いつもはスーツ姿ばかりが目に付く東京駅も、この時期だけは明るく衣替え。新幹線への改札口や長距離バスの乗り場は大変な混雑で、その人混みを掻き分けながら、夏休みを取り逃した僕は営業先であるYブックセンターへ向かった。
一番緊張する営業先はどこか?と聞かれたら僕は、即答でこのYブックセンターを挙げるだろう。それは決して、気難しい人がいるからとか、売上にシビアだからといった理由ではない。そういう意味なら逆にこのお店はやりやすい。何せかつてアルバイトしていた職場だから見知った顔もたくさんいるし、特徴だってわかる。
ならばなぜ、緊張するのか?
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今から11年前のちょうど同じ季節。僕は大学進学をあきらめ浪人生活を2ヶ月でおさらばした。両親を説得した夜、コンビニで買った求人誌には3件の大型書店が載っていた。それまで、地元の小さな本屋しか知らなかった僕は、本好きの兄に勧められるまま、Yブックセンターに応募した。面接は簡単に済み、すぐ翌日から働くことになった。
生まれて初めての仕事である。いや、それまでに宅急便の仕分け、酒屋、塾の講師、精肉業のアルバイトはしていた。でも、それらのアルバイトは気持ちの上では単なる小遣い稼ぎでしかなかった。だからそれなりに働くことしかなかった。
でも、今回は違う。学生という守られた身分もなく、ここで働くことは、大げさに言えば自分の人生を切り開くための一歩だった。だから、気持ちは高ぶっていたし、かなりの覚悟を決めているつもりだった。
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入社初日。これから所属する売場に連れて行かれた。そこは専門書のフロアーだった。フロアー長と呼ばれる人に挨拶し、担当の分野を言い渡された。医学書だった。今度は医学書の担当の社員に挨拶をすると、その人が大まかな仕事の流れを説明してくれた。そして「今日はとにかく場慣れするためウロウロしていていいよ」と言われた。
明るい音楽が流れ、店のオープンを告げた。信じられないことに開店前から多くの人が入り口で待っていた。だからすぐ売場には、お客さんが溢れ出す。そして思いも欠けぬ事態が起こった。「この本はどこにある?」 そう、お客さんから問い合わせを受けたのだ。
何で僕に聞くんだ? 今日が初日なんだからわかるわけがないだろう? いやそんなことはお客さんに伝わるわけがない。他の店員と同じ制服で売場に立っているんだから。
それにしてもよりによって他にも人がいるのにどうして僕に聞くんだ。そして、いったいどうしたら良いんだ? 初日の緊張感もあって、頭の中はパニックに襲われる。
するとたまたま通りかかった僕と同年代の女性店員が、お客さんに声をかけた。
「スミマセン、どの本ですか? あっ、この本でしたら、あちらの棚になりますので、ご案内致します」とすぐさまお客さんを連れて、棚の向こうに歩いていってしまった。そして、彼女はお客さんを案内し戻ってくると僕をバックヤードに連れて行き、大きな紙を渡してくれた。
「これがこのフロアーの棚の配置図だから、早く覚えるといいよ」
そこにはかなりの数の棚が描かれていてその棚ごとに、細かなジャンル分けが書かれていた。僕は、あわてて顔を上げ、彼女に聞いた。
「これ全部覚えているってこと?」
「そう、これくらいはすぐ覚えられよ。でも、これだけじゃ全然ダメで、私もまだまだでよく怒られているの」
これを全部覚えてまだまだって、どういうことだ?
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それから1週間ほど過ぎた頃、上司からカウンターに入るよう指示があった。
恥ずかしいことに僕は膝が震えた。何せそれまでの1週間、なるべくお客さんの目に付かないよう納品されてきた本の仕分けやスットクの整理などなるべく裏方の仕事ばかりを選んでやっていたのだ。それが書店のカウンターだ。一番お客さんからの問い合わせが多いところ。それまでの間、彼女に渡された配置図を持って、営業前に店内をうろついたけれど、まったく頭に入らなかったし、そもそも専門書の言葉がわからなかった。
恐れていた瞬間はすぐにやってきた。
「●×△□◆の本はどこ?」
年輩のサラリーマンが気軽に声をかけてきた。
一瞬聞こえなかったフリをしようかと思ったけれど、お客さんは完全に僕の目を見て話しているし、その距離だって50センチも離れていない。とても逃げられそうにない。とりあえずそれまでに本を探す方法として先輩社員から教わっていた『日本書籍総目録』という分厚い本を手にしようとした。その瞬間、隣にいた先輩の店員さんがお客さんに声をかけた。
「お客様、それでしたら、あちらにあります」
腕をサッと伸ばす。
「45番という棚がございますね。あの棚の右から3枠目の上から3段目です。青い背表紙の本で、右側から3冊目くらいにささっていると思うんですが…」
僕には何かの呪文に聞こえた。右から3枠目? 上から3段目? 青い背表紙? なんじゃそれ? それでも、お客さんは素直にその言葉に従い、その案内された方へ歩いていく。そして、しばらくすると確かに先ほど言われた言葉が表紙に書かれた、しかも青い本を持ってくるではないか。先輩の社員へ一言「あったよ。ありがとう」とうれしそうに声をかけ、その本をレジに差し出した。
この人、魔女? 僕は隣にいる先輩社員を見つめた。この人が声に出すとそこに本が生まれるんじゃないか。でも、決して鼻はかぎ鼻でもないし、黒い帽子かぶっていない。お客さんが会計を済ませた後、先輩社員は振り向き笑顔で言った。
「本当は棚まで案内しないとダメなんだけど、カウンターにお客さんが並んでいると抜け出すわけにもいかないでしょ。本の場所はね、杉江くんもしばらく居れば、覚えるわよ」
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お客さんに本を聞かれる。すぐに答える。本当にそこに本がある。他の先輩社員も同様の商品知識を持っていた。なかには他フロアの商品までずばり案内する人もいた。
結局、僕はこのYブックセンターで1年半アルバイトを続けることになるのだが、最終的にこの先輩達の域まで達することは出来なかった。自分の担当ジャンルの本を記憶するのがやっとだった。それだって、今にして思えば信じられないけれど。
それにしても、とにかく厳しかった。僕はその後、医学書の出版社そしてここ本の雑誌社と転職していくのだが、あの時ほど緊張感を持って働いたことはない。とにかく周りの先輩達が真剣で本気だった。新入社員はしょっちゅうバックヤードで泣いていたし、先輩社員達もフロア長に怒鳴りつけられていた。もちろん僕もバックヤードに呼び出される常連だった。
そして、仕事を終えて近くの居酒屋に行くと、先輩達がケンカ寸前の議論をしていた。僕はそんな先輩の姿を見て「誰がサラリーマンはダメ」って言ったんだと思った。こんなに真剣に働いているじゃないか…。
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あれから11年の月日が経って、僕は今、営業マンとしてYブックセンターへ向かっている。多くの失敗を思い出しながら…。
入館証を受け取り、店内に入る。あの頃の先輩達に顔を会わせ、再度まだまだと実感する。
間違いなく僕の原点はここにある。