6月1日(水)
朝、玄関の扉を開ける前に、iPodの電源をオンにし、ヘッドホンを装着する。
私に7人の敵がいるかどうかはわからないけど、不特定多数の人たちがいる場所には音楽がないと飛び出していけない。歳を重ねると神経が図太くなるかと思っていたが、なぜか年々と繊細になっている。知らない人の声や街に流れる大音量が怖い。音楽は私の精神安定剤なのだ。
さて、今日のこのちょっと肌寒い日に合う曲はなんだろうと、iPodのくるくるする部分をこする。いつもならすぐさまアーティストの名前が動き出し、クリックすると好きなアルバムを選ぶことができるのだが、なぜかカーソルはアルファベット順で先頭のAudioslaveから動かない。
ううん? 指先に何か付いているのかと思って、ズボンの太ももの部分でぬぐってから改めて試してみるが、うんともすんとも言わない。これはボタンが壊れてしまったかと再生のボタンを押してみると、そちらには反応し、いちばん上にあるアルバム「Audioslave」の1曲目「Cochise」がヘッドホンから流れだした。
しかし私が聴きたいのは、「Cochise」ではないのだ。今日はもうちょっと緩やかな気分だからJack Johnsonあたりを聴きたいのである。しかもなんだか音量が大きくて、こんなものを電車のなかで聴いていたら音漏れで周りを不快にしてしまうし、なにより私の耳が耐えられない。ところが音量を下げるにもくるくるが必要なわけで、今度は指先の温度が低いのかもと息を吹きかけ温めてから触ってみるが相変わらず反応はない。
「何やってんの?」
いつまでも玄関にいる私を不審がって妻に声をかけられる。慌てて時計をみると、遅刻の時間が迫ってしまっているではないか。
「いやiPodが壊れちゃって」
「えっ?」
「だから音楽が聞けないんだよ」
「いいから早く会社に行きなよ」
まるで子どもを叱るかのように言われ、私は玄関の扉を開けたのだった。
そこには、不安に満ちた世界が広がっていた。
額と脇の下に異様に汗を流しながら、どうにか出社した私は、すぐにインターネットを繋げ、「iPod 故障」で検索をかけた。そこには様々な故障例と解決策が書かれていたのだが、どれを試しても私のiPodのくるくるは反応しない。リセットもダメ、復元もダメ、話かけてもダメ。相変わらず私のiPodは、大音量の「Audioslave」しか聞けないのである。そしてどの解決法も最終的には、メーカーが運営している「アップルストア」に持って行けと書かれており、これはもうそうするしかないのであろう。
営業中の不安な心を音楽なしでどうにか乗り越え、私は定時になるとすぐさま会社を飛び出し、アップルストアというところに向かった。かれこれ20年以上マックユーザーだが、いつの間にかこんなおしゃれなスポットが出来ていたとは。明るい店内には、多くの人々がうごめいているようだが、とにかく私のiPodを早く直して欲しい。そう思って飛び込んでいくと、突然私の前に大きな壁が立ちはだかったのである。
なんじゃ? 顔を上げると、そこには口を開いて真っ白な歯を見せる黒人の、まさにビッグママのような女性がいるではないか。
「こんにちは!」
いきなり話しかけられたのが、私の頭の中ではその日本語が、どこの国の言葉だかわからない、おそらくアフリカのどこかの言葉のように聴こえた。目から入る情報と耳から届く情報がマッチしないのだ。たぶん私に言っているのではないと、目を泳がせると、隣にいるのは背の高い白人の男性で、必死に怯えを隠そうとする私に向かって「どうしましたか?」と話しかけてくる。
外国に行ったのは新婚旅行のハワイと結婚5周年のグアムだけで、生涯で外国人と接した数は10人に満たいない私である。しかも人生初の海外旅行のハワイの入国審査で係官の女性から「シンコンリョコウデスカ」と日本語で聞かれたにも関わらず、私は「地球の歩き方」で学んだたったひとつの外国語「サイトシーイング」と答えた人間である。
まさかアップルストアで、「サイトシーイング」と答えるわけにもいかず、しかも私はiPodが直らないとこのつらい世の中を生きていけないからこの壁を突破しないかぎり明日はないのである。ここは南アフリカワールドカップでエトーを止めた長友の想いで、飛び込むしかないのだ。
「iPodガコワレチャッテ」
「それなら2階のカスタマーセンターへ」
どうやら私は第一関門を突破出来たようだ。
待ってろよ、インテル......じゃなかったアップル。
アクリルのおしゃれな階段を上がっていくと、そこは異国だった。
奥にカウンターがあり、その手前にのテーブルにはそれぞれPCが設置され、青いTシャツを来た様々な国の人たちが、お客さんであろう日本人(だけでなかったかも)と話し込んでいる。ここはおそらく私の人生でいちばんアウェーな場所ではなかろうか。
立ち止まって、というか怖くて足が進められず立ち止まっていると、今度はアジアのどこかの国の人だと思われる女性から話しかけられた。
「どうしましたか?」
下にいたビッグママよりは私に近い存在に見え、私は下で話したのと同じ言葉をポケットからiPodを取り出しながら発した。
「iPodガコワレチャッテ」
「ああ、そうですか。えーっと30分後のご案内になりますので、お名前をどうぞ?」
そういうとアジアンな女性は、手にしていたiPadに、私の名前を打ち込もうとするが、「スギエ」と言っても指先を動かそうとしない。そうか外国の人には「スギエ」という発音が聞こえにくいのかと思い、改めてはっきりした発音で「スギエ」というが、女性は「?」という顔したままだった。
もしかして「名前」を訊かれたのではなく、「ネーメー」とか「ナーマー」とかアップルストアで使用される専門用語を訊かれたのではないかと心配していると、「フルネームでお願いします」と言ってくるではないか。だったら早く言ってくれよと、「スギエ ヨシツグ」と答えるとiPadに「ヨシツグ スギエ」と打ち込まれた。
そして次はメールアドレスを打ち込むようiPadをさし出してきた。
おお! iPad!
出版業界の敵か味方かわらかんが、私は実物に触るのは初めてだ。意外と重いではないか。これなら本のほうがずっと楽だ。そんなことを考えていると、「メールアドレスを」とアジアンな女性は言ってくる。キーボードがないのにどうやって文字を打ち込めばいいのか悩んでいると画面の下半分にキーボードらしい配列の文字が並んでいた。
なるほどここをタッチすればいいのかとアドレスを打ち込みだすが、私のメアドは数字が入っており、しかしiPadの画面に数字はない。うーん、と唸りながら観察してみると「1.2.3」と書かれたボタンがあるではないか。おそらくここを押すと数字になるのだろうが壊してはいけない。
「ココオストスウジデスカ?」
アジアンな女性は、私があまりに初歩的な質問をしたからか、何を言っているのか理解に苦しむ表情をし、私からiPadを奪おうとした。しかしこんなところで機械に弱いおっさん扱いされるのは、プライドが許さない。私はiPadを抱え込み「1.2.3」と書かれたボタンを押してみると、配列が数字に変身したではないか。
ふふふ。小さな声で「グッジョブ!」と漏らすと、アジアンな女性はイライラした様子で私の背後を見ているのだった。いつの間にか私の後ろに4人もの人が並んでいるではないか。
メアドを打ち込んだ後、時間を指定され、私はしばらくCDショップで時間をつぶし、また魔界であるアップルストアに飛び込んでいった。ビッグママが「こんにちは」と話しかけてきたが、もう私は怖くない。この魔界がどんなところなのかわかっているのだ。すすっと階段を上っていくと、今度はアフリカンな男性が、名前を呼び出していた。
「ヨシダケンニチサーン」
どうやら時間になるとそうやって名前を呼ばれ、該当する場所に連れていかれるようだ。
「ミサワシゲルサーン」
「ウエノアキコサーン」
「スズエヨシツグサーン」
ちょっと違うけれど、私のことだろう。「ハイ!」と腕を伸ばし、アフリカンな男性のところにいくと、ひとつのテープルに案内された。
「ここで待っていてください、担当が来ますので」
私は直して欲しいiPodを手に、隣で私同様に何かの修理を依頼している人を眺めていた。
「イメージの話ですが、パソコンにつないだ時にまずバックアップされるのが......」
係の人は、手元のノートに絵を書きながら説明しているが、説明されている人も、隣で盗み聞きしている私にもまったく理解出来ない。おそらくUFOに連れられた人はこういう場所で、頭のなかにチップを埋め込まれているのだ。
「お待たせしました」
そこに現れたのは日本人で、ああ、やっと気心知れた人と出会えたような安心感が湧いてくる。頼む、日本人、あんたの大和魂で一刻も早く私のiPodを直してくれ。
事情を説明すると、係の人はすでに保証期間が過ぎていることと、私が行った解決法以外に直す方法はないあっさり言うではないか。
「えっ?! 直せないの?」
思わず大きな声を出してしまったが、修理するという発想はないらしい。
「新品と交換で......」と言いながら手元の端末を叩くと「8800円かかります」と、まるで宇宙人のような顔して言うのであった。
「8800円?! それだと新型買うのと......」
「そうなんですよね、微妙なところですよね」
どうやら目の前の日本人はモノを大切にする心を、このUFOのなかで取り除かれてしまったようだ。
私は魔界の地であるアップルストアを出ると、その足で、電気屋さんに向かった。
そして妻がピザが2枚いっぺんに焼けるオーブンレンジを買うために貯めていたポイントを使って新型のiPod nanoを購入したのだった。
チーズが食えない私には、ピザは必要ない。
私に7人の敵がいるかどうかはわからないけど、不特定多数の人たちがいる場所には音楽がないと飛び出していけない。歳を重ねると神経が図太くなるかと思っていたが、なぜか年々と繊細になっている。知らない人の声や街に流れる大音量が怖い。音楽は私の精神安定剤なのだ。
さて、今日のこのちょっと肌寒い日に合う曲はなんだろうと、iPodのくるくるする部分をこする。いつもならすぐさまアーティストの名前が動き出し、クリックすると好きなアルバムを選ぶことができるのだが、なぜかカーソルはアルファベット順で先頭のAudioslaveから動かない。
ううん? 指先に何か付いているのかと思って、ズボンの太ももの部分でぬぐってから改めて試してみるが、うんともすんとも言わない。これはボタンが壊れてしまったかと再生のボタンを押してみると、そちらには反応し、いちばん上にあるアルバム「Audioslave」の1曲目「Cochise」がヘッドホンから流れだした。
しかし私が聴きたいのは、「Cochise」ではないのだ。今日はもうちょっと緩やかな気分だからJack Johnsonあたりを聴きたいのである。しかもなんだか音量が大きくて、こんなものを電車のなかで聴いていたら音漏れで周りを不快にしてしまうし、なにより私の耳が耐えられない。ところが音量を下げるにもくるくるが必要なわけで、今度は指先の温度が低いのかもと息を吹きかけ温めてから触ってみるが相変わらず反応はない。
「何やってんの?」
いつまでも玄関にいる私を不審がって妻に声をかけられる。慌てて時計をみると、遅刻の時間が迫ってしまっているではないか。
「いやiPodが壊れちゃって」
「えっ?」
「だから音楽が聞けないんだよ」
「いいから早く会社に行きなよ」
まるで子どもを叱るかのように言われ、私は玄関の扉を開けたのだった。
そこには、不安に満ちた世界が広がっていた。
額と脇の下に異様に汗を流しながら、どうにか出社した私は、すぐにインターネットを繋げ、「iPod 故障」で検索をかけた。そこには様々な故障例と解決策が書かれていたのだが、どれを試しても私のiPodのくるくるは反応しない。リセットもダメ、復元もダメ、話かけてもダメ。相変わらず私のiPodは、大音量の「Audioslave」しか聞けないのである。そしてどの解決法も最終的には、メーカーが運営している「アップルストア」に持って行けと書かれており、これはもうそうするしかないのであろう。
営業中の不安な心を音楽なしでどうにか乗り越え、私は定時になるとすぐさま会社を飛び出し、アップルストアというところに向かった。かれこれ20年以上マックユーザーだが、いつの間にかこんなおしゃれなスポットが出来ていたとは。明るい店内には、多くの人々がうごめいているようだが、とにかく私のiPodを早く直して欲しい。そう思って飛び込んでいくと、突然私の前に大きな壁が立ちはだかったのである。
なんじゃ? 顔を上げると、そこには口を開いて真っ白な歯を見せる黒人の、まさにビッグママのような女性がいるではないか。
「こんにちは!」
いきなり話しかけられたのが、私の頭の中ではその日本語が、どこの国の言葉だかわからない、おそらくアフリカのどこかの言葉のように聴こえた。目から入る情報と耳から届く情報がマッチしないのだ。たぶん私に言っているのではないと、目を泳がせると、隣にいるのは背の高い白人の男性で、必死に怯えを隠そうとする私に向かって「どうしましたか?」と話しかけてくる。
外国に行ったのは新婚旅行のハワイと結婚5周年のグアムだけで、生涯で外国人と接した数は10人に満たいない私である。しかも人生初の海外旅行のハワイの入国審査で係官の女性から「シンコンリョコウデスカ」と日本語で聞かれたにも関わらず、私は「地球の歩き方」で学んだたったひとつの外国語「サイトシーイング」と答えた人間である。
まさかアップルストアで、「サイトシーイング」と答えるわけにもいかず、しかも私はiPodが直らないとこのつらい世の中を生きていけないからこの壁を突破しないかぎり明日はないのである。ここは南アフリカワールドカップでエトーを止めた長友の想いで、飛び込むしかないのだ。
「iPodガコワレチャッテ」
「それなら2階のカスタマーセンターへ」
どうやら私は第一関門を突破出来たようだ。
待ってろよ、インテル......じゃなかったアップル。
アクリルのおしゃれな階段を上がっていくと、そこは異国だった。
奥にカウンターがあり、その手前にのテーブルにはそれぞれPCが設置され、青いTシャツを来た様々な国の人たちが、お客さんであろう日本人(だけでなかったかも)と話し込んでいる。ここはおそらく私の人生でいちばんアウェーな場所ではなかろうか。
立ち止まって、というか怖くて足が進められず立ち止まっていると、今度はアジアのどこかの国の人だと思われる女性から話しかけられた。
「どうしましたか?」
下にいたビッグママよりは私に近い存在に見え、私は下で話したのと同じ言葉をポケットからiPodを取り出しながら発した。
「iPodガコワレチャッテ」
「ああ、そうですか。えーっと30分後のご案内になりますので、お名前をどうぞ?」
そういうとアジアンな女性は、手にしていたiPadに、私の名前を打ち込もうとするが、「スギエ」と言っても指先を動かそうとしない。そうか外国の人には「スギエ」という発音が聞こえにくいのかと思い、改めてはっきりした発音で「スギエ」というが、女性は「?」という顔したままだった。
もしかして「名前」を訊かれたのではなく、「ネーメー」とか「ナーマー」とかアップルストアで使用される専門用語を訊かれたのではないかと心配していると、「フルネームでお願いします」と言ってくるではないか。だったら早く言ってくれよと、「スギエ ヨシツグ」と答えるとiPadに「ヨシツグ スギエ」と打ち込まれた。
そして次はメールアドレスを打ち込むようiPadをさし出してきた。
おお! iPad!
出版業界の敵か味方かわらかんが、私は実物に触るのは初めてだ。意外と重いではないか。これなら本のほうがずっと楽だ。そんなことを考えていると、「メールアドレスを」とアジアンな女性は言ってくる。キーボードがないのにどうやって文字を打ち込めばいいのか悩んでいると画面の下半分にキーボードらしい配列の文字が並んでいた。
なるほどここをタッチすればいいのかとアドレスを打ち込みだすが、私のメアドは数字が入っており、しかしiPadの画面に数字はない。うーん、と唸りながら観察してみると「1.2.3」と書かれたボタンがあるではないか。おそらくここを押すと数字になるのだろうが壊してはいけない。
「ココオストスウジデスカ?」
アジアンな女性は、私があまりに初歩的な質問をしたからか、何を言っているのか理解に苦しむ表情をし、私からiPadを奪おうとした。しかしこんなところで機械に弱いおっさん扱いされるのは、プライドが許さない。私はiPadを抱え込み「1.2.3」と書かれたボタンを押してみると、配列が数字に変身したではないか。
ふふふ。小さな声で「グッジョブ!」と漏らすと、アジアンな女性はイライラした様子で私の背後を見ているのだった。いつの間にか私の後ろに4人もの人が並んでいるではないか。
メアドを打ち込んだ後、時間を指定され、私はしばらくCDショップで時間をつぶし、また魔界であるアップルストアに飛び込んでいった。ビッグママが「こんにちは」と話しかけてきたが、もう私は怖くない。この魔界がどんなところなのかわかっているのだ。すすっと階段を上っていくと、今度はアフリカンな男性が、名前を呼び出していた。
「ヨシダケンニチサーン」
どうやら時間になるとそうやって名前を呼ばれ、該当する場所に連れていかれるようだ。
「ミサワシゲルサーン」
「ウエノアキコサーン」
「スズエヨシツグサーン」
ちょっと違うけれど、私のことだろう。「ハイ!」と腕を伸ばし、アフリカンな男性のところにいくと、ひとつのテープルに案内された。
「ここで待っていてください、担当が来ますので」
私は直して欲しいiPodを手に、隣で私同様に何かの修理を依頼している人を眺めていた。
「イメージの話ですが、パソコンにつないだ時にまずバックアップされるのが......」
係の人は、手元のノートに絵を書きながら説明しているが、説明されている人も、隣で盗み聞きしている私にもまったく理解出来ない。おそらくUFOに連れられた人はこういう場所で、頭のなかにチップを埋め込まれているのだ。
「お待たせしました」
そこに現れたのは日本人で、ああ、やっと気心知れた人と出会えたような安心感が湧いてくる。頼む、日本人、あんたの大和魂で一刻も早く私のiPodを直してくれ。
事情を説明すると、係の人はすでに保証期間が過ぎていることと、私が行った解決法以外に直す方法はないあっさり言うではないか。
「えっ?! 直せないの?」
思わず大きな声を出してしまったが、修理するという発想はないらしい。
「新品と交換で......」と言いながら手元の端末を叩くと「8800円かかります」と、まるで宇宙人のような顔して言うのであった。
「8800円?! それだと新型買うのと......」
「そうなんですよね、微妙なところですよね」
どうやら目の前の日本人はモノを大切にする心を、このUFOのなかで取り除かれてしまったようだ。
私は魔界の地であるアップルストアを出ると、その足で、電気屋さんに向かった。
そして妻がピザが2枚いっぺんに焼けるオーブンレンジを買うために貯めていたポイントを使って新型のiPod nanoを購入したのだった。
チーズが食えない私には、ピザは必要ない。