日曜日のことだ。日用品の買い物を終え、車から飛び降りた娘が「ハラヘッタ音頭」を踊り出す。時計をみると12時半だった。幼稚園では11時過ぎには給食になるのだからそれは腹が減るだろう。買い物の整理を妻に任せ、僕は焼きそばを作り出す。肉を炒め、キャベツともやしを投入し、麺をその上に覆い被せる。こうやると野菜から出た水が水蒸気になって麺をほぐすんだ、と教えてくれたのは中学校のときに通っていた塾の先生だったか。
かれこれ20年以上前のことを思い出しつつ、焼きそばを炒めていると電話が鳴った。
「お母さんだけど。今ね、お父さんが売り切れたら大変だから早く行くぞってランドセル買いに行っているのよ。そしたらさ、あんたの頃は赤と黒しかなかったのに、何色もあるじゃない? ねえ、ユキは何色がいいのか聞いてよ」
電話を受けた僕から妻が菜箸を取り、焼きそばにソースを混ぜた。香ばしい匂いが部屋を満たし、その匂いに誘われたように娘の「ハラヘッタ音頭」は激しくなっていた。その娘に聞く。
「今ジジとババがお前のランドセル買いに行ってるんだって」
娘はハラヘッタ音頭を辞め、今度はランドセルサンバを踊りだした。
「うれしいなったらうれしいな」
「でさ。お前ランドセル何色がいいの?」
「えっ? ピンク。ピンクで絶対決まり」
そのことを母親に伝えると、電話の向こうでしばらく沈黙があり「ねぇ、あんたピンクっていってもいろんなピンクがあるのよ。困ったわね。あんまり激しいピンクも目立ち過ぎるし、こんなんでいじめられたらたまらないし。ねえ店員さんこれ一度買って孫が色が違うっていったら交換にしてくれる? ああ、いいのね。じゃあ、こっちで選んで持っていくわ。気に入らなかったら交換してね。」
★ ★ ★
僕が小学校にあがるときに渡されたのはボロボロのランドセルだった。それは5歳離れた兄貴が使っていたランドセルで、兄貴はそのとき6年生だけが許される肩掛け鞄で登校していた。兄貴の書いた落書き、さび付くボタン、それでも僕は何とも思っていなかった。教室で数日過ごすまでは。
入学式を終え、クラス分けが発表になり、教室で数日過ごした帰りの会のあとだった。さて帰ろうとランドセルを背負ったとき、まわりの奴からテッパンと呼ばれている、ちっこくてすばしっこい奴が、僕に向かって「お前のランドセルはボロボロだな。カッコワリイ」と囃し立てた。そのとき初めて僕はクラスの連中のランドセルがみんな新品で、僕だけが新品でないランドセルを背負っていることに気づいた。「お前ん家、ビンボーなのかよ?」テッパンはしつこく囃し立ててきたので、ポカーンとそいつの顔をぶっ飛ばし、僕は教室を飛び出した。
学校の真正面にある家にはあっという間につき、母親を大声で呼んだ。
「かーちゃん、俺のランドセルなんでお古なんだよ。新品買ってくれよ」
「え?! だってまだ使えるじゃない」
「やだよ、こんなの。学校中でお古なんて俺だけだよ」
「使えるものは使うの。もし壊れたら買ってやるから、それを使いなさい」
その夜、帰ってきた父親にも必死に訴えたが、帰ってきた言葉は一緒だった。
「使えるものは使え。壊れたら買ってやる」
次の日から僕はランドセルを乱暴に扱った。投げ捨て、蹴飛ばし、ときには砂場にこすりつけた。それでもランドセルはなかなか壊れなかった。やっと壊れたのは、乱暴に扱うのを忘れた小学校3年のときだった。肩から提げるベルトが切れたのだ。
「あら、壊れちゃったね。仕方ないわねー。買いに行こうか」
そうやって近所の学校指定の洋服屋に向かおうとする母親を僕は慌てて止めた。
「あのさ、もうみんなランドセル、ぼろいんだよ。今さら新品の背負っていったら今度は『一年生』なんて言われるよ。頼むからこれを治してよ」
そうやってぷらぷらと揺れる肩ひもを母親に見せると、確かにそうね…と呟き、ハッと何か閃いたのか、隣の家に歩いていった。しばらくすると笑いながら別のボロボロのランドセルを持ってきた。それは隣の家の兄ちゃんが使っていたランドセルだった。
そして僕は結局一度も新品のランドセルを背負うことなく、小学校を卒業した。
★ ★ ★
熨斗のついた箱を空け、薄紙に包まれたランドセルを娘が取り出した。娘の背中でローズピンクと呼ばれるあまり激しくなく、でもキレイに輝くピンク色のランドセルが踊っていた。最近はちゃんと感謝の気持ちが伝えられるようになった娘は、父親の前に立ち「じじ、ばば、ありがとう。この色かわいい!」と頭を下げた。父親は目を真っ赤にしてその姿を追っていた。
そんな父親に僕は聞いた。
「あの頃さぁ、やっぱ俺ん家、貧乏だったからランドセル買えなかったんでしょう?」
「違うよ。あの頃はまだサラリーマンだったからお金はあったんだよ。貧乏になったのは、あの後、独立してからだよ。そうじゃなくて俺はやっぱり物をこさえてお金を稼いできた人間だろう。だからさ、やっぱり使えるものを捨てるってのがどうしてもできなかったんだよ。まあ、お前には悪いことしたと思ってるけどな」