『父と息子のフィルム・クラブ』 - 大人と子供の境界線
文=内藤 順
- 『父と息子のフィルム・クラブ』
- デヴィッド ギルモア
- 新潮社
- 2,052円(税込)
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たいして映画の分野に明るいわけでもない僕が、なぜこの本を手にすることになったのか?まず、その話から始めさせていただきたい。
8月8日、記念すべき初めてのHONZ公開朝会。あの日、何もかもが順調だった。いつも通りオーストラリアへのSkypeはつながりづらかったし、麻木 久仁子の本は大量の付箋でふっさふさだったし、鈴木 葉月も大きな袋に風呂敷と万全の重装備であった。
そんないつもの光景は、ある一冊の登場により一気に流れが変わる。代表・成毛 眞、副代表・東 えりか、編集長・土屋 敦、この三人がまるで示し合わせでもしたかのように、本書『父と息子のフィルム・クラブ』をおススメ本として持ち込んでいたのだ。
前日、本屋にて遅くまで買い出しに励んでいた僕には、全く視界に入ってこなかった一冊だ。しかも、やたらと面白そうなのがくやしい。この光景を目の当たりにした時、三人と自分との間に、大人と子供の境界線でも引かれたかのような印象すら受けた。
そのうえ「デヴィッド・ギルモアに高見 浩なら外さないだろ」「うん、うん」とか言い合っている。手元でこっそり検索すると「デヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)」などと表示されているのだが、何かが違う。僕は周囲に動揺を悟られぬよう平静を装い、終わるやいなや本屋へと駆け込んだ。
と、言いたいところなのだが、実際の話はもう少しセコい。帰りの道中で、東 えりかに「東さん、あの本、面白そうですね」「面白そうですね」「面白そうですね」と三度ほどリフレイン。
すると三度目の"やや棒読み"が功を奏したのだろうか、「はい、あげるわよ」とのありがたき返答をいただく。自分で購入したところに、たまたま書評用の献本が届いたとのこと。かくして僕は、大人の仲間入りを果たしたのであった。
このように本と人とのつながりを介して舞い込んできたものが、映画で人をつなぐという話であったのも何かの縁なのだろうか。本書は、父と思春期の息子が、約3年間に渡り共に映画を見続けた日々の回想録である。
映画評論家の父は、ある日突然息子にこう言われる。
「学校になんか、もう二度といきたくないんだ。」
普通の親なら学校に通いつづけるよう説得をするか、せめて働かせようとするだろう。しかし、この父は違った。いやなことを続けさせたり、その穴埋めにいやなことを押しつけてどうなるのかと考えるのである。
そこで父親は、息子が学校をやめることを認めるかわりに条件を出す。一つは麻薬を絶対にやらないこと。もう一つは、週に三本、映画を一緒に見ること。こうして父と息子のフィルム・クラブがスタートするのだ。
手始めに見せたのが、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』。息子のおかれた境遇と主人公の近い映画を見せることで、少しずつ引き込んでいくという作戦だ。その後も、面白い作品を見たいという息子の欲求に水を差さぬよう、特定のテーマに則った映画を組み合わせながら見せていく。そのテーマ設定が実にユニークなのだ。
例えば「このシーンがすごい」というお遊びを導入してみたりする。これは、見ていて思わず身を乗り出してしまうような、心臓がパクパクするようなシーンや映像を、お互いに選び合おうというものだ。
最初の題材はスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』。父はジャック・ニコルソンが幻想の中でイギリスの執事風のウェイターと会話するシーンを選ぶ。一方で息子が選んだのは、主人公の子供がおもちゃの消防車をとりに、早朝、ニコルソンの寝室にそっとはいってゆくシーンだ。そして二人は、各々のシーンにおけるカメラワークや照明、音響効果を存分に堪能し合うのだ。
次に試みたのが、「開花寸前の才能」いうグルーピング。ここで選ばれたのは、ある若い監督のデビュー作だ。いまではさして人々の口の端にものぼらないテレビ映画『激突!』。この作品の監督こそが、24歳のスティーブン・スピルバーグ。"おれを見てくれ"という野心にあふれた、これまでに見たいちばん若々しい、秀抜な作品であり続けているそうだ。
「静かな演技がすごい」というグループもある。主演俳優が何もしないのに他の俳優たちを食ってしまうような映画である。最初に選ばれたのが『真昼の決闘』のゲイリー・クーパー。いわゆる演技らしい演技をほとんどしないのに、いざクーパーが登場すると、他の連中はみな背景に押し寄せられてしまうのだという。
そして父は、「クーパーが登場したら、自分の目がどこに吸い寄せられるか、気をつけて見るといい。」「自分が共演者だと思って、どうすれば彼に勝てるか想像してごらん」などと、息子に囁くのだ。
一人の人間の独断とも思える文脈に沿って、次々に映画を見ていく。このような経験をいくら積んでも、映画の系統的な知識など身につかないことは容易に察しがつくだろう。しかし、それが試みの主眼ではないのだ。
大切なのは、フォーカスを絞ることによって映画という森の広大さを教えること、そして未知の世界を探検することの面白さを伝えること。子供のテリトリーは、親の想像の範囲内のみにあらず。やがて自分自身で探検を繰り返すようになり、父も驚くほどの知識が養われていく。
幸か不幸かその当時、父はあまり仕事に恵まれず、スクリーンを前に二人は何百時間も共に過ごすこととなる。そして、あらゆる話題 ― ガールフレンド、抗鬱剤、日用品、政治、SEX、タバコ等々 ― を自由闊達に話し合うのだ。それは大人と子供の境界線が溶けていく、魔法のような時間でもある。
映画の前で人は正直だ。父は、古い映画を見ることで、初めてそれを見た何十年も前の自分の感性を取り戻す。そこにいるのは父と子ではなく、タイムマシンでも作動したかのような二人の若者同士の会話なのである。
一方で、息子も父を欺けない。映画の話をしながら息子は、他のことに気を取られて、内に内にとこもっていく様子を父に見抜かれる。他のこととは、この世代のご多分に洩れずガールフレンドのことだ。このはた迷惑なガールフレンドの存在は、何度となく二人のフィルム・クラブを危機に陥れる。
それでもフィルム・クラブは、「うしろめたい喜び」シリーズ、「埋もれた名作」シリーズ、「異様なくらい脚本がよく書けている作品」シリーズと続いていくのだが、ある日突然、終止符が打たれることになる。そこで迎えるのは、まるで映画のようなエンディングだ。はたして父の元に最終的に残ったものは、何だったのか。
本は基本的に、その世界に没頭しながら読むのが楽しいのだろうと思う。しかし、本書ばかりは登場人物を身の回りの誰かに置きかえながら読まずにはいられないと思う。自分が年長者から学びを得たときのこと、そして自分自身がこれから年下の若い世代とどのよう接していくべきなのか。そこに伴う空想的体験は、えらく気の散る読書になるのだが、なかなか得難いものである。
だれに推薦しようと絶対に悪い結果をもたらさない映画というのがあるそうだ。著者は『レイト・ショー』(監督:ロバート・ベントン)などの映画を挙げているのだが、本書自身もその好例なのだと思う。そして僕にとっては映画の世界の広大さ、本の世界の広大さ、その両方を教えてくれる忘れられない一冊となった。
ということで、僕の「20年後くらいに読み返したい本」シリーズへのノミネート決定!