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11月27日(金)

 朝、京浜東北線を上中里で途中下車し、Jリーグ残業試合「チャンピオンシップ」のチケットを届けに父親の経営する町工場に向かう。70歳を過ぎて、我が兄である長男に会社を譲ったものの、会長という名の小間使いとして仕事を続けている父親。今日も扉を開けると定位置であるいちばん入り口に近い席に座り、作業着を着て、図面を眺めていた。

 父親の会社に行くとまず初めにするのはホワイトボードを確認することだ。そこには組付けや加工の依頼を受けた注文書がマグネットで止められている。その量を見れば会社の経営状況が一目瞭然なのだ。

 私が小学校の5年のとき父親は会社を起した。それまで勤めていた会社に不満を持ち、毎晩愚痴を漏らしていたところ、母親からぐだぐだ言ってるなら自分でやればいいじゃんとけしかけられたらしい。けしかけるほうもけしかけるほうだが、その気になって会社を起こしてしまった父親もどうかと思う。

 ある晩「父さんは明日から自分の会社を作るから」と聞かされたとき、自分の親が「社長」になるのが嬉しくてたまらなかった。しかし、その言葉のあと、母親から「社長になるってことは全責任お父さんが持つってことだよ。会社がうまく行かなければ家も失うことになるからね」と脅され、夜、眠ることができなくなった。

 父親の会社が軌道に乗るまでずいぶんと時間がかかった。軌道に乗っても安心できることはなく、いつだって資金繰りに苦しんでいた。だから私は父親の会社の様子がいつも気になった。家を失わずにいつまでもみんなで暮らせるよう祈っていた。そして会社に行ってはホワイトボードを眺めていた。大丈夫、仕事がいっぱいあると一息つくときもあれば、家がなくなるかもしれないと心配することも多かった。

 今日、ホワイトボードにはたくさんの注文書が貼られていた。「仕事いっぱいあるじゃん?」と父親に訊くと、「そうなんだよ、この十年でいちばんの繁盛なんだよ」と目尻を下げた。本当に忙しいようで社長である兄は私の声を聞いても工場から顔を出さず、自分よりずっと年上の職人さんと納期の打ち合わせを大声でしていた。

 私はずっと不思議だったことを父親に訊ねてみた。吹けば飛ぶような小さな小さな町工場である。特別な技術があるようにも思えないし、価格競争では外国に負けるはずだった。社長の父親は凡人だ。それなのにどうして30年以上も潰れずにやってこられたのだろうか。

「そうだなあ。いつも取引先のためになるよう、一生懸命、ものをこさえてきただけだなあ」

 チケットを渡し、父親の会社をあとにすると、自然と涙があふれてきた。

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