老化メカニズムを解明する最前線の一冊
文=冬木糸一
今回まず紹介したい話題作は、デビッド・A・シンクレア、マシュー・D・ラプラントによる『LIFESPAN 老いなき世界』(梶山あゆみ訳/東洋経済新報社)だ。シンクレアは老化の原因と若返りの方法に関する研究の世界的な権威で、老化関連の分野でバイオテクノロジー関連企業を一四社も共同創業している実務家としての側面も併せ持つ。老化研究と老化対策ビジネスの最前線の人材である。
本書で著者は、人間の老化のメカニズムを解き明かし、その仕組み上老化は治療可能な病気であると宣言してみせる。著者が追い求めているのは単に最高寿命や平均寿命の延長ではなく、「健康でいられる期間の延長」だ。そのために、我々は何をすればいいのか。寿命がのびた結果、社会にどのような変化が訪れるのか(たとえば、誰もが一二〇歳まで生きるようになったら、社会保障費は耐えきれるのか)といった問いかけを、裏付けとなる豊富な研究と合わせて語っていく。終盤には著者が老化を抑えるために実践している手法も含まれているが、そのリストは明日からでもはじめられるものばかり。現状、老化研究はマウスでの実験が多く、人間での研究成果はまだまだ少ないが、健康でいる期間をのばしたい人には一読を薦めたい傑作だ。
続けて紹介するのは、我々が誰もが経験する「眠り」について神経科学の側面から迫るガイ・レシュジナー『眠りがもたらす奇怪な出来事 脳と心の深淵に迫る』(高橋洋訳/河出書房新社)だ。著者は長年睡眠障害センターで勤務し数々の睡眠障害の症例と向き合ってきた睡眠医学の専門家。不眠症や睡眠時無呼吸症候群のようなありふれた疾患から、眠ったまま性行動に及ぼうとする睡眠時性的行動症や、一日のリズムが二五時間で体内の概日時計がズレている人のような特殊な疾患まで、その仕組みを解き明かしていく。無呼吸症候群を発症し、睡眠の質が下がるも強制的に空気を入れ気道を開く治療用のマスクをつけたことで八年間ではじめて夜中に一度しか起きなかったと語る患者など、不眠の苦しみから解放された人々の喜びのエピソードで満ちているのも楽しいところ。睡眠の問題は誰にとっても明日は我が身。眠りについて興味や不安がある人には、ぜひ手にとってもらいたい。
今月は科学書が続くが、理論物理学者であるポール・J・スタインハートによる『「第二の不可能」を追え! 理論物理学者、ありえない物質を求めてカムチャツカへ』(斉藤隆央訳/みすず書房)も外せない。二〇一一年にノーベル化学賞をシェヒトマン博士が「準結晶」の発見を理由に受賞したが、この準結晶を理論面から追い求めていたのがスタインハートだ。正五角形のタイルでは床をきれいに埋め尽くすことができないように、結晶には特定の構造を持つものしか存在しないと思われてきたが、準結晶はその常識を覆した存在だった。スタインハートはそれを理論面から実証しただけではなく、自然界にも準結晶が存在するのではないかと探索を始める。違法な鉱物ブローカーや怪しげな旧ソ連の元研究所所長にコンタクトをとり、最終的には存在が怪しい準結晶採取のため専門のチームを組んでカムチャツカへ──と高齢の物理学者とは思えない冒険の旅に出る。準結晶の解説書としておもしろいのはもちろん、インディ・ジョーンズ的な冒険譚としても楽しめる快作だ。
通常、都市は人が多く開発が進んでいて生物などの自然や生物にとって住みやすい場所とは思われていない。だが、実は一〇〇年も経てばガが二〇〇世代経過するように、生物たちも都市に適応した形で進化しているのだ──と主張するのがメノ・スヒルトハウゼン『都市で進化する生物たち "ダーウィン"が街にやってくる』(岸由二、小宮繁訳/草思社)だ。たとえば、ロンドンの地下鉄に住む蚊は、蚊が行き交うことのない路線ごとにそれぞれ独自の遺伝的特徴を備えている。この蚊は、通常は鳥から吸血し、群れで交尾し、冬眠を行う。が、地下鉄の蚊は、通勤者の血を吸い、群れを形成せず、冬眠せずに活動する。つまり、活動期間から交尾活動、栄養補給の方法まで都市用に変わっているのだ。都市は生物を辺縁へ追いやるだけの存在ではない。都市も「自然」の一部なのだ、と都市を見る目を一変させてくれる。
同じく生物学方面から紹介したいのが、マーク・W・モフェット『人はなぜ憎しみあうのか「群れ」の生物学』(小野木明恵訳/早川書房)。人が社会を形成すると、そこには利益と同時に憎しみも避けがたく生じるように見える。では、なぜ人は憎しみあうのか。そんな根源的な問いかけを、昆虫をメインで研究する学者が、猿から蟻まで、様々な社会性を持つ生物たちと人間を対比して掘り下げていく。たとえば、人間社会で差別や憎しみが絶えないのは、自然の秩序で避けられないものなのか。社会を持ちながらも憎しみあわない生物を参考に、憎しみを消し去ることは可能なのか? など多様な論点が内包されている。
最後は、スティーヴ・ヘイク『スポーツを変えたテクノロジー アスリートを進化させる道具の科学』(藤原多伽夫訳/白揚社)。スポーツとテクノロジーは切っても切れない関係だ。無尽蔵に道具の改造を許したら、スポーツは競技者の技術を競うゲームではなくなってしまう。では、どこに制限を設け、メーカーはその制約の中でどのように開発するのか? 近年の事例だけでなく、古代ギリシャ時代までさかのぼって、スポーツにまつわる道具がどのように変化してきたかをたどり直していく、目立たない部分に光を当ててくれる逸品だ。
(本の雑誌 2020年11月号掲載)
- ●書評担当者● 冬木糸一
SFマガジンにて海外SFレビュー、本の雑誌で新刊めったくたガイド(ノンフィクション)を連載しています。 honz執筆陣。ブログは『基本読書』 。
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