早起きの息子を散歩に連れ出す。8時にしてすでに頭頂部を焼くような日差し。息子が「アウッ!」と三輪車を指さしたので今日は乗せて押していくことにした。
息子は1歳半なのだが、すでにお気に入りの散歩コースを持っている。だから自分で行きたい方向にハンドルを切る。それが面倒なコースだったりすると、無理矢理息子ごと三輪車を持ち上げて方向転換するのだが、着地させると同時に元々向いていた方にハンドルを切る。すでにそれだけの意思を持っている。
この日は途中、工事用のショベルカーに触らせてやったので、機嫌良く一周し家に戻った。家の中から掃除機の音がした。まだしばらく外にいよう。そう考えたら車があまりに汚いことに気づく。そういえば随分洗っていなかった。もう買い替える金もないんだからこの車を大事に扱わないとならないのだ。息子は機嫌良く目の届くところで遊んでいるようなので、物置から洗車セットを取り出した。
ホースから吹き出す水を思わずそのままかぶってしまいたくなるような暑さだった。帽子をかぶるのを嫌がる息子の頭からもレンズのような汗が噴き出している。そうか。洗車が終わったらプールに行こう。息子はまだおむつが取れてないから連れて行けないが、娘と二人で行こう。
玄関を開け、身体に張り付いたTシャツを脱ぎながら「おーい、プールに行くぞ」と声をかける。すると2階で本を読んでいた娘が、駆け下りてきた。「ほんと? ほんと? ママ、プールだって、早く用意して」。僕が手を洗い用意している間に、娘はすでに水着を着、妻に脹らませてもらった浮き輪を身につけ、先日買ってやったゴーグルもかぶっていた。
「お前はほんとにおバカだな」と笑いかけると「なんでよ、去年パパが着替える時間がもったいないから家から着ていけって言ったんじゃない」と膨れてしまった。そうだ、去年の夏もこうやって何度も県営プールに足を運んだのだ。
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僕の父親は海が好きだった。それも並大抵の好きではなく、僕が生まれるまでは、ダイビングのために日本中きれいな海を求めて旅するような男だった。「あの頃はウェットスーツなんて売ってなくてさ、生ゴムを買ってきて自分たちで縫ったんだよ」。酔うとさかんに海の話をした。
だから年に一度の家族旅行は、海と決まっていた。夏休みになると、三浦海岸や伊豆まで近所の家族とともに電車に揺られ、父親が気に入っている海岸に向かった。
僕自身も、海が好きだった。特に潮だまりの生き物がたまらなくおかしく、イソギンチャクに指を入れたり、ヤドカリを捕ったり、時にはウツボに噛みつかれたりと、潮だまりが本当の海に戻る寸前まで遊んでいた。
海に着くと父親は、もはや僕らには興味がなく、使い古したまん丸の水中眼鏡と銛を片手に、海に潜っていた。そして昼頃には貝やウニを袋から溢れんばかりにさせ、「うめえぞー」と呟きつつ、大きなナイフでウニを割っていた。僕はなまものが食べられないので、じっと見つめるだけだったが、5歳離れた兄貴は、父親に素潜りを教わり、自分で獲ってきたウニを美味そうに食べていた。
僕が夏になっても半ズボンを履かなくなった年のことだ。
海に向かう列車のなかで、山を越え、ぐるっと電車がカーブするところで、真っ青な海が見えた。毎年のことなのだが父親は初めて海が見えると思わず歌を歌い出す。
「海は~広いな~大きいな~」
それも鼻歌ではなく、心底そう思っているような大きな声で歌うのだ。
しかしそのとき僕の座っている後ろの座席で若い人の集団から笑い声が起こった。僕は顔が真っ赤になったのが自分でもわかった。それでも父親はまったく気にせず、海を見ながら歌い続けた。父親に辞めてよとは言えず、早く歌が終わってくれと下を向いて願っていた。
その翌年は、夏休みが近付くのがイヤだった。そしてなるべく海の話が出ないよう気を遣っていた。しかし当然のようにその年も海に行くことが決定事項としてあり、父親はいそいそとガイドブックを取り出していた。
そんな父親に母親が言った。
「今年はお兄ちゃんは高校受験で夏休みも塾だって。」
「何、言ってるんだよ。夏の2,3日海に行ったって関係ないだろう。塾なんて休ませろよ」
「じゃあ、本人にそう言ってよ」
父親は兄貴を呼び出し、説得したが、兄貴は兄貴でかなり高望みした高校を目指していたのでかたくなに拒否した。勉強するという子供を強引に旅行へ誘うわけにもいかず、兄貴はひとり家に残って、留守番をすることになりそうだった。勘弁してくれ。僕はあわてて声をあげた。
「じゃあ僕も行かない」
父親やビックリして僕を見つめた。何も言わなかったが、その目はとても哀しそうだった。
その年以来家族旅行はなくなった。
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プールに飛び込むと娘は大はしゃぎだった。子供プールに、流れるプール、波の出るプールとすべてのプールで遊び、最後は子供プールに戻って、去年の続きで泳ぎの練習を始めた。
「もうあがろうよ」
すっかりくたびれてしまった僕が先に音を上げたが、娘は「まだ泳ぐ」の一点張り。
「じゃあさ、パパはテントにいればいいじゃない。それで私の泳ぎを見ていてよ」
プールサイドに張った日よけテントを指さし、娘はそういった。去年までは首まできていた水面が今年は胸の下までしか達していない。
ここなら大丈夫か。僕は娘のいうとおり日よけテントの下にゴロリと横になった。
真っ青な空に、真っ白な雲。水を叩く音。歓声。
「パパ、パパ! パパってば。見てよ、今すごい泳げたんだから。手はこうでしょ」
そう叫ぶ娘の頭上で、太陽が力強く輝いていた。