9月の新刊『月の下のカウンター』太田和彦著の見本が出来上がってきたので、直行で取次店廻り。取次店廻りといえば出版社の営業マンにとってとても大切な仕事であり、ここでその本がどれだけ書店さんに届けられるか厳しい交渉が行われる場なのであった。
銀行のような窓口になっており、私は自分の順番が来るのを緊張しがら待っていた。すると胸ポケットに入れていた携帯電話がブルブル震える。汗で曇った液晶画面には「父親」の文字が映し出している。朝のこの時間に、父親が電話をかけてくることなんてそうそうないことだ。
私の両親ももうふたりとも65歳を超えており、いつ何があってもおかしくない年齢である。父親が電話をしてきたということは母親に何かがあったんだろうか。私は順番待ちの席を一旦離れ、エレベーターホールで電話を受ける。
「もしもし父さんだけど」
「ああ」
「今、ちょっと取引先の人が来ているんだけどさ」
私の父親は小さな小さな町工場を経営している。そこは不況の煽りと中国やアジアの成長をもろに影響を受ける厳しい環境にある。もしや取引先から今後の製品は中国で作るとでも言われたのだろうか。父親の会社は、その発足時からすべて見つめているので私にとっても大事な場所なのだ。そこに何かあったら駆けつけないわけにはいかない。
「いやあのね、その取引先の人がもつ焼き大好きな人でさ、そういえばお前この間西日暮里に美味いもつ焼きがあるって言っていたじゃん。教えてくれよ」
肩の力が抜けるのと同時に、朝の9時半からロクでもないことで電話してきた父親に怒りを覚える。ただこんなところで親子ケンカをしてもしょうがないので、店名を教える。そこは私が連載をさせていただいている「散歩の達人」で紹介されていたお店だ。
「ああ、菊一ね。住所はインターネットで調べてみ」
「わかった、わかった、お仕事頑張ってください」
父親はのん気な様子で電話を切るのであった。そこには追い込まれた中小企業の厳しい経営者の様子はまったくなかった。
昼、冬に出版を予定している宮田珠己さんの『だいたい四国八十八ヶ所』のイラストを担当していただいている石坂しづかさんと打ち合わせ。想像通りの素敵な方で、一緒に本づくりができるのがうれしくなってしまった。
そのまま営業にでかけ、ひと息つく夕刻4時を迎えた頃だった。また私の携帯電話が震え、「父親」の文字が浮かんでいる。
「もしもし父さんだけど」
「何? 店わからないの?」
「いや店はちゃんとわかってね、そこに行くことにしたんだけど、お前も一緒に行かないかと思ってさ」
酒の誘いであった。行きたいところだけれど、今日は神宮球場で野球観戦なのだ。
「ああそうなんだ。忙しいねぇ。じゃあお父さんひとりで楽しんできますよ、ハハハ」
相変わらずのん気に電話を切るのであった。
まさか野球が6時から始まるとは思っておらず、神宮球場に着いたときには、お互い点が入ったあとだった。試合は追いつ追われる展開で結構面白く、久しぶりに会った横溝くんとビール片手は話が弾む。そうしているとまた携帯電話が震えだし、またも「父親」の文字。今日私の携帯は「父親」以外からの着信はなかったんじゃなかろうか。
「もしもし、私はあなたを産んだ片割れの父さんです」
「なんだよ」
「なんだよじゃないよ、父さんですよ」
父親のろれつが怪しい。
「えーっとですね、こういうことはきちとん報告しないといけないと思いまして、電話しているんですがね、私の二人目の息子に教わったもつ焼き屋さんがものすごく美味しくて、今、感動しているんです。いい店を紹介していただきまして、ありがとうございました」
相当酔っ払っているようであった。
「わかった、わかった。飲み過ぎないで帰るんだよ」
「いや飲み過ぎますね。こんなに美味しいもつ焼きがあったら」
「わかったから。俺、野球、見てるんだよ」
「野球よりもつ焼きだね」
酔っ払いの電話はしばらく続いたのであったが、外野席から聞こえる応援の音によってそのほとんどが聞こえずに終わったのであった。
そういえば、高野秀行さんの爆笑インタビューが載った
「酒とつまみ」第13号が出たのであった。