10月27日(土)炎のサッカー日誌リターンズ改めターリーズ
金曜日の朝、衣替えしたばかりのジャンパーを着て、埼玉スタジアムの自由席前日抽選の列に並んでいた。吐く息は白く、同じように並んでいる人たちはみな身体を揺すり、手に息を吹き掛けていた。
私はいつもどおり折りたたみの椅子に座り、iPodで音楽を聞きながら抽選が始まるのを待っていたのだが、そのとき突然、天啓のように浦和レッズの背番号6、山田暢久の姿が頭のなかをよぎった。
Jリーグ創設直後の94年に藤枝東高校から入団した山田暢久は、その身体能力と時折発揮される天才的プレーが認められ、主に駒場スタジアムのバックスタンドを盛り上げた第一人者である。その後埼玉スタジアムに主戦場が移ると、スタンドとの距離に安心を覚えたのか、今まで以上に思うがままにプレイし、サポーターの熱視線を浴び続けた、まさに<裏>ミスターレッズと呼ばれるにふさわしい選手なのであった。
その山田もすでに37歳(マジかっ!)、体力はまったく衰えていないのだが、知力の低下がひどく、今季から浦和レッズの指揮をとるミシャサッカーの難解な戦術についていけず、それまでどんなに転んでもどんなにひっくり返ってもどんなに躓いても怪我をせず、夏場の暑い時期の自主的バカンス以外、浦和の試合には必ずピッチを所狭しと右往左往している山田暢久の姿がったあったのだが、今季その姿をピッチで見ることはほとんどなかったのである。
その山田暢久の不在に突然寂しさを覚えた私は、前日抽選を終えた帰路の車のなかで、暢久のチャントを泣きながら歌っていた。
★ ★ ★
それはセレッソ大阪戦前半30分のことだった。
山田暢久の後継者として名高く、試合中に集中している姿を一度も目撃されたことのないDF永田が、右腿の裏を押させるとベンチに×の印を送った。
DFラインの真ん中がいなくなることに安堵を覚えた私は、浦和レッズのベンチを見つめた。右隣で見ていた観戦仲間のデザイナーのコジャさんは「水輝か? もしかして野田?」と予想したが、誰もアップしていなかった控え選手がぞろぞろと出、適当に身体を動かしているところへ、ミシャから指示を受けたコーチが声をかけたのは、山田暢久だった。ホーム埼玉スタジアムのピッチに山田暢久が立つのは、6月27日ナビスコカップ、サンフレッチェ広島戦以来4ヶ月ぶりのことである。
左隣で観戦していた取次店K社のUさんは「どこで使われるんだろう? 阿部がDFに下がって、暢久がボランチかな?」と呟いていたが、山田はダルそうにピッチに入ると、阿部に声をかえ、DFラインの真ん中に立った。
「山田!!!」
私は真っ赤な背中に白くプリントされた背番号6を見て、泣きながら叫んでいた。
おそらく私の人生において、親友の苗字や恋人や妻の苗字以上に、そして福田や岡野以上に、一番多く叫んだ苗字が、「山田」のはずだった。ときには「やーまだ」と呆れながら叫び、ときには「やまだっ!」と叱り飛ばし、ほんのたまに「ヤマ!」と賞賛したこともあった。
私は浦和レッズの試合で、18年間「山田」と叫び続けてきたのだ。
それまでほとんど期待にこたえたことのなかった山田暢久は、サポーターの誰もが唸るような素晴らしいプレイを披露した。元々得意だった高いボールの処理はすべて跳ね返し、年下なのに衰えはじめた坪井慶介のカバーをし、かつて飼っていた愛犬オカノと鍛えあげたパスセンスを魅せつけた。
もしかしたら......山田暢久のプレイを目の前で見るのは今日が最後かもしれない。
いや今日が最後の方が山田暢久といい思い出で終われるかもしれないと思いながら、私は背番号6を見つめていた。そして浦和サポ人生で初めてレプリカユニフォームに背番号を入れようと思った。
私はいつもどおり折りたたみの椅子に座り、iPodで音楽を聞きながら抽選が始まるのを待っていたのだが、そのとき突然、天啓のように浦和レッズの背番号6、山田暢久の姿が頭のなかをよぎった。
Jリーグ創設直後の94年に藤枝東高校から入団した山田暢久は、その身体能力と時折発揮される天才的プレーが認められ、主に駒場スタジアムのバックスタンドを盛り上げた第一人者である。その後埼玉スタジアムに主戦場が移ると、スタンドとの距離に安心を覚えたのか、今まで以上に思うがままにプレイし、サポーターの熱視線を浴び続けた、まさに<裏>ミスターレッズと呼ばれるにふさわしい選手なのであった。
その山田もすでに37歳(マジかっ!)、体力はまったく衰えていないのだが、知力の低下がひどく、今季から浦和レッズの指揮をとるミシャサッカーの難解な戦術についていけず、それまでどんなに転んでもどんなにひっくり返ってもどんなに躓いても怪我をせず、夏場の暑い時期の自主的バカンス以外、浦和の試合には必ずピッチを所狭しと右往左往している山田暢久の姿がったあったのだが、今季その姿をピッチで見ることはほとんどなかったのである。
その山田暢久の不在に突然寂しさを覚えた私は、前日抽選を終えた帰路の車のなかで、暢久のチャントを泣きながら歌っていた。
★ ★ ★
それはセレッソ大阪戦前半30分のことだった。
山田暢久の後継者として名高く、試合中に集中している姿を一度も目撃されたことのないDF永田が、右腿の裏を押させるとベンチに×の印を送った。
DFラインの真ん中がいなくなることに安堵を覚えた私は、浦和レッズのベンチを見つめた。右隣で見ていた観戦仲間のデザイナーのコジャさんは「水輝か? もしかして野田?」と予想したが、誰もアップしていなかった控え選手がぞろぞろと出、適当に身体を動かしているところへ、ミシャから指示を受けたコーチが声をかけたのは、山田暢久だった。ホーム埼玉スタジアムのピッチに山田暢久が立つのは、6月27日ナビスコカップ、サンフレッチェ広島戦以来4ヶ月ぶりのことである。
左隣で観戦していた取次店K社のUさんは「どこで使われるんだろう? 阿部がDFに下がって、暢久がボランチかな?」と呟いていたが、山田はダルそうにピッチに入ると、阿部に声をかえ、DFラインの真ん中に立った。
「山田!!!」
私は真っ赤な背中に白くプリントされた背番号6を見て、泣きながら叫んでいた。
おそらく私の人生において、親友の苗字や恋人や妻の苗字以上に、そして福田や岡野以上に、一番多く叫んだ苗字が、「山田」のはずだった。ときには「やーまだ」と呆れながら叫び、ときには「やまだっ!」と叱り飛ばし、ほんのたまに「ヤマ!」と賞賛したこともあった。
私は浦和レッズの試合で、18年間「山田」と叫び続けてきたのだ。
それまでほとんど期待にこたえたことのなかった山田暢久は、サポーターの誰もが唸るような素晴らしいプレイを披露した。元々得意だった高いボールの処理はすべて跳ね返し、年下なのに衰えはじめた坪井慶介のカバーをし、かつて飼っていた愛犬オカノと鍛えあげたパスセンスを魅せつけた。
もしかしたら......山田暢久のプレイを目の前で見るのは今日が最後かもしれない。
いや今日が最後の方が山田暢久といい思い出で終われるかもしれないと思いながら、私は背番号6を見つめていた。そして浦和サポ人生で初めてレプリカユニフォームに背番号を入れようと思った。