9月25日(月)
予定通り週末に息子のギプスが取れたので送迎終了。息子から「パパ、ありがとうございました」と言ってもらえたから脱臼も悪くない。
息子も娘もまっすぐ育っている。もしかすると私には、メッシがDFに囲まれてもドリブルで交わしていけるような、あるいはクリスチアーノロナウドがどのような体勢でも正確なキックを蹴れるのと同じように、子育ての特殊な才能があるのかもしれない。
ギブスは取れたものの、息子はまだ一週間は走ったり、球を蹴ったりしらたいけないらしいので、息子のサッカー復帰は来週とのこと。
ちなみに私は昨日、痛風発作が出ているにも関わらず、人数が足りないからとフットサルに参加。あまり動かず絶対発作の出ている左足では球を蹴らないと決意していたのにも関わらず、試合が始まってしまえばすっかり忘れ、あろうことかゴール前で左のスペースに球が来た瞬間に左足を振り抜いていた。
これが普通のサッカーならまだよかったのだけれど、フットサルではトゥキック(つま先蹴り)を多用するため、我が痛風発作の左足は風が吹いても痛いはずが、硬いボールの衝撃を最も敏感になっているつま先で受け、もはや指がぶっ飛んだかの強烈な痛みを発する。蹴った球はゴールネットを揺らしゴールになったものの、私自身も終焉を迎えた。
痛風で
やるもんじゃない
サッカーは
8時半出社。なんだか最近デスクワークが増えていて、ふと気づくと14時なんてことがあり、これでは本業の外回りが存分にできなくなってしまう。外回りができなければ当然会社の業績は悪化。いかんせん昼寝をしている人間はいても、外回りする人間は私ひとりの会社なわけで、12時までにすべて片付けいざ外回りしたいがため、自主的に始業時間を早めることにしたのである。
その甲斐あって、昼にはデスクワーク終了。『古典名作本の雑誌』と萩原魚雷『日常学事始』を御茶ノ水の丸善に直納しつつ、そのまま中央線を営業に。
西荻窪の今野書店や荻窪のTitleを覗くと、この町に住んでいる人が羨ましくなる。羨ましいけれども、我が家の近所にもなんのヘンテツもないツタヤがあり、ここは配本と本部主導の選書の意思のまったく感じられないお店なのだけれど、それでも私にとっては今野書店さんやTitleさんに負けない心の灯台なのだった。
仕事帰りや休日にまったくオフな気分でツタヤに向かい、あれもない、これもないと嘆きつつ、しょうがないこれでも買ってくかと買い求めた文庫本や雑誌から私はたくさんの発見をしてきたのだ。子どもの頃を思い出せば、本なんて近所の五坪の本屋さんにある本がすべてだったではないか。
「今そこにあるサッカーを愛せ!」とはJFLホンダロックSCのサポーター、ロック総統の言葉であるが、この言を借りるなら、「今そこにある本屋さんを愛せ!」と叫びたい。
しかしそんなことを言えるは都心で働いているからかもしれない。いざとなれば、いや、いつでも私は好きな本を買える環境にあるのだ。一度広い世界を知ってしまった人間はきっと耐えられないだろう。もし都心で働くことをやめたら、私はきっとAmazonのヘビーユーザーになるだろう。あるいは本との接点が減って、読まなくなってしまうかもしれない。
それにしても私は、プレミアリーグをこれだけ観ても、愛しているのは浦和レッズだ。もっとも時間をかけ、見つめているのも浦和レッズであり、苦しみも喜びも浦和レッズとともにある。
なぜだろうか。広い世界を知っても、身近なものを愛する気持ちはどこから湧いてくるのだろうか。なぜ愛し続けられるのだろうか。どうしたら愛される存在になれるのだろうか。
Titleの棚を眺め、いろんなことを考えつつ、近所のツタヤで絶対棚に並んでないだろう渡辺拓也『飯場へ』(洛北出版)買い求める。この本を近所のツタヤで客注するという案もあるけれど、「今、見つけたところで本を買え!」が、購書のマナーである。
帰宅後、「URAWA MAGAZINE」の原稿を送る。