« 前のページ | 次のページ »

3月5日(木)

 青山ブックセンター本店を訪問し、青山通りを渋谷に向かって歩くと、右側に古本屋さんが並んでいる。何の気なしにワゴンを覗くと、もっとも敬愛する作家の一人、山口瞳さんの<男性自身>シリーズの単行本『禁酒時代』(新潮社)が並んでいた。

 私は山口瞳さんの著作を集めており、たいていのものはそろっているのだが、この<男性自身>シリーズの単行本はまだコンプリートしていない。問題は27点あるこのシリーズのどれを持っているのか把握していないことだ。いつもリストを作ろうと思うのだが、つい億劫がってこういう結果になる。

 値札を見ると500円であった。それが相場なのかわからないが、私のなかでは「買い」の値段である。ただしダブった場合はもったいない金額でもある。妻は家にいるはずなのだが、こんなことで電話するのも恐ろしい。でも、コンプリートに近づくためには妻の壁を越えなければならない。

「もしもし家? あっそう。じゃあさ、悪いんだけど俺の本棚を見て、右端の一番上の棚に山口瞳がいっぱい並んでいると思うんだけど......」

 妻は素直に本棚のある部屋に移動し、棚を見てくれているようだった。

「手前の文庫をどかすと奥に単行本が並んでいるんだけどそこに『禁酒時代』って本があるか見てくれない?」

 ゴソゴソと本を動かす音がした後、ないとの返事を受ける。

「あっ、良かった」

 そう言うと妻は突然大きな声で話出した。

「良かったってどういうことよ? 仕事で使うんだったら、なきゃ困るじゃない」

「違うんだよ。今、古本屋さんで見かけてね、俺このシリーズ集めていてどれを......」

 深く息を吸い込む音が聞こえたような気がした。

「あんた仕事しなさいよ!」

 私は「その通り!」と叫び、あわてて電話を切り、『禁酒時代』をレジに差し出した。

« 前のページ | 次のページ »