【今週はこれを読め! SF編】閉じこめられた娘、自由にうごけないわたし
文=牧眞司
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは1987年に亡くなっており、翌88年に刊行された本書が最後の短篇集となる。これ以降にまとまった作品集としてHer Smoke Rose Up Forever(90年)とMeet Me at Infinity(2000年)があるが、前者は再編集版、後者は落ち穂拾い的な色合いが強い(短篇集未収録だった小説とエッセイを併録)。主要短篇集は七冊。すべて邦訳がある。原著刊行順に並べると『故郷から10000光年』『愛はさだめ、さだめは死』『老いたる霊長類の星への賛歌』『星ぼしの荒野から』『たったひとつの冴えたやりかた』『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』、そして本書。『たったひとつ〜』と『すべての〜』はそれぞれ連作集だ。
ティプトリーの日本初紹介は〈SFマガジン〉74年3月号に伊藤典夫訳で掲載された「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」だが、ぼくはこれをリアルタイムで読み、震撼した。それまでは「鮮やかなヴィジョン」「思考を喚起するアイデア」「抑揚に富んだストーリー」に惹かれてSFを読んでいた中学生にとって、ティプトリーの「語り」は驚異だった。同時期に古本屋でもとめたバックナンバー(72年9月号)で読んだキース・ロバーツ「猿とプルーとサール」も衝撃的で、ぼくはこの二作品をきっかけとしてSFには「何を語るか」と同じくらい「いかに語るか」が重要だと考えはじめる。それはたんにスタイルの問題ではなく、世界に対してどうアプローチするかの根源に関わっている。
ロバート・シルヴァーバーグは、ティプトリーの第二短篇集『愛はさだめ、さだめは死』に序文を寄せ、そのなかで「ティプトリー式基本叙述本能」を紹介した。曰く〔物語をその結末から、そしてできることなら、暗い一日の地下五千フィートからはじめ、そしてそのことを教えるな〕。世界はほんらい見通しがよくはないが、多くの物語はそれを(無自覚に)誤魔化してしまう。ところがティプトリーは世界の見通しの悪さを希釈しない。そのままSFの複雑な設定を語りきってしまう。そうやってできあがった作品は超絶技巧と讃えられるが、ティプトリーは技巧自体を目的にしているわけではなかろう。その語りかたでしか表現できない宇宙なのだ。
しかし、そうしたティプトリーらしさを期待して(もしくは覚悟して)この最後の短篇集を読みはじめると、肩すかしをくう。「そして目覚めると〜」「愛はさだめ、さだめは死」といった傑作群と比べると、かなり素朴なのだ。この短篇集に先行する連作集『たったひとつの冴えたやりかた』は、言葉のセンスこそみずみずしいがフォーマット自体は古典的な宇宙SFだった。本書はさらにいっそう懐かしい匂いがする。
たとえば巻頭の収録作「アングリ降臨」。高位の存在である異星人との接触によって、人類の文明や歴史はあえなく瓦解する。異星人はユリゼル、アザゼルなど天使の名で呼ばれ(姿はタコなのだが)、さらに上位の存在(神)の使いとして地球にやってきた。この作品は端から寓話として書かれているのだ。
これに続く作品「悪魔、天国へいく」では、神が死んだために天国へ里帰りをした魔王サタンが主人公。善と悪の闘いといったドラマチックな展開はなく、地獄のビジネスモデルが天国へと平和裡に移植される。フレドリック・ブラウンを思いっきり現代的にした感じのユーモアが愉快だ。
その次の「肉」はがらりと変わってディストピアSF。進む一方の格差拡大と人種差別、そのうえ妊娠中絶が全面的に禁止されてしまった近未来のアメリカが舞台だ。レイプによって私生児を産んだ母親がその子を「養子縁組センター」へと預けにくる。職員たちは人道的な扱いをしているように装っているだが、実はその裏で......。真相をはっきりとは書かず断片的な情況証拠をちりばめて読者が推測するように仕向ける叙述に、ティプトリー流の超絶技巧の片鱗がうかがえる。ただし、この結末で示されるものは誰の目にも明らかだ。神経症的で残酷なサスペンスはリチャード・マシスンの初期作品を彷彿とさせる。その一方、中絶禁止をはじめとする切実な問題は、まさにティプトリーが生きた現代アメリカの映し絵にほかならない。作者の人生を強調しすぎるのは作品鑑賞の邪魔になると思うが、かといってふれずにすませるのは片手落ちだろう。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアはペンネームであって、本名はアリス・シェルドンという女性である。
「もどれ、過去へもどれ」は、奇妙なタイムトラベルを描いている。現在の自分と未来の自分とが身体ごと入れ替わる。しかし、未来へは何も持っていけず、未来から何も持ち帰ることができない。未来から戻ると記憶も消えてしまうので、実用的な意味はまったくない。ちなみに指定した時点の未来に自分がいなかった(つまり肉体が滅んでいた)場合はタイムトラベルは起こらない。ただし、指定時点を変えて何度でもトライすることは可能だ。この奇妙なタイムトラベルがなぜか学生のあいだで流行っている。クラスの人気者ダイアンは五十五年後を選んだ。美人でいつもまわりからチヤホヤされており、家も金持ちで望むことなら何でも叶うワタシなら、もっともっとステキな未来に暮らしているはずよ! しかし、その予想は大はずれ。五十五年後に変移すると、同じベッドにいたのは冴えない男子学生のドン・パスカル。げえっ、コイツも過去から変移してきたの? ってことは、この未来でワタシはこのダサ男と結婚しているわけ! ありえなーい! しかし、未来の自分が残した手紙によって、ダイアンは自分が卒業後にたどった転落の人生と、そこから優しく救いだしてくれたドンの底知れぬ優しさを知る。この未来でまがりなりにも人間らしい生活を維持できているのは、ひとえにドンのおかげだった。多くの人間は居留地から閉めだされ無秩序と暴力が支配する世界で明日をも知れぬ生活を余儀なくされているのだ。未来の友人たちとのやりとりするなか、十九歳のダイアンはドンの良い部分に目を向けるようになっていく。しかし、彼女はある日、この暗澹たる未来にあっても上流の生活(かつての自分が当然とおもっていたような)を維持しているひとびとがいることに気づいてしまう。
はらわたを突き刺すのは、閉めだされているという感覚----いや感覚以上のはっきりとした認識だ。友だちになるどころか、一生、会うこともできない人たちがいるという認識。絶対に立ち入ることができない場所があるという認識。閉めだされている。コピーしか、次善のものしか縁がない。完全な人間とみなされていない。彼女より絶対的に劣る人たちに必要とされていない。完全に永遠に疎外されている。この事実が取り消されることはけっしてない。それが耐えられない。
引用文のうち、「閉めだされている」と「必要とされていない」には強調のルビ点が施されている。ダイアンはティプトリー自身ではないけれど、このほとんど実存的とも言える疎外感はティプトリー作品にさまざまなかたちで木霊している。すぐに思いうかぶのはヒューゴー賞に輝いた中篇「接続された女」だろう(『愛はさだめ、さだめは死』に収録)。どんな外科医でも匙を投げたくなる醜い娘P・バークが人造美人デルフィの肉体へと入りこみ、ゴージャスでビューティフルな生活を満喫する。「もどれ、過去へもどれ」とベクトルが逆だが、二つの人生を振幅するパターンは同型だ。そして救いようのない非劇的なクライマックスも似ている。
ダイアンは女性で他力本願的なところがあるので、そこだけを読んで「女性特有の虚栄心」と断ずるのはたやすい。しかし、それはあくまで表層だ。ティプトリー作品では、人間の普遍的な衝動が主題化される。たとえば、本書に収録された「いっしょに生きよう」。この作品はある惑星が舞台となり、異種生命体の主観による叙述と客観的な叙述とが交互に語られる。その生命体(「わたし」)は、植物と共生しており、周辺の小動物をテレパシーで使役する。小動物は種類にかかわらず「使い子」と呼ばれる。「わたし」は上流にいるパートナーと川の流れを媒介として交配をおこなうが、山火事による倒木に川がふさがれてしまい卵のやりとりができない。同属たちはもっと下流域にコロニーをつくっているのだが、種の棲息領域を拡張するために彼ら二人だけが別な場所に根づいたのだ。
異星の奇妙な生態系を設定するのはティプトリーの十八番だが、この作品ではここに地球人の調査隊が絡んでくる。調査隊はふた組の夫婦からなるが、そのうちのひと組は直前のミッションで妻のほうが亡くなっており、夫(ケヴィン)は抜け殻のようになっている。「わたし」は彼の心と接触する。最初はケヴィンを操って倒木をどかし、自分とパートナーとの交配を再開するだけの目的だった。しかし、しだいに不思議な感情が湧いてくる。
わたしには、ケヴィンがその場しのぎの用事をこなすたんなる使い子のようには思えない。ある意味では、わたしの分身なのだ。なのに、わたしはこの宿主植物、この洞窟につなぎとめられている。彼と一緒に自由に動くことができない。
生態的な制限で自由に動くことができない「わたし」と、社会階層的な障壁で閉めだされているダイアン。まったく事情は異なるが、当事者にとっては変わりのない桎梏だろう。「いっしょに生きよう」は、「もどれ、過去へもどれ」とはまったく対照的なハッピーエンドを迎える。ぼくはどちらのティプトリーも好きだ。
(牧眞司)