【今週はこれを読め! SF編】鮮烈なイメージ喚起力と先鋭的なテーマの十篇
文=牧眞司
十篇収録の短篇集。煌めくような幻想あり、ハードな設定のSFあり、深遠なスペキュレーションあり、バラエティに富んでいる。ただし、上田早夕里はそれらさまざまな傾向を、ただ器用に書きわけているのではない。あらわれる表情は作品ごとに違っていても根底には独自の感覚、独自のテーマが流れている。
小説の構造でみると、この短篇集はシンプルなものから複雑なものへとグラデーションのように配置されている。巻末に収められた「アステロイド・ツリーの彼方へ」は、大森望・日下三蔵編の年刊SF傑作選にも表題作として収録されており(創元SF文庫)、この書評欄でも紹介ずみ。ポストヒューマン・テーマの傑作にして、壮麗な宇宙SFである。
収録順でいうとその手前に位置する「上海フランス租界祁斉路(チヂロ)三二〇号」は、外形的にはヴァーチャルリアリティのアイデアだが、テーマ展開は小松左京が繰り返し扱った「historical if」である。ときは1931年、主人公は、上海自然科学研究所で地球化学の研究をおこなっている日本人科学者、岡川義武。彼は科学は国や人種の違いを超えて存在すべきとの理想に燃え、日本と中国との和平工作にも積極的に協力していた。しかし、研究所の同僚、趙定夫(ザオデインフー)から、その和平工作は無駄で、先々やっかいなことに巻きこまれるから手を引いたほうがいいと警告される。趙の主張は「来年三月、満州に新しい国家がひとつ生まれます。その五年後の七月七日、盧溝橋で起こる事件をきっかけに、中国と日本との関係は取り返しのつかない泥沼へ落ちていく」と、まるで未来を具体的に知っているかのようだ。
小松左京がいう「historical if」とは、いわゆる改変歴史(別の時間線)のフォーマットではなく、ここにいる自分(実際に起こった歴史)は、ほかの世界の自分(可能性としてあったが消えてしまった歴史)に対して、いかなる正当性を持ちうるかという問いを内包していた。上田早夕里もそれを継承している。ご存知のとおり、彼女は『火星ダーク・バラード』で小松左京賞を受賞してデビューした。小松SFは敗戦体験と実存主義哲学が背景にあったが、上田さんはむしろ現代の状況とリンクした想像力だろう。それは『華竜の宮』や『深紅の碑文』でダイナミックに展開された思考であり、視点の置きかたを変えれば正義論になる。
「上海フランス租界祁斉路三二〇号」が優れているのはそのテーマ性においてのみではない。さりげなく仕組まれた、しかし強力なイメージ喚起力こそ注目すべきだ。趙が警告したとおりに上海はキナ臭さを増していく。岡川は趙が特別な情報網をもっているのではないかとうたがい、町で見かけた彼のあとを追う。路地に入った途端に光景が一変する。迷路のように入り組んだ空間。そこを経巡った先に、こぼれるような光があった。ロープに真っ赤な灯籠がひしめき、熟し切った鬼灯のように揺れている。灯籠は頭上だけではなく、趙の周囲にも跳び回っている。リアルと幻視が入り交じっているのだが、これが岡川義武が生きている世界の秘密にも関わっている。
こうした鮮烈なイメージの置きかたは、この作品に限ったことではない。
表題作「夢みる葦笛」では、イソアと呼ばれる得体のしれないものが町のそこかしこで見られるようになる。身長百七十センチほどの白い人型で、ふらふら揺れるように歩き、頭のてっぺんから垂れさがった何十本もの長い触手をこすりあわせて音楽を奏でる。多くのひとはその甘美な音色に聞きいるが、語り手の私(作曲家)はぞっとするものを感じてしまう。
「石繭」で描かれるのは、電柱の先端についた大きな白い繭である。通勤途中でそれを見つけた私は、不思議な感情に駆られ、深夜おなじ場所へと戻ってくる。じっと眺めていると、繭の背中が割れ、なかから宝石のように煌めくさまざまな色の石が飛びだしてきた。宝石のきらきらしたイメージもさることながら、最初の繭の「人間が身を丸めているような格好をしていた」という表現が、妙に生々しい。ここで読者の脳裏に刷りこまれた印象が、のちのちストーリーのなかで時間差の薬効のように溶けだしてくる。
「プテロス」は太陽系外の惑星を舞台として、入植した者たちと在来の飛翔体(プテロス)との共生を描く。プテロスはシリコン系生物で、コガネムシのように湾曲した翅とその下から伸びる薄い翅を羽ばたかせて飛ぶ。人間はプテロスの生態をよく知らぬまま都合良く扱っているが、だんだんとそのライフサイクルがわかってくる。物語の構造はシンプルだが、惑星の景観のなか飛行するプテロスの姿は感動的なパノラマだ。
「滑車の地」は、とにかく世界全体が異様。これは実際に読んでもらったほうが早い。
生臭い水と藻の匂いが飛び出し台の下から吹きあげてくる。三十メートルの高さから見下ろした冥海(めいかい)は、今日も薄曇りの天気のもと、気味の悪い黒色に輝いていた。
波打つ泥の下には泥棲生物(ヒジ)が潜む。全身の三分の一が口という泥鰻(どろうなぎ)や、尖った口吻で獲物の体液を吸う泥蠅(どろばえ)の幼虫。人間の腕など簡単に切り落とす螯(はさみ)をそなえた泥鯱蟹(どろしゃちがに)。泥に棲み、泥の中を泳ぎ、腹を満たす獲物を求めている。泥蛇(どろへび)が泳いでいく姿は単眼鏡がなくてもよく見えた。冥海の表面に浮き出る模様の大きさが、蛇の成長具合を教えてくれる。彼らは人間を何人も丸呑みできるほど大きくなる。蛇と呼ぶよりも竜と呼ぶべきかもしれない。
強い刺激臭が冥海から吹きあがってきた。風で薄められていても、なお目に沁みる。
個々の事物が異形という以上に、パースペクティヴや空気の濃度まで歪んでいるかのようだ。パオロ・バチガルピの異色作「砂と灰の人々」(短篇集『第六ポンプ』に収録)に匹敵するグロテスクな世界。ポストヒューマンの情動が扱われている点、不思議な哀感が立ちあがる点も共通する。
情報理論や認知科学的知見に基づいて人間性の根拠を問う作品は、いまやSFのひとつのスタンダードになっているが、上田早夕里はそこに身体性を重ねあわせる。それは温度と湿度を持っている。上田早百合の文章は、知的であると同時にきわめて官能的だ。
「完全なる脳髄」は国家間の武力衝突がもたらした分子機械汚染によって、脳が正常に発達せずに生まれる者が増えた未来。未熟な生態脳も機械脳を接続して制御すれば、生活や労働するぶんには問題のないレベルの機能は果たしうる。こうして生まれた者は剛性人間(シンセティック・マン)、略称シムと呼ばれ、社会制度上は差別なく扱われている。しかし、実際はロボットに近いものとして見なされ、シムの多くもそれに甘んじている。思考のありようがシムと普通人とで違っているので不遇感を抱くこともないようだ。しかし、シムのなかでときおり奇妙な欲望にとらわれる者があらわれる。仲間のシムから生体脳を奪い自分の体内に埋めこみ、複数の生体脳を機械脳でパラレルにつなげば、普通人と同じように自由に思考できるのではないか? ゾッとするような発想だが、シムがロボットと同等の存在だとしたら複数のマシンを統合するにすぎない。意識や自我の問題と倫理的な問いが、大胆な設定によって同じ物語のなかで扱われる。
「楽園(パラディスス)」も意識と身体性と関係にアプローチした作品だ。メモリアル・アバターという技術によって亡くなった人間の意識をデジタルで甦らせることができる。どれだけ生前の人間らしさを取り戻せるかは、元となるライフログの情報量しだいだ。生前に脳内デバイスを入れて記録を取れば、精緻な人格再生が可能と考えられる。そのための装置を開発する企業に勤めていた森井宏美は、語り手である私に「他人の意識を自分のなかに入れる」技術について語ったことがある。宏美によれば、ふたつの意識が融合するのではなく、〈私〉と〈あなた〉のあいだに〈第二の意識〉とも呼ぶべき特殊な領域が生まれるのだという。ここで注目すべきは、その〈第二の意識〉が〈私〉や〈あなと〉の上位にあるのではないことだ。通常の意識が身体を制御できないように、〈第二の意識〉もひとつの器官にすぎない。
この作品が巧みなのは宏美が死んだ時点からはじまり、語り手がかつて彼女とかわした議論と、宏美の意識を自分の身体に入れる現在進行形の物語が併せて語られるところだ。作中で「人間にとって、本当のしあわせって何だと思う?」と問われている。グレッグ・イーガンの有名作品「しあわせの理由」を踏まえた、上田早夕里なりの別解(?)といえるかもしれない。
(牧眞司)