yさんが率直な気持ちを伝えると、社長さんは優しく答えた。
「まず、来てみようよ、それから考えよう」
 
 これだけ長く会社を休んでしまって、普通ならクビになってもおかしくない世の中。Yさんもそれを覚悟していただけに、この言葉は一番の薬になったのではないか。

 7月始めから仕事を再開した。丸丸6ヶ月の休暇は就職してから初めてのことだ。

 この間、いろんなことを考えたという。今まで、店舗で唯一の女性社員として意地を張っていたわけではないけれど、ムキになって仕事をしてたかもしれない。男性と女性で気づくところが違う。これは身体や脳の作りの違いからか、どうにもならないことだとわかっていても、苛立ちはつのる。人に仕事を頼むなら、自分でやった方が早い。どんどん仕事は増えていく。それでもそれをすべてやり抜いていた。やっぱりどこかで無理をしていたのかもしれない。

 ★  ★  ★

「これからは少し手を抜くというか、人に任せながら仕事をしていかないとね」Yさんはめずらしく真面目な顔をして、僕に話してくれた。Yさんのいない売場なんてもう見たくないから、僕はとにかく身体だけは気をつけて下さいと答えた。

7月23日(火)

 先日この日記に書いた、助っ人学生Tさんのゼミ用「書店さんインタビュー」が昨夜行われた。お相手は東京ランダムウォーク神保町店のYさんで、快く引き受け頂き、感謝。

 閉店時間の8時にお店の前で待ち合わせをしたのだが、なんとTさんのゼミ仲間が他に2名もやって来ているではないか。テープレコーダも用意され、質問事項もしっかり書き出されている。とても熱心な様子に思わずこちらが驚いてしまう。今どきの学生はこんなに勉強するものなんでしょうか?

 ざっくばらんに話をしようと考え、とある居酒屋に入る。ビールを飲みつつ、僕は学生とYさんの話に耳を傾け、ときには出版営業としてわかる範囲のことを答えた。

 学生達の質問内容は、いわゆる今よく言われている出版業界における問題点だった。「書店の大小、出版社の大小における取引格差」「大型店舗の進出による町の書店への圧迫」「再販制」「オンデマンド」「新古書店」「ネット書店の脅威」などなど。出版に関する本や資料をかなり読んでいるようで、話はしっかりしていた。

 ところが。Yさんも僕も完全な現場の人間である。現場の人間が語れるのは、ホンネとタテマエで言えば、ホンネである。問題点をどうするかより、その矛盾のなかでどう商売をしていくかということになってしまう。

 どうも学生達はレポートの性質上、タテマエの方が必要だったようで、僕とYさんがずばずば話すホンネ(それでもかなり抑えていた)にかなり戸惑っていたようだ。

 僕自身はYさんの受け答えに何度も頷き、なるほどと納得させられた。とても有意義な時間が過ごせたが、学生達にはいったいどう受け取られたのかはわからない。きっと完全なサラリーマン意識の大人…と思われたのではないか。

 最終的に出来上がるはずのレポートを覗いてみたいような、覗いてみたくないような、あやふやな気分だ。

7月22日(月)

『国道の西、夜明けのミナミ』の搬入日。前回の『笑う運転手』の搬入日は、台風直撃で危うく取次店さんへ納品が遅れそうになったのを思い出す。それにしても「搬入日に雨が降った新刊は売れる」という本の雑誌的マーフィーの法則その13がいまだに健在なだけに、本日の快晴が何を意味しているのか非常に不安である。うーん、と唸りながら、一点の曇りのない空を眺めていると、事務の浜田が電話口でアワアワしているではないか。

「えーっと、本日が確かに搬入日であり、場所によっては、午後に店頭に並ぶお店もあると思われます。……。ええ、ですから、原則的な発売日というのは搬入日になるわけで、HP上でそれを打っているのですが、全国同時というわけではなく……。」

 浜田が電話の保留ボタンを押し、何でもやらされます課の僕に内容を説明。

 それは書店さんのサービスカウンターからの電話で、書店店頭で予約をしたお客様が、発売日なのに本がないと仰っているようなのだ。

 相変わらず本の発売日に関するトラブルは多く、特にこのようなネットでの告知が始まってからこういった問い合わせが多くなっている。営業として何度も何度も「○月○日発売」を「○月○日搬入」に変えてくれと進言しているのだが、搬入という言葉が一般に浸透していないためそれは難しいと断られている。

 それならば、搬入日から間隔を開けて告知すれば問題ないわけで、今回ネット予約分の告知では7月25日発売とうたった。ところが、ところが、書店さんからの電話で確かめたところ、HPの新刊告知の方では、7月22日発売になってしまっている。仕事を分業すると、こういう失敗が起きる。参った。

 浜田に書店さんの場所を確認すると、戸塚であった。ちょっと遠いが、責任はこちらにあるわけで、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。それに僕はちょうど横浜を営業しようと考えていたところだから、ちょっと足を延ばせばいいだけのこと。

 午後2時。戸塚に辿り着く。サービスカウンターに謝りを入れると、たった1冊の本を持って来たことに驚かれ、逆に「ありがとうございました」と何度も御礼を言われてしまった。いやいや、責任はこちらにあるわけで、1冊の注文も100冊の注文も欲しい人がいるという意味では同じことだ。

 お店を後にして、気持ちよく横浜へ向かった。

7月20日(土) 炎のサッカー日誌 2002.07

 ワールドカップのせいで、再開後のJリーグの日程がかなり過密だ。先週から考えると、13日(土)、20日(土)、24日(水)、27日(土)。この暑さのなか、約2週間で4試合はキツイ。これで良いプレーをしろというのは無理な話だ。

 もちろんキツイのは選手だけでなく、我々サポーターも一緒。アスファルトにレジャーシートを敷き、そこに座っていれば、照り返しの暑さに死にそうになる。国立競技場の並びの列には、あまり日陰になる場所がなく、ある人は公園内の大木へ、ある人は大江戸線の階段へ、それぞれ避難場所を求めて大移動。まるで真っ赤なホームレスの大群だ。

 僕は、前日の酒ですっかり寝坊してしまい、一番暑い時間の1時過ぎ国立競技場へ到着。先に来ているはずのKさんとOさんの姿を探すが、見つからず、携帯に連絡を入れる。すると酔っぱらったKさんが不思議な言葉を吐き出す。

「いま、築地。マグロ丼を食いながら、ビール。」
「はあ?」
「いや、最高、最高。この後本願寺に勝利の参りに行ってから戻るわ。」

 なんと暑さから避難するため、KさんとOさんは築地の市場へ向かってしまったらしく、いったい何をしているんだ。仕方なく、公園内の日陰を探し、アマチュア野球を観戦。

 試合開始頃には、日焼けで身体が痛い。この暑さのなか、還暦越えサポーターの母親と父親もやってくる。ふたりともレッズのお陰で、すっかりペットロス症候群から立ち直ることができ、元気回復。家を出ている息子としては、レッズ様様だ。

 唯一。いやレッズは14位だから唯二になるのか。とにかく勝ち点たったの6の我がチームより下にいるコンサドーレ札幌戦。こういう試合が大事なのは、過去得失点でJ2に落ちた我々は良く知っている。とにかく勝つことが大事であり、それも勝ち点3が欲しい。しかし格下というほどの差はないだろう。

 レッズは調子の良い選手と悪い選手の差があまりに大きく、まとまった流れで戦うことが出来ない。ここ数試合、エメルソン頼みの展開しかなく、サイドを使った攻撃とか、細かいパス廻しで打開するなんてことはまったくない。見るべきものはエメの個人技とスピードだけ…。

 試合開始早々に1点取られ、追う展開から一気にカウンターを喰らわせエメの1発同点ゴール。こんなんで良いの?と思いつつ、勝つことが大事なんだと情けない希望を持ちつつ、声を張り上げて応援。

 毎年変わらないレッズ。それを変わらず応援している僕。どっちがバカなんだろうか?と考えているうちに延長戦にもつれ込み、嫌な予感が漂い出した国立競技場浦和サポ。今年は、というか今年もというか、とにかくレッズは延長戦が多く、そしてその延長戦で負けるのだ。

 前回紹介した『PRIDE OF URAWA』のコールが終わりそうになったが、ここで辞めてしまってはため息が漏れるだけ。このコールには良い思い出と悪い思い出がたくさん詰まっていて、僕は仙台戦で延々歌っていたことを思い出していた。そしてあのときも延長に突入し、そして、そして福田のVゴールで勝利したのだ。

 ゴール裏は、サポートリーダーの太鼓が止んで一瞬静かになりそうになった。僕は静けさとため息とが恐く、そして選手に負けない気持ちを表そうとひとりでコールを続けた。もちろん観戦仲間のKさんとOさんにもその想いは伝わり、三人で声を出し続けた。

 変な奴らがいるなと思われているはわかったが、コールを辞められなかった。そのうち、近くにいた人達が同調してくれ、ジワジワとコールが広がっていく。願いは宮城スタジアムでの仙台戦だ。それに気づいてくれたのか、そのコールはゆっくりと着実にゴール裏に伝わっていった。

 5分くらい経ったときであろうか。「URAWA BOYS」と呼ばれる浦和レッズの中心サポーター達が、ついに同調してくれ、一気にヒートアップ。

 僕たちの想いが他のサポーターに伝わったことがうれしかった。涙が出そうになり、僕はKさんと肩を組んだ。Kさんの目も少し潤んでいた。

 選手が足を止めないように、僕らサポーターも声を止めてはいけない。Kさんと肩を組み、『PRIDE OF URAWA』を歌い続けた。そして最後にその気持ちは選手に伝わった。

 延長Vゴール勝ち。Jリーグとしては、4月14日想いの宮城スタジアム以来の約3ヶ月ぶりの勝利。疲れは飛んだ。

7月19日(金)

 今月の新刊、ウエちゃんの『国道の西、夜明けのミナミ』事前予約分、著者のサイン本を持って、ほんやタウンさんへ納品。金子と二人、大量の本を持ちつつ、大量の汗を流し、御茶ノ水の街を歩く。

 いつもはラフな格好の金子が、今日はビッシリスーツで決めている。今夜、池上冬樹氏と吉田伸子氏の出版記念パーティーがあるためだが、大いに納得いかないことがひとつ。

 それは、スーツを着込んだ金子が会社に出社してきたときの出来事。事務の浜田、編集の松村、それから助っ人の女子学生、いわゆる本の雑誌女性陣が、みんな一斉に注目し
「カッコイイ…」
「ステキ…」
なんて目をウルウルさせやがる。金子もその気になって前髪を掻き上げた。

 これは元の問題なのか、外見の問題なのか? 元の問題なら何も言えないが、日頃見慣れていない金子のスーツ姿のせいだとしたら、非常に気分が悪い。こちとら、毎日このクソ暑いなか、スーツを着ているのに、誰からも注目されないのだ。ああ。

 ★  ★  ★

 夕刻になって、パーティー会場の市ヶ谷アルカディアへ。

 作家、書評家、翻訳家、各社編集者が集まる華やかな出版記念パーティーに、営業マンの居場所はない。場違いな場所にいるほどツライことはないので、とにかく出来ることをやるしかないと、受付に立つ。しかし、来場される方々の顔と名前がまったく一致しない。

 日頃作家のビジュアル面にまったく興味を持っていないため、超大物作家とは露とも知らず、「失礼ですが、お名前を頂戴したいのですが」なんて声をかけてしまう。さすがに北方謙三氏はわかったが、他の皆様には大変失礼をしてしまった。申し訳ございません。

 これがもしサッカー選手のパーティーだったらほとんどの人を判別できるのにと、隣で同様に受付をしていた浜田に漏らす。すると浜田は既にこの世の人ではなくなっていて、瞳孔反応はもちろん、口も半開きの状態で、まったくの無反応。フラフラと石田衣良氏に近づいて行きそうになっているのを、あわてて止める。

 仕方がないので編集の松村に「社命として、全作家さんに名刺を差し出してきなさい。あわよくば、とんでもない作家が、間違って本を出させてくれるかもしれない、そしてその利益で僕たちの給料も上がるかもしれない、一か八か飛び込んできなさい」と伝えるが、松村はこういったことが非常に苦手なので、「いやいや…」と後ずさりしながら消えていってしまった。

 本を売り込むのが下手な営業マンと人見知りの編集者。こんな会社に30周年があるのだろうか…。

 最後の最後になってやっと人心地が付き、会場内へ入る。ビールを一杯ぐぐぐっと飲み干す。知った顔である唯一の参加者銀河通信安田ママ(http://www2s.biglobe.ne.jp/~yasumama/)に挨拶をすると、その隣にいらっしゃったのが、なんと僕に半村良氏の著作を教えてくださった長老みさわ氏ではないか。ネット上では言葉を交わしていたが、当のご本人お会いするのは初めての事。あわてて名刺を差し出すと、みさわ氏からキレイな名刺を頂く。HP「味噌倉」(http://member.nifty.ne.jp/misogura/)

 もっと長く話していたかったが、すでに時間はなく2次会へ。その2次会では、何も食べずに酒を飲んでしまったせいで、すっかり悪酔い。なぜか浜本にカラミながら、企画の打ち合わせ。せっかく目の前にいろんな人がいるというのに、なんで相変わらず浜本や金子と仕事の話をしなきゃいけないんだ…と思いつつ、浮かび上がったことは、こういうときに伝えておかないと忘れてしまう。

 そういえば、どなたか名前を聞き忘れしてしまったが、当『炎の営業日誌』を読んでいますと声をかけて下さった方がいた。うれしいやら恥ずかしいやら。励まし、ありがとうございました。我が、出版記念パーティーは、一生ありませんので…。

7月18日(木) 友からの電話 その2

<7月17日からのつづき>

 翌日僕は、ダボのいる、となりのとなりのクラスを覗いてみた。ダボはポツリと席に座って、ぼんやり机を眺めていた。誰かがダボに声をかけた。ダボは振り返った。そこには怯えの表情が漂っていた。僕はその顔を見て、すべてを理解した。

 ヤンチャ者は正義感だけ強い。もちろん自分なりの都合の良い正義だ。

 そのクラスにドカドカと入っていった。各クラス誰か一人ヤンチャな奴がいて、そいつがそのクラスを仕切っていた。このクラスは、アックンと呼ばれていた転入生が仕切っていた。

「ちょっと話があるんだけど」
 アックンは、僕が突然やって来たことに驚き、そして慌てて面倒くさそうな表情を作った。
「なんだよ」
ナに凄く力を入れていた。
「いいから来いよ」
僕も力を入れて答えた。

 ベランダの隣のクラスとの境目で話をした。アックンは物わかりの良い方のヤンチャだったから、ケンカにならずに済んだ。教室に戻り、僕の行動を恐る恐る眺めていたダボのところに歩いていった。

「もう、大丈夫だからな」
 ダボは不思議そうに僕を見つめ返した。
「だから、もう大丈夫だから、学校に行きたくないって言うなよ、かあちゃん心配してんだから。オレの家のかあちゃんもだぞ」


 その後も中学時代にはいろんなことが起こった。ダボが関係することで、僕は二人の男を殴った。もちろん僕も殴られた。痛みはあったが、自分なりの正義を貫き通せ、気持ち良かった。ダボは、平和に中学3年間を終えた。多分何があったのか知らないだろうけど。

 高校は違う高校に進んだ。本当は同じ高校に通う約束をしていたけれど、ダボが受験の三ヶ月前、発売されたばかりの「ドラクエ」にハマってしまい、みるみる成績が落ち、あきらめるしかなかった。ダボはやっぱりバカだった。

 高校に進んでもダボは、たまり場になっていた僕の部屋に毎日顔を出した。他のヤンチャな仲間は誰も部活に入らず、昼間から僕の部屋で煙を吐き出し、麻雀に明け暮れていたが、ダボだけは下手くそなハンドボールを続けていた。8時頃、ヘトヘトになって僕の部屋を訪れ、いつまで経っても覚えようとしない麻雀を覗き込み、その後僕の兄貴と「ファミスタ」をしていた。

 一年、半年近くあった成長の差は、この頃から無くなり始める。ダボは理不尽な要求には口答えするようになり、セブンイレブンへの買い出しにも行かなくなった。ヤンチャ仲間は、ブツブツ文句を言いながらも、ジャンケンをするようになった。

 そしてダボは、弟から、友へと変わっていった。

 高校を卒業し、ダボは簿記の専門学校へ通い出す。既にダボの心のなかには「酒屋を継ぐ」という明確な目標があり、専門学校で夜遅くまで勉強し、卒業時には一級の資格を取った。思い起こせば、ダボは中学1年の作文で「家を継いで、社長になりたい」と書いていた。その頃「会社じゃねぇんだから、社長はねぇだろ」と冷やかしていたが、こんな一直線の奴を僕は他に知らない。

 丁稚奉公を終え、ダボは自分の家に入った。町の酒屋は、町の本屋と同様に大型量販店に押されていた。もうビールは売れない。ダボは決然と判断を下し、日本中の酒蔵を歩き廻り、直接日本酒を集め出した。

 その頃、僕は家を出ていた。たまに実家に変えるのは、愛猫に会うためと、ダボに会うためだった。お店に顔を出し、ビールを貰い、店先でそれを飲みながら、地元の話やお店の話を聞くのが楽しみだった。

 僕はあれほど嫌がっていたサラリーマンになっている。一直線の男ダボにはすっかり追い抜かされ、今では逆に叱咤激励されたりもする。そんなときは、「お前に言われたくねぇんだよ」とダボを蹴飛ばしながらも、東京の真ん中で突然ダボを思い出し、次なる書店へ向かったりすることもある。

 そんな友、ダボから電話があった。
「結婚することになったんだ。誰がどうみても一番世話になったのはお前だから、スピーチしてくれ」

 昼の暑さを忘れさせる、涼しい風がそっと吹いた。

7月17日(水) 友からの電話 その1

 友人ダボから電話があった。
 
 ダボはもちろんあだ名で、ダボハゼに似たボーっとした顔つきだったからだ。そんな残酷なあだ名を付けたのは僕で、中学1年の入学式が終わってすぐのことだった。

 ダボはそのあだ名どおり、どこかおっとりとした少年だった。それはもしかしたら誕生日に理由があるのかもしれないと今になって考える。ダボは4月1日生まれだった。日本の学校制度では、ひとつの学年の一番どんけつの生まれだ。子供の成長にとって、半年、一年はかなりの差を生むものだと思う。ダボはいつでも誰かの後ろにひっついていて、自分から進んで何かをやるタイプではなかった。

 中学一年の時、そのクラスで一番うるさかったのは僕だ。頭と心と身体のバランスがまったく取れず、反抗をくり返していた。先生から見ても、クラスメートから見ても一番嫌な奴だった。

 いつの間にか、ダボ的人生観からなのか、ダボは僕の後を付いてくるようになった。授業中も、休み時間も、登下校も、帰宅後もダボは僕の周りにいた。

 二十歳を越えた頃ダボに聞いたことがあった。
「何でオレと遊んでいたんだ?」
「面白そうだったんだよ、変なことばっかりしていたでしょ。ちょっと恐かったけど…」

 僕はダボと異様に気があった。それは周りから見たら親分子分の関係としてだったのかもしれないが、僕は二人兄弟の末っ子で育ったため、弟が欲しいという考えがあったからだと思う。ダボは半年違いの弟だった。

 僕とダボは野球が好きだった。僕はヤクルト、ダボは近鉄のファンだった。中学1年の正月、ダボは自慢げに僕の家にやって来たことがあった。「ジャジャーン!」という感じで手に持っていた一枚の紙片を見せられた。それはその頃近鉄のエースだった鈴木啓司から届いた年賀状だった。今でもそれは彼の宝物だ。

 ダボはもちろんそのあだ名とおり運動神経がない。だからふたりでキャッチボールをすることはなかった。机上の野球話に花を咲かせ、カードゲームをやっていた。僕もダボも愛読書は日刊スポーツが発行する『プロ野球選手名鑑』だった。ふたりは各チームのほとんどの選手を覚えていて、授業中「阪急の52番は?」なんてクイズをしていた。

 中学2年になり、クラス替えが行われた。ダボとは違うクラスとなった。クラスが変われば他人のようになり、ダボとは部活も違うので、ほとんど会う機会がなくなっていた。僕は遊びと部活に忙しく、ダボに会っていないことも忘れていた。

 そんなある日、確か夏になる前だったと記憶する。部活を終えて、夕飯まで我慢が出来ず、握り飯を食べていたとき、母親が怪訝な顔をして僕に聞いた。怪訝な顔をした母親が言い出すのはいつも決まって恐ろしいことだった。「あんた廊下に立たされて、それが嫌だから校庭で遊んでいたでしょ?」「あんたまた先生に大声で文句言っていたでしょ?」どこから手に入れた情報なのかわからなかったが、僕の悪行はすべて母親にばれていた。

 でもその日、怪訝な顔をして母親が切り出したのはまったく違うことだった。
「最近ダボ、来ないね」
 面倒見の良い僕の母親は近所の子供、僕の友達をまるで自分の子供のように可愛がった。ときには叱ることもあった。

「あのね、ダボの家に買い物に行ったの。」
 ダボの家は、その町で酒屋を営んでいた。
「そしたらダボのお母さんが、ダボが最近学校に行きたくないって言い出して心配だって話していたのよ」
 僕はおにぎりを食いながら、数日前校庭で顔を会わしたとき、ダボに元気がなかったことを思い出していた。
「杉江君といたときは楽しそうに行っていたのにって…。ダボ、クラスで虐められているんじゃないの?」

<つづく>

7月16日(火)

 新人助っ人学生の説明会第2日目。本日は女子3名。台風による影響で、激しい雨が降るなか、しっかりやってきた。偉い、偉いと誉めるが、しかし。昨日と違って異様に緊張している様子に思わずこちらも緊張してしまう。

 とにかくこんなコチコチではこちらも話しづらいと、10年近くに渡って鍛え上げた営業トークを炸裂。ここでちょっと笑って、こちらで爆笑という予定だったのだが、3人の女の子はくすりとも笑わず、無表情の一点張り。うっ、ウケない…、じゃあ、こんな話は…と別の笑い話を繰り出してみたが、こっちも全然笑ってもらえない。それどころか「このおじさんは何?」といった冷たい視線を投げかけて来るではないか。

 焦りに焦ってトドメの自虐的ギャグを炸裂させようかと思ったが、よくよく考えてみると笑わせる必要はなかったのだ。こんなアホ話をしていてもしょうがない。オレはいったい何をしていたんだ…というわけできっちり仕事の説明。女の子達は安心した表情を見せ、フムフムとメモを走らせていた。

 その後、台風一過で熱風の吹くなか、通常どおり営業に出かける。

 『明けても暮れても 本屋のホンネ』(すずさわ書店)や『編集会議』(宣伝会議)のコラムでお馴染みの高津淳さんのお店を訪問。異動になったばかりなのに、しっかりトレードマークの「何でも吊してしまう」ポップを実施しているのには、思わず笑ってしまった。

 いやはや、それにしても暑い。ハンカチもハンドタオルもビショビショだ。

7月15日(月)

 午前中、新人助っ人学生の入社説明会。このようにして書くと大げさなものに思えるが、ようは学生同士の顔合わせと、こんな待遇と仕事内容でも本当に働くのか?と、逆にこちらが面接されるようなものなのだ。

 本日と明日、このような会を予定しているのだが、なぜか男子学生と女子学生で曜日がきっちり分かれてしまった。今日は男子の部。久しぶりにこの年代特有のむさ苦しさに思わずたじろぐ。

 今回、僕には助っ人学生を選ぶ選択権はなかったが、教育係を言い渡された。おお、これも非常に偉そうに聞こえる言葉だが、実は他の本の雑誌スタッフが異様に人見知りで、人前で何か説明するのが苦手だから僕に回って来ただけのことだ。何でもやらされます課としては仕方ない。

 それにしても誰がこんな人選をしたんだ、と思わず頭を抱えてしまった。いきなり扉を開けたのはロナウドヘアーの大五郎だし、次に来たのはバリバリ真面目そうな応用物理学科の青年で、その次に来たのは、遠方も遠方、茨城からやってきた農学部の青年だった。個性を尊重する主義なのはわかっているが、これはちょっと強烈すぎないか…。

 まあ、それでも仕方ないかと、ざっと仕事の説明をした。

 結局、見かけや遠方なんていうことは関係なく、いたって素直で真面目な青年達だった。こちらの話にしっかり耳を傾け、メモを取る。疑問に思うことはしっかり質問してくるし、一番大切な挨拶もきっちりこなす。そして、学生同士互いに名乗り合い、すっかりうち解けた様子。ちょっと面白くなりそうな予感がしてきた。

7月13日(土) 炎のサッカー日誌 2002.06

 Jリーグ、再開。
 どれほどこの日を待ち望んでいたか…。やっぱり僕が心の底から応援するのは、アディダスが作るブルーのユニフォームのチームではなく、プーマの赤いユニフォームを纏う浦和レッズだ。あの照明や太陽の光に反射し、より一層映え燃え上がるような赤を見ると、同じような色をして僕の身体中を駆けめぐっている血が、一気に沸騰していくのがわかる。我が仲間の11人の動きに歓声を上げ、何もかもを忘れ、我がチームが「勝つこと」だけに一点集中し、喉が潰れるまで声を張り上げる。

 この日埼玉スタジアムには、開門の数時間前から、すなわち試合開始の3時間以上前から長蛇の列が出来てきていた。これをワールドカップ効果というのは間違いで、浦和レッズの試合ではいつものこと。ただ、並んでいる誰も彼もがこのJ再開を心待ちにしていたのだろう。どこかいつも以上の熱気が渦巻き、並びの列で交わされるサッカー談義にその熱が乗り移っているようでようであった。早く「赤の勇姿」を見せてくれ。

 いつもなら試合開始寸前まで浦和のサポーターは沈黙を続ける。相手チームのサポーターがいち早くコールを始めようがまったくの無視。まだまだ始まってねぇよ…とばかりに余裕を決め込み、試合開始寸前にその余裕を一気に爆裂させるやり方だった。

 しかしこの日は違った。突然怒号のようなコールがゴール裏から爆裂した。それは連帯感と誇りを強調する「PRIDE OF URAWA」のコールだった。最新建築であろう埼玉スタジアムの床がゴワンゴワンと揺れだした。

アレオ~、アレオ~、アオレオレ、アレオ~
アレオ~、アレオ~、オレ達の浦和レッズ
浦和レッズ、浦和レッズ、浦和レッズ、浦和レッズ
浦和レッズ、浦和レッズ、PRIDE OF URAWA REDS

 こんなに気持ちよい瞬間が他にあるだろうか。最大声量で声を出し、跳びはね、誇りを胸に選手を木舞し、相手チームをぶっつぶす。良いプレーには賞賛の拍手を与え、手抜きのプレーにはブーイング。僕は決してスタジアムでサッカーを「観ている」のではない。選手同様、あるいはそれ以上の気持ちを持って「戦っている」のだ。僕も浦和レッズの一員だし、隣で飛び跳ねている人も浦和レッズの一員だ。「WE ARE REDS」とはそういうことを指し示す言葉なのだ。

    ★ ★ ★

 試合は延長Vゴールの末、レッズの敗北に終わった。絶望は憎きジュビロの、そのなかでも一番腹立たしい藤田俊哉によってもたらされた。

 僕の体内を荒れ狂るうように流れていた血は動脈硬化を起こし、膝から力が抜け、椅子にどっかりと腰を落としてしまった。敗北も選手同様、あるいはそれ以上の大きさで僕に訪れる。非常に、ツライ1敗だった。

7月12日(金)

 注文短冊を持って、取次店さんを廻る。そろそろ月末に向けて混んでいる時期かと恐れていたが、T社もN社も待ち人は少なく予想よりも早く終わってしまった。確か5月も6月も新刊が減っていると聞いている。これで7月も少ないとなると、もしかして各社ついに新刊も出せないところまで落ち込んでしまったということなのだろうか?

 深夜プラス1に立ち寄り、浅沼さんと昼飯。食事後、浅沼さんがもぞもぞと耳打ちしてくるではないか。いったい何を言い出すのかと思ったら「ねぇ、紀の善にこおり杏を食いに行かない?」と。望むところと、その紀の善へ。冷たい、うまい。幸せというのはきっとこういうことを言うのだろう。

 しかし人生、楽ありゃ苦あり。いったい、このクーラーの利いた店内でかき氷を食う状況から、どうやってカンカン照りの外に出ろというのだ。二人揃って「ヨシ!」と声をかけ、外に飛び出す。浅沼さんはその後ヘルメットをかぶり、バイクにまたがって神田村へ。こうなると仕入も命がけだ。

 飯田橋からT社への道のりもツライが、市ヶ谷から地方小出版流通センターへの道のりもツライ。登り坂になっているため一部の出版営業マンには「心臓破りの丘」と呼ばれているのだ。

 その後は…。意識がなくなり、ほとんど覚えていない。

 今、僕と向かい合わせに座っている事務の浜田は、何か歌を口ずさんでいる。

「たんたんたぬきの…」
 そこで歌は止まった。

7月11日(木)

 台風が去ったら、凄まじい暑さに…。わざわざ金子や浜本が近寄ってきて「今年一番の暑さになるんだって!」と笑う。不公平という言葉を強く噛みしめつつ、無言で営業にでかける。

 気温30度を越えたら注文数5倍なんて本屋さんがないかと考えつつ、『国道の西、夜明けのミナミ』植上由雄著の営業。本日が事前注文〆日にあたるため、とてもここに書ききれないほどジグザグと電車を乗り換える。もちろん注文は通常通りだ。

 くったくたのヨレヨレになって会社に戻ると、入れ替わりに浜本が外へ出ていった。おお、取材か、ざまぁみろと罵っていると、ものの数分で戻ってくるではないか。それも口にはアイス「がつんとミカン」が突き刺さっている。

「あの~、それを買いに外へ出たんですか?」
「ほう、ほう。」
「営業で汗びっしょりになって戻ってきた僕の分を買ってこようという気はまったく起きなかったんですか?」
「ふん、ふん。」
 浜本は涼しげに自分の席に戻っていった。

 机の中にある退職願を突きつけるべきか、その後、数時間悩み続けた。

7月10日(水)

 とある書店さんを直納のため訪問。担当の書店員さんがある本を指さし、うんざり顔で話す。

「あの本の版元の営業が来てね、うるさいの。○○書店で××冊売れていて、△△書店では□□部売れたって。何だかこっちが努力してないみたいじゃない。○○書店も△△書店も全然客層が違うんだから、そういうこと考えて話せばいいのにね。思わず頭に来て『だったらその○○書店で全部売ってもらえばいいじゃない』って言っちゃった。」

 他の書店の売上データを上げて「これだけ売れている、だからおたくもどうですか!」という営業マンは結構多いが、これは結構両刃の剣で、なかにはその数字に目移りし注文をくれる書店さんもあるが、一歩間違うとこのように書店さんの怒りを買うこともある。日本全国同じ本が売れるとすれば、それは爆発的なベストセラーでしかなく、それ以外はやはり客層の違いが如実に現れるもの。

 多分、「どこでどれだけ売れた」より「なぜそこで売れたのか」の方を書店さんは知りたいんじゃないか。そこから客層の違いが見え、自店の傾向がハッキリし、品揃えのヒントが隠れている。

 暑さに負けて、ダラダラと営業をし、会社に戻る。また別のとある書店さんから電話があり、いきなり
「聞いてくださいよ~」の嘆き声。

「この前杉江さんが来たとき、文庫フェアの棚を見て言っていたじゃない。そうそう夏の奴。うちは狭い店だからスペースに限界があって、○社の文庫だけ普通の棚の平台に乗せていたでしょ。そしたら杉江さん、『これ○社の営業が来たら文句言いますよ』って言っていて、どうせ来ませんよと僕、笑っていたじゃないですか。そしたら来たんですよ、○社が。

 いつもは温厚な書店員さんなのだが、今日はやたらに早口で声に力がこもっていた。

「そんでね、いきなり近寄ってきて『どうしてうちだけここなんですか!』てふくれてるの。だからスペースに限りがあって、△社と□社で、クルクル回すつもりだって言っているのに『夏は普通の平台とフェアがあるからおいしんじゃないか』ってしつこいんですよ。おいしいのはお前のとこだけだろって怒鳴ろうかと思ったけど、今後の配本とかもあるから黙っているしかないんですよ。すごい若造で、本のことも全然知らないし、本当に嫌になっちゃいましたよ。自分じゃなくて、名刺がモノをいっているってこと気づかないんですかね。ああ、とりあえず今日飲みましょう」

 外は台風が近づき、大雨が降っていた。それでも遅くまで酒を飲んだ。荒れているのは天気だけでなく、その書店員さんの心も同様だった。

「本屋の店員のレベルが下がった下がったって言われるじゃない。確かにそれはあるかもしれないけれど、出版社の営業や編集のレベルだって同じように下がっているんじゃない。そもそも営業マンって何しにお店に来るの?」

 愚痴と言ってしまえばそれまでかもしれないが、もっともっと重い言葉だと僕はとらえていた。そしてその書店員さんと別れ、終電ギリギリの、雨を切り裂くように走る電車のなかで、僕は何度も何度も考え、答えを探し求めた。吐き出すように呟かれた言葉。「営業マンはなぜお店に足を運ぶのか」の…。

7月9日(火)

 営業事務の浜田が、履歴書の束を持って近寄って来た。おお、それは先月号で募集していた助っ人学生の応募ではないか。そうか、ついに僕も人事権を持つまでに出世したということか。ヨッシャ!これでも一応、人とはたくさん会ってきている自信はある。鋭い観察眼で選んでやるぞと勢い込んで手を差し出すと、浜田がきりりと言い放つ。

「参考までに…どうぞ。」

 やけに「参考までに」をくっきりハッキリ発音しやがる。いったい「参考までに」というのはどういうことか。問いただしてみると、ただ見るだけで発言権はまったくないとのこと。ガックリ。

 それにしても時給700円のアルバイトに数十通の応募。世の中、捨てたモンじゃないなあ…なんて考える。いや、ありがたい。

 さて、「参考までに」履歴書に目を通すが、発言権はないそうなので、そのまま黙って営業に出かけた。

 本日は総武線を千葉に向かって営業。注文を取りはぐれている水道橋で途中下車しつつ、亀戸Y書店さん、新小岩のH書店さんを訪問。その後、事務の浜田から「注文の電話をもらっていて本誌の定期部数がジワジワ増えている」と報告を受けていた本八幡のT書房さんに初めて顔を出した。

「お忙しいところすみません、本の雑誌社と申しますが、文芸書の担当の方は、いらっしゃいますでしょうか?」

 ガチガチに緊張しつつ、棚差ししていた書店員さんに声をかけた。するとその書店員さんが僕の顔と名刺を凝視する。そしていきなり
「わぁ!!! 本の雑誌が来たぁ!」と叫ばれる。

 その後は、文芸担当のKさんを紹介され、こちらが恐縮するほど優しい応対を受ける。「人も少ないでしょうし大変でしょうから1年に1遍でも顔を出していただけるとうれしいです」なんて言われて、思わず感動の涙。

 10軒に1軒、いや50軒に1軒でも、こんな良いことがあれば営業マンは幸せだ。そしてこんなことがあるから営業マンを辞められないのだ。

 暑さに負けている場合じゃない。

 …ですね、安田ママさん(http://www2s.biglobe.ne.jp/~yasumama/)

7月8日(月)

 暑い。とにかく暑い。ここまで暑いと、道を歩くときなるべくお店寄りの端っこを選ぶようになる。運良く誰かがそのお店から出てきて、入り口が開いた瞬間、幸せがやってくる。冷気の間借りとでもいうのだろうか。また、駅の券売機の切符が出てくるところも、ちょっとだけ冷たい空気が流れ出ていて、束の間の幸せだ。

 その代わり、横道にそれたときが大変だ。建物の側面に取り付けられた室外機からブルブルと灼熱の風が吹き出ていて、その風に当たってしまったら、もうやる気は消滅。思わず棒でも突っ込んで、中で回っているファンを止めてやろうかと思うほどの怒りも込み上げてくる。駅のベンチもなま暖かくなっているし、自動販売機の周りなんていうのも苦しい場所だ。

 それにしても夏の営業はツライ。体力の衰えか、いわゆるヒートアイランド現象のせいなのか、年々夏の過酷さが増しているような気がする。「営業引退」の文字が現実味を帯びてくっきり浮かぶ。

 社内でクーラーに浸り、一段と引きこもり化をしている他の社員達が恨めしい。おまけに営業している新刊は、ウエちゃんの第2弾『国道の西、夜明けのミナミ』。そのウエちゃんも今頃海遊館の前で客待ちしつつ、クーラーガンガンの車内でアイスでも囓っているのかと思うと、注文を取るのもバカらしくなってしまう。ああ、やっぱりサッカーバカは労働者階級ということか…。

 神保町のS書店さんを訪問。人事異動後の初顔合わせで新文芸担当のYさんと名刺交換。フロアー長として異動してきたSさんとも名刺交換するが、実はSさん、僕が医学書版元にいた頃、担当だった方なのだ。久しぶりの対面に思わず感激。

 出版業界には、いわゆるジャンルわけの名称以外に、一般書と専門書というくくりがある。一般書とは、まあ普通のお客さんが買う文芸書や実用書あるいはビジネス書や児童書のことをさし、専門書はその道の専門家や学生が買うような本を指すのだろう。何となく一般書の担当は「誰でも出来る」といったイメージがあるのだが、本当にそうなんだろうか? これはこれで専門性が必要なのではないかと考える。

 その後、当HP「ほんや横丁」の連載でもお馴染みの東京ランダムウォークの神保町店を尋ねる。実は営業に出る前、助っ人学生のTさんに頼まれたことがあったのだ。

「杉江さん、わたし大学のゼミで、出版業界というのを勉強しているんです。そんで今回、書店の担当になってレポートを書いているんですが、現役の書店員さんにいくつか話を伺いたいんです」

 おお、そうか! そのために僕の机の上にあったイミテーション本棚から『出版大崩壊』小林一博著(イーストプレス)や『コードが変える出版流通』松平直寿著(日本エディタースクール出版部)なんて本を借りていったのか。

「それでですね、わたしスゴイ好きな本屋さんがあって、杉江さん知ってますか? 神保町のランダムウォークって本屋さん」

 思わずずっこけそうになってしまった…。

「あのさ、うちのHP見たことある? 『ほんや横丁』でそのランダムウォーク六本木店の渡辺さんが連載しているんだけど。ほら」
と見せつけると、Tさんはものすごく驚き、突然僕に対して少しだけ尊敬の眼差しを向けてきた。僕は逆に、ランダムウォークを好きになってくれたことがうれしかった。

「お願いです。ランダムウォークの方にインタビューをさせて頂けるよう連絡してもらえないでしょうか?」

 真剣な問いには真摯に答えたい。というわけで早速神保町店を訪問し、Yさんに事の経緯を伝えると快く了承してくれ、数日後そのインタビューが行われることとなった。僕自身も助っ人のTさんがどんな質問をするのか、そしてYさんがどんな風に答えるのか非常に楽しみだ。

7月7日(日) 炎の休日出勤

 ワールドカップも終わり、我が浦和レッズの復活まで後1週間も待たなければならない。おまけに自分のサッカーチームも夏は厳選した活動しかしないので、こういう週末は前発行人M氏の如く何にもやることがなく、ただただ時間が過ぎていく。

 ちょうど良いタイミングといっては大変失礼になるが、僕にとっては休日出勤にうってつけの環境で会社のイベントが行われた。『弟の家には本棚がない』の発刊を記念しての吉野朔実さんのサイン会とトークセッション。場所はジュンク堂書店池袋店だ。

 うだるような暑さのなか、多くのお客さんが並んでくれ、ありがたい限り。

 吉野さんのサイン会は非常に緊張感に溢れたものだった。ファンの方々もきっと何か声をかけたいと考えているのだろうが、しかし自分の順番がやってくると呆然と立ちつくし、振るえた手で本を差し出していく。

 そこは書店の入り口に作られた特設会場だったのだが、ファンと吉野さんの間はとても静かな空間が出来上がっていた。眈々と無言で進んでいく列。さらさらと書き上げるサイン。その不思議な空間のなかに、実は多くのファンの想いがうごめいているのを、僕も一読者として知っている。何も言えないけれど、きっと想いは伝わっているのだろう。

 そしてサインをもらったファンの方々は幸せそうに立ち去っていった。

 吉野さんは、サイン会終了後「わざわざ本を買って、また来てくれるってすごいエネルギーが必要ですよね。2度もここに来てるわけですから。それを考えただけでもうれしいんです。」と話されていた。印象に残るとても優しい言葉だった

7月5日(金)

 昨夜、この『炎の営業日誌』始まって以来のオフ会を開いた…。

 いや、本当はそんな立派なものではなく、感想を送ってくれた京都の専門出版社・化学同人の営業Yさんと酒を飲んだだけなのだが…。

 Yさんが初めてメールをくれたのは、僕が日本代表の選考から落ちて悲しみに暮れていたときである。ほとんどの友人・知人があの原稿を読んで「お前は、やっぱりバカだ!」と呆れていたのに、Yさんだけは「これで負けたら杉江さんを選んでいないからですね」と優しい言葉で励ましてくれた。

 僕はYさんとはまったく面識がなかった。しかし化学同人という出版社は、僕が本屋でアルバイトをしていた頃、同じ専門書の売場ということもありいくらか知っていた。それ以上にメールを交わしている内にいろんな偶然が重なり、実は僕と化学同人には他にもいろんな関係があることがわかった。そしてこれは是非お会いして酒でも飲みましょうということになり、Yさんの出張に合わせ、昨夜がその初対面の超ミニオフということになった。

 出版営業にもいろんなタイプの人がいるのだが、Yさんは僕が大好きな「密かに熱いタイプ」だったのですぐさまうち解けてしまった。いや、うち解けるどころか、本の話、出版の話、営業の話、書店の話、どれもしっかり「志」のある人で、おまけに同い年ということも判明し、話題が尽きない。もちろんサッカーの話を振れば、非常に詳しく解説してくれるではないか。いやー、偶然とはいえ、こんな人と知り合えて良かったなあと酒を飲みながら感慨に更けっていた。

 ところが、そんな風に盛り上がっていたのに、飲み屋の選定に大きな失敗があった。僕はあまり酒を飲まないので、知っている飲み屋というのがほとんどない。新宿といえば、房チェーンとそこから独立した沖縄料理の「海森」だけ。この日は、何となくその「海森」に行ったのだ。

 Yさんと話していると僕の肩を叩く人間がチラホラ。見れば編集長の椎名が狂っている浮き球△ベースの面々だ。「今日は仕事ですから…」と答えてもそんなことはこの人達に通じない。これはヤバイと身構えていたら、首領の太田篤哉氏まで参上。

「杉江くん、これからみんなで別のところに飲みに行くから、君も来なさい。その友達も一緒に。」

 友達じゃなくて…なんて言い訳も通用することもなく、気づいたら赤坂にいて、また新宿へ戻ってきてと飲み屋をハシゴさせられていた。Yさんが終始楽しそうに酒を飲んでいるのがせめてもの救いだったのだが、それにしてもとんでもない世界に巻き込んでしまったと猛反省。

 反省しつつも終電が間近になり、帰ろうとしたらまたもう一軒行くぞ!という展開になってしまう。

「Yさん、どうします?」
「僕は新宿にホテルを取っているので、別に大丈夫ですけど…」

 帰巣本能がものすごく強い僕は、そのままYさんを残して帰宅してしまった…。

 いったい人間はどのように行動するのが一番なんだろうか?
 そしてこの超ミニオフ会に2度目があるんだろうか?

7月4日(木)

 長雨が止んだら途端に夏。ジメジメとモワモワの中、外回り営業。非常にツライ。電車と書店さんのクーラーだけが頼りで、移動の最中は、ほとんど意識が薄れている。「営業引退」の文字が忽然と頭のなかに閃く。

 吉祥寺のP書店を訪問し、数カ月ぶりに担当Nさんと対面。いや、ちゃんと毎月訪問しているのだが、タイミングが悪くいつもいつもNさんの休みの日にぶち当たっていたのだ。「どうもすみません」と謝りつつ、お話。

 Nさんとは奇遇にも同じヤクルトファンということで昨年喜びを共有しつつ、マリノスサポということで相反している仲。そのNさんが「そうそう、杉江さんに渡そうと思って待っていたんですよ」と言いながら取り出したのはJリーグチップスのおまけカード。それもレッズの福田、永井、井原。思わず大きな声で「くれるんですかぁ!」と興奮してしまった。恥ずかしい…けれど、非常にうれしい。

 何だかこんなことばかり書いていると、まったく仕事をしていないんじゃないか!と発行人の浜本から心配し、なおかつあるのかどうかわからない査定に響きそうなので報告しておくが、Nさんからしっかり追加の注文も頂いた。もちろんJリーグチップスではないので安心を。

 その後、文庫売場に行って旧知のT君と会う。

 僕は一応自分の中のルールとして、書店員さんと友達のようなつき合いは、絶対しないよう心がけている。正しい日本語は使えないが、年の上下に関わらず敬語は絶対に崩さない、下の名前やあだ名で呼ばない、個と公がぐちゃぐちゃにした営業はしないと決めている。

 そんな想いで営業をしているなか、数少ない例外がこのT君で、彼と会うとどうしても教室の片隅で遊んでいた学生時代に連れ戻されてしまう。ほぼ同年代、そして同性ということもあるのだろうが、仕事の話を越えて、かなり深いプライベートなことまでついつい互いに話してしまう。
 ただ、僕はT君の仕事のやり方をとても尊敬しているので、その辺は逆にライバルとして、おお、T君がここまでやっているなら、オレもやらなきゃいけないな…といつも発憤させられている。こういう関係で、今後5年10年つき合っていけたら、かなり面白いところに辿り着けるんじゃないかと期待もしている。本日もくだらないこと6割、真剣な仕事の話4割で、大いに盛り上がる。

 それにしてもP書店さんは大規模な改装をしてかなり印象が変わった。特にエレベーターを降りて正面にある、新刊スペースの平台と面陳の棚はインパクトが強烈だ。「本の魅せ方」という意味では、各書店さんのなかで、P書店さんが一歩リードしているような気がする。

7月3日(水)

 DMの製作や地方書店さんへのファックス連絡に一日を充てる。やっぱり一日中社内にいると滅入ってしまう。

 考えることもどんどんネガティブになっていき、売上月報やらデータ出しをしているうちに、「もし僕じゃない有能な営業がいたら、倍の売上になっているんじゃないか」なんてことを考え出してしまって、かなり自己嫌悪に陥る。

 自己嫌悪中、新刊のスケジュールや企画の話を浜本と話し合う。ひとつひとつの浜本案を見ながら、どれが良い、どれがダメと営業としてコメントするが、結局その代替の案が自分のなかにひとつもないことに悲しみを通り越して怒りさえ覚えてしまう。

 営業マンは酒の席などで、こんな言葉を吐くことがある。
「うちの編集部はどうしようもない本ばかり作って…」

 これは自分への反省で書いているのだが、だったら営業企画で売れる本を作れば良いだけのこと。レイアウトや校正などは編集者に任せても、企画や原稿依頼は営業にも出来るはず。それが出来ないのにこんな言葉を吐くのは、社員ではなく部外者として評論家になってしまっている証拠だろう。

 だからこそ、自分自身で企画を練り、本を作り、営業していきたいと考えているだが、まだまだで何も出来ず、台割りが一向に埋まらない。

 能力が足りない…というのは非常にツライ。

 そんななか全点フェアを開催していただいた日本橋のM書店Nさんから電話を頂く。1ヶ月間行ったフェアの報告だったのだが、予想以上に売れていて、大きな喜びが沸く。企画してくださったNさんに深く感謝。このフェアはめずらしく浜本と目黒に誉められたのだ。

 もう1歩、僕は進みたい。

7月2日(火)

 常磐線ラインを営業。
 まず恩の深い綾瀬のY書店Tさんを訪問しようと思って電車を降りた。電車のドアが閉まる瞬間、はたと気づく。そういえば、高架の工事で5月から何ヶ月か店舗改装になると聞いていたのだ…。改札を出ずに…それくらい知恵は働いた…覗いてみたがやっぱり工事中。わざわざこのために北千住で常磐線から各駅停車の千代田線に乗り換えたというのに、なんたることか。ああ。

 次なるお店松戸のR書店さんへ。バックナンバーフェアを開催していただいているお礼も兼ねて。しかし不運は続くもので、担当のHさんはお休み。まずい…、このまま常磐線が全滅だと、今後の営業スケジュールがかなりきつくなると焦りだす。

 一気に柏へ向かうが、ここでもしW書店のOさんとS書店のMさんに会えなかったら、取り返しのつかない大失敗になるなと電車のなかでかなり滅入っていた。

 相変わらず、数年前の渋谷みたいな高校生がたむろしている柏駅を出て、恐る恐るW書店を訪問すると、おお、いきなりOさんとバッタリ。思わず泣きそうになるが、いきなりこんなところで泣いたらOさんがビックリするだろうと我慢。しかしなぜかOさんがいきなりのVサイン。なんとW杯によって散々たる売上が予測された6月。最後の週末で一気に巻き返し、前年比を越えたとか。喜びつつお茶。

 その後、S書店のMさんを訪問。一瞬姿が見えなかったので「やっちまった…」と焦るが、しばらく売場を眺めていたらレジに姿を現す。良かった、良かったと声をかけたら「6月中旬まで杉江さんの写真でも貼って、切り刻もうと考えていたのよ」と恐ろしい発言。

 やはりこちらのS書店さんも日本代表が負けるまで、とても声に出せないほど苦戦していたらしい。そんなときに小社HPを覗いてみたら、僕がW杯を観戦して有頂天に喜んでいる日記が掲載されていて、何だかわからないが「W杯が悪い」が「杉江が悪い」に変換していったとか。まあ、ベスト16で日本が負けたその日からお客さんが戻りだし、最後の怒濤の1週間で取り返したから、どうにか僕の命も持ったということだろう。

 小社5月末の新刊『弟の家には本棚がない』もなかなか動き出さずジリジリしていたらしいのだが、その怒濤の1週間で売り切ってしまったようで、いつも余計なことばかり話している僕を心配して、Mさんから補充の注文を頂く。ありがたい限り。

 その後、新松戸S書店を訪問し(Tさんに会えず)、武蔵野線、南越谷のA書店で仕事を終える。会社に直帰の連絡を入れると浜本が「あれ?もうJリーグ始まったの?」と言われる始末。

 サッカーで直帰出来る会社というのは確かに幸せだけど、仕事をしていてもすべてサッカーだと思われる会社というのは不幸だ。

7月1日(月)

 ワールドカップが終わり、やっと大好きなJリーグが再開へ。我らが浦和レッズの勝ち点は、忘れたくても忘れられないたったの6。いわゆるJ1残留ライン勝ち点30まで、あと24の約8勝が哀しい目標か…。まあ、現在長期的ビジョンによる構造改革元年だから、サポも痛みを我慢しなければいけないのだろう。とにかく7月13日、ジュビロ磐田との戦いが楽しみだ。

 それにしてもいつからワールドカップは「祭り」と表現されるようになったのか。Jサポやまったく興味のなかった人ならその表現を使う理由もわかるが、やたらといろんなところで「祭り」が終わったと発言されている。

 確かワールドカップは「戦争」と呼ばれていた時期もあったのではないか。他の国ではいったいどんな表現をされているのか気になるところ。何だかこの「ワールドカップ=祭り」という図式が続く限り、日本代表への真のサポートは生まれない気がするし、あれだけ必死にプレーした選手達が可哀相で仕方ない。これじゃ4年前に城彰二はいったいなぜ水をかけられたのかわからない。 ワールドカップは、その程度のものになってしまったのだろうか?

 さて心を入れ替えて仕事に集中しようと考えていたのだが、定期健康診断のため午前中は病院へ行かされ肩すかし。

 血を取られる瞬間思わず看護婦さんの顔を見つめてしまったのは、ワールドカップ中の数少ない読了本『イン・ザ・ブール』奥田英朗著(文藝春秋)のせいだろう。『最悪』『邪魔』とシリアスすぎる不幸寄せ集めミステリーを書いた著者とはとても思えない爆笑小説で、とくに一話目の表題作を埼京線の中で読んでいたとき、含み笑いを越えて声を挙げて大笑いしてしまったほど。しかし話が進むに連れ、笑っていて良いの?と深く考えさせられるあたりはさすが奥田さん。この作品は、是非ともシリーズ化して欲しい。

 再度心を入れ替え、午後から集中して営業に向かう。HP『ほんや横丁』の連載「仕事の目・遊びの目」で野上さんが書かれているパルコBC渋谷店を訪問。記述どおり、入り口が工事されていて、これから改装が始まるようだ。

 僕自身、当欄で何度も書いてきたがこのお店を訪問するのが大好きだった。それはベスト10や平台を見れば明らかで他店から考えたらとんでもない本が、山積みされていてそれがしっかり売れていたからだ。こんな面白いお店はないよなぁ…といつもそのベストをメモもしていた。いや、今でも変わった本がランクインしているから、その血は確かに受け継がれているのだろう。

 血が受け継がれている…と書いたのは、その頃の店長、Yさんが異動になり現在他の支店で働いているからだ。Yさんはいつも売場を走り回っていて、部下に指示を出していた。そしてアンテナに引っかかるとどんな出版社の本でもドンと勝負をかけた。いつだか不思議に思ってベスト1に君臨している本を見ながらYさんに聞いたことがある。

「Yさん、どうしてこの本をこんな大きく展開しようと考えたんですか? 他店では多分平積みにもなっていないと思うんですよ」
「……。わかんないんだよ、いや、ちょっとはわかっているけど言葉にならないっていうの? なんかね、来るんだよ、新刊チラシとか営業マンと話していると。ピピッとね。」

 この地でオープン時期から勤務し、定点観測し続けたYさんの言葉は重かった。あの時代の野上さん曰く「ぼくらの書店」パルコBC渋谷店を築いたのは間違いなくこのYさんと、その下で厳しいYさんの怒声を受けながら働いていた方々の力だろう。

 それがそのまま改装後に蘇るのか、それとも新しい形で生まれ変わるのか、どちらにしても期待が高まる。

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