『荒なみ編集日誌』と何だか妙な議論になってきていて、どうしたもんかと悩む。
このまま日誌で続けるのにはちょっと抵抗があって、なぜなら一方通行同士のこの状態で続けていくと、今ですらポイントにズレが生じているのに、もっともっとズレていってしまうような気がするからだ。
いやそんなことよりもこのような「出版とはなんぞや?」とか「編集とはなんぞや?」みたいな答えの出ないポイントで議論したくないという気持ちが強い。そんなことに時間を費やすのであれば、もっともっと具体的なことを議論していきたい。
それはたとえば荒木が指摘する出版が産業に向かないなんてことは、重々承知で、そんなことはこの『炎の営業日誌』でも何度も書いてきているのだ。
しかし幸か不幸か僕たちはその産業に向かない出版の世界で、明日のメシを食うために、あるいは娘にムシキングをやらせるために、金を稼がなきゃならないわけだ。ならば僕らは当事者として、その斜陽産業のなかで金を稼ぐ方法を具体的に考えていかなればならない。
それはたとえば、まったく夢のない話だけど、制作費を下げる方法だったり、あるいは3000部を4500部にする方法だったり、ネットをつかった販売方法だったり、いっぱいあるでしょう、そういうことが。それを議論したいのだ。
それから何もこんなちっぽけな会社から100万部を越えるようなベストセラーを出せなんて話はしていない。もっともっと地味なそれこそ初版3000部、重版2回で6000部で良い。僕たちが働いている本の雑誌社は大手出版社じゃないんだ。「ベストセラーの条件を模索し追求」なんてしちゃいない。
だからこそ、荒木がいう『「巨木」ではなく「多種多様な樹木潅木草木のたぐい」』の本を出せるんだ。その自由さというか、商いの小ささこそが小さな出版社の醍醐味ではないのか?
でもでも君が思い描いているその手の本は、君がいう3000部も売れないだろう。3000部、3000部って簡単にいうけど、本当に3000部売るのは大変だからだ。
しかしその3000部も売れないであろうその本を、どうにか3000部売れるようにするための具体的な方法論を僕はこの場で議論するなら、いつでも耳を貸すし、受けて立つ。
しかし今のような「精神論」みたいなものをこの場でしたくない。なぜならそれには答えがないし、発展性がないからだ。そういうものがしたいなら居酒屋で助っ人学生と話した方が良い。
それと荒木が引用した橋本治さんの全文を読んだわけじゃないから本来の意味で理解していないのだけれど
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出版が“産業”として成り立つためには、「多種多様の人間が、ある時期に限って同じ一つの本を一斉に読む」という条件が必要になる。こんなことは、どう考えたって異常である。出版というものが、“産業”として成り立っていた二十世紀という時間が異常だったーーというだけの話である。(『別冊本とコンピュータ4 人はなぜ、本を読まなくなったのか?』p149)
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という意見に僕はちょっと疑問を感じる。なぜならその20世紀というか、70年代以降90年代までが、それこそ初版3000部というか多種多様な本が生き延びてこられた時代だったのではないのか? 地味な本でもロングセラーになって棚で回転し(売れて)、年に1度くらい重版がかかる。そういう時代だったのではないか?
逆に21世紀になってからが異常なのではないか? これは僕の勘違いなのであろうか…。うーん、わからない。
最後に荒木の質問である
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「出版社の商品は『活字』ではなく『本』なのだ。どんだけ若者がメールやネットで文章を書こうが読もうが、彼ら彼女らが本を買わなければ、僕らに利益は生まれないのだ。」
「僕は『本』そのものを愛しているのであって、コンテンツがどうこうなんていうのには興味がない。 」 (杉江)
そうなの?杉江さん!ほんとにほんとにそう思ってるの?
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に答えよう。
まず元々の僕の文章が稚拙で誤解させてしまって申し訳ない。僕が書いた「コンテンツがどうこう」というのは、内容を指すのではなく、コンテンツを本以外のモノにして商売としようすることであり、それにはまったく興味がないと言いたかったのだ。僕は「本」を売りたいと。
ただし誤解されたままの荒木の質問答えるとしても僕は「本当にそう思っている」。それは、最終的には本なら何でもいいと。
なぜならまず、僕は会社員で会社が儲かれば(たぶん)給料が増えるし、内容よりも売れることはお客さん(書店さん)に喜ばれるからだ。
それともうひとつ、僕はこの会社に入る前、医学書の出版社に勤めていた。そのとき自分の売っている本を、いくら読んでも理解できなかった。でも売ることは出来たし、たぶんほとんどの編集者だって読者(ドクター)より理解できるなんてことはなかったのではないか?
そしてその前の書店アルバイト時代も、医学書1年、心理宗教書半年くらいの担当だったから、読めない(読まない)本を扱うってことは普通のことだった。もちろん本当は勉強しなきゃいけないんだろうけれど、それこそ専門的な知識が必要なのではなく広く浅くよかったのではないか?
たぶんそういう経歴のなかで生きてきたから、僕は本でさえあれば何でもいい。本をモノ、商品として見る癖が付いたのではないかと思う
ではでは読者の皆様、こんな長たらしいつまらない議論を読ませてしまってスミマセンでした。荒木君、よろしく。