『アイリーンといっしょに』空を飛ぶチキン
文=鰐部 祥平
- 『アイリーンといっしょに (一般書)』
- テレル・ハリス ドゥーガン
- ポプラ社
- 1,620円(税込)
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著者テレル・ハリス・ドゥーガンはユタ州ソルトレーク市に住む初老の女性だ。チキンを投げつけたのは彼女の妹でアイリーン。彼女が生まれるときに、悲劇はおきた。医師が出産の状況判断を誤ったために、アイリーンは酸欠状態におちいり、その結果、知的障害を負うことになったのだ。チキンを投げつけた理由は、姉テレルがアイリーンの欲しがるチョコレートバーとコーラをカートに入れず、変わりに野菜を入れたからだった。
モルモン教徒ではあるが、信仰という言葉をどこかに置き忘れてしまっかのよう見える、両親と祖母のもとで幸せに暮らすテレル。その少女時代は、古き良きアメリカを思わす、明るさと温かみがある描写で綴られている。そんな家族に新しいメンバーが加わる。妹アイリーンだ。しかし彼女は知的障害を持っていた。そのことが判明したとき父は神に祈った。父は神に祈りを捧げることにより、ある決断をする。
父は新聞に広告を載せ、同じ境遇の家族と連絡を取り合い、会合を開くことになる。1952年当時は知的障害のある人に対する、差別や偏見が蔓延る時代だ。その勇気は賞賛に値すると思う。
「本当にありがとう、お嬢さん。新聞に投稿する勇気のある人がいることを、神に感謝します」
テレルはこのような電話の対応におわれることになる。
ともに同じ境遇を分かち合うことの出来る仲間を集めた父の行動は障害児の親達による、グループホーム設立へと繋がっていく。その後姿を追うように、成人後のテレルもグループホームの設立や障害者支援団体のメンバーとして、州議会へのロビー活動などに邁進することになる。
そんなテレルにとっても、思春期は大きな試練だったようだ。ボーイフレンドを初めて家に招待するときには目をつむり、ひたすらその瞬間が過ぎ去るのを待つ思いだった。だがテレルは逆に、アイリーンと上手く接することの出来る男の子こそが、自らのボーイフレンドに相応しいと考えるようになる。男からすれば人間力を試されているようなものだろう。
「こんにちは、あなたのママはどこにいるの?私のお人形とお話ししてみたい?」
ガールフレンドの家に入ったとたんに、あまり歳の変わらない10代後半の少女から、お人形とお話することを進められる。あなたならとっさにどんな反応ができるだろうか?テレルの実家の近所に住むスタンフォード大学の学生ポールは、そんな状況に動じることもなく、アイリーンに真摯な態度で接する。そんな彼は後にテレルの夫となり、姉妹に寄り添うように生きていくことになる。
アイリーンのIQは54ほど。読み書きはほとんど出来ない。愛情に対しては十分に対応できる、しかし他者の気持ちを察する情緒的能力はない。そしてなによりアイリーンはしばしば癇癪を起こし、それによって周囲をコントロールしようとする。それに振り回されるテレルのドタバタぶりには、つい思わず笑みが漏れてしまう。
アイリーンは姉やヘルパーを癇癪で上手く操るのである、それはもう職人芸といってもいいくらいだ。たとえばこのような事件があった。
ある日のお昼ごろにテレルが電話かけると、アイリーンは癇癪を起こしながら、ヘルパーのケイが今朝は来ていないと訴える。もう昼なのに、朝からなにも食べていのだと泣き叫ぶ。驚いたテレルはケイに電話をかけるが繋がらない。この事態に怒り心頭に発しながら、大急ぎで料理を準備しアイリーンの家に駆けつける彼女。ちょうどアイリーンの家の前でケイと鉢合わせになる。テレルはここぞとばかりに怒りをぶちまける。しかしケイの話を聞くと、どうも様子が違う。実は、ケイはアイリーンと朝食をすませていたのだ。ケイは食後に、自分の携帯が壊れているので、一緒に買い物に行こうとアイリーンに提案していた。しかしアイリーンがなぜか癇癪を起こしたため、ケイはひとりで携帯とアイリーンの昼食を買いに出かけていたのだった。つまりテレルはまんまと騙されていたのだ。
アイリーンのためにつくった昼食を抱えている自分がとてもばかに見えた。(中略)「嘘をついたわね、アイリーン。」 「ええ、もう朝ごはんは食べたわ。それ私の昼ごはん?」彼女は私が抱えている袋とケイが抱えている袋をみて尋ねた。 昼食が二つ。私が電話をかけたとき、まさにそれを狙っていたのだ。
なかなかの策士である。しかし、詰めが甘かった。彼女は他人の情緒を想像できないのだ。怒ったテレルはアイリーンの昼食を食べてしまう。アイリーンはあと一歩というところで昼食二食の野望を挫かれてしまった。
テレルとアイリーンの間では、しばしば摩擦がおきる。理由は様々だが彼女は初老にいたるころに、やっとある事実に気づく。自分が楽しいと思うこと、すばらしいと思うことを妹と共有したい。きっと彼女もそれが好きなはずだ。その様な思い込みのため、アイリーンの望まないことを、彼女は強要していたのだ。それはテレルがもつ妹への愛と、自分のみが普通の人生を楽しめるという罪悪感を伴った感情なのであろう。
また、妹が他人から蔑まれないようにとの思いで、彼女が好む奇抜なファッションに、いつも厳しい態度で接していた。それはアイリーンの個性やセンスに関係する問題だ。たとえ普通の人だって、服装の好みは様々だし、趣味や楽しいと思うことを共有できるとはかぎらない。そこには正常な人と障害者という問題は存在しない、ただあるのは他者の立場をどれだけ尊重できるのかという問題だ。
テレルあるときアイリーンの冷蔵庫に、このような張り紙を見つける「正常な人たちは私を悩ませる」この言葉にはハッとさせられる。私達は、自分達と同じような振舞いが出来ないからと、障害者を悩みの種だと見てしまいがちだ。だが彼らからみれば「正常な人」達の行動こそが悩みの種であるのだ。
本書は本当に温かな文章とユーモアで彩られている。障害者の介護という、とても困難な状況におかれながら、このようなユーモアと愛情を忘れないテレルに、とても大きな共感を持ちながら読み進めた。障害者の介護にまつわる話だが、悲壮感は微塵もない。もちろん彼女の人生は、決して楽なものではなかったであろう。しかし、そう感じさせない楽天的な姿勢に満ちた本書は、読む人になにかしらの勇気を与えてくれるのではないかと思う。