【今週はこれを読め! SF編】日常のすぐ隣、睡眠のわずか手前、半現実の領域
文=牧眞司
グラビンスキは1910年代末から作品を発表しはじめ36年に亡くなったポーランドの作家で、その作品はポーやラヴクラフトを引きあいに評価されている。さらに、本書の「訳者あとがき」によれば、夢野久作との類似を指摘するむきもあるという。いま名があがった三人はいずれも怪奇・幻想の分野で一家をなした創作者だが、作風はまったくといってよいほど異なる。それをひとりで体現しているグラビンスキはただものではない。しいて分ければ、テーマや題材においてはポー、根源的恐怖と擬似科学的世界観との結びつきにおいてはラヴクラフト、歪んだ世界を内側から描く点においては夢野久作と重なる----といったところか。
本書『狂気の巡礼』は日本版オリジナル編集で、「薔薇の丘にて」を表題作とするグラビンスキの第二短篇集収録の全六篇と、『狂気の巡礼』と題された第四短篇集からの八篇を併せて収録している。ちなみに第三短篇集の収録作は、すべて昨年邦訳された『動きの悪魔』(国書刊行会)で読める。
『動きの悪魔』も装幀がみごとだったが、本書も負けていない。たんにデザインが良いだけでなく、内容とマッチして雰囲気を高めているのが素晴らしい。函入りの造本だが、その函の前面に正方形の窓が開いており、本体の表紙がのぞくようになっている。これは冒頭におかれた一篇「薔薇の丘にて」を意識しているのだろうか。
「薔薇の丘にて」では、語り手が街道から峡谷で隔てられた場所でひろびろとした牧草地を見つける。その真ん中にぽつんと赤煉瓦の高い壁があって閉じた四角形を作っているのだが、どこにも入口や開口部が見あたらない。閑雅な場所にある得体の知れない建造物。そのイメージが強烈だ。壁は大空と接しているようであり、太陽は高い。周囲にあるのはコオロギの鳴き声とハーブの香り。語り手が眠りとも恍惚ともつかぬ心地へおちていくと、ふいに薔薇の香りの印象がやってくる。
本当に香りがしているのか、自分の過敏な嗅覚がもたらした幻影なのか判然としない、その宙ぶらりんな状態をグラビンスキはたくみに表現する。自分がどこにいるかわからないが感覚だけは疑いようもない。それは限りない幻想ともいえるし、世界と直結しているともいえる。ストーリーそのものは単純で、薔薇の香りと壁の向こう側の謎が結びついてショッキングなラストシーンを迎えるのだが、この作品の真価はそこへ至るまでのプロセスにある。
そもそも入口のない四角い壁があるのは、人里から遠く離れた未踏地などではなく、「中心街から四キロほどの郊外」で、語り手が「これまで知らなかった方面」に「まったくの偶然に入りこんで見つけた」だけなのだ。日常のすぐとなりに見知らぬ場所があって、ふとした拍子に行きあたってしまう。あなたもそんな経験をしたことはないだろうか? あるいはそんな予感にとらわれたことはないだろうか?
「夜の宿り」という作品も同様だ。語り手は親戚を訪ねての帰路、ふだんなら馬車を使う距離をふとした気まぐれで徒歩で行こうなどと考えたせいで、道に迷ってしまう。森のなかを歩きまわり、雨に降られ、暗い夜がやってくる。手探りで見つけた垣根をたどって、うち捨てられた建物に入りこむ。疲れはてた語り手はすぐに睡眠前の夢の状態に陥った。半現実ともいうべき領域である。そのなかで見たものは......。実際は知るはずのない真実を夢のなかで感得する----幻想小説のパターンだが、グラビンスキはその状況の整えかたが非常にうまい。
本書には分身を扱った作品がいくつか収められており、グラビンスキ得意のテーマだったと推察される。一本調子ではなく作品ごとに独特のひねりがある。
たとえば「斜視」は、むかむかする外見の男ブジェフヴァをめぐる回想録として綴られている。語り手の目には、ブジェフヴァは自分と正反対でけっして和解するはずのない相手、歩くアンチテーゼなのだが、むこうは「そもそも私はあなたを、あなたは私を侮辱することができない。ねえ、それはまるで、だれかが自分自身を平手打ちしたがるようなものだ」と言う。語り手は我慢ならず決闘を申しこみ、ブジェフヴァは死ぬが......。
「海辺の別荘にて」では、友人である詩人ノルスキの別荘に滞在していた語り手が、その友人から「君がしている仕種は、僕が見慣れていた以前の君のものではなく、どこからか引き継いだ他人のものだ」と指摘される。ノルスキは、強く思考した人の仕草や行動を無意識に模倣する〈クセノミミア〉という現象に言及し、それは潜在意識のテレパシー作用だと説明する。この作品が面白いのは、因縁の焦点が誰かを模倣しているとされる語り手ではなく、当初は傍観者のように思えたノルスキへと移っていくところだ。複数枚の鏡を反射させたような展開がみごとだ。
「チェラヴァの問題」は、睡眠のあいだに寝ている本人のドッペルゲンガーが出現して、夫人を誘惑する。スティーブンスン『ジキル博士とハイド氏』を思わせる展開に、より猟奇的な匂いが加味されている。
「灰色の部屋」も一種の分身テーマといえるかもしれない。以前に住んでいた部屋が不快でならず、ようやく満足できる貸間に移ったと思ったらそこも一週間ほどで同じ不快がぶり返してしまった。調べてみると、以前の部屋も今度の部屋も、自分の直前の借家人が同じワィンツゥタという人物だった。どういう偶然なのか。何らかの精神エネルギーが部屋に染みついて、こんな嫌な雰囲気が生じるのかもしれない。語り手は、いまの部屋からワィンツゥタの痕跡を抹消しようとやっきになるが......。
巻末に収められた「領域」は、創作の魔に取り憑かれた芸術家を描いた危機迫る作品だ。求道的な作家ヴジェシミャンがもっと強い表現手段を獲得したいと世間の舞台から退き、新しい住まいに引きこもるが、その向かい側に陰鬱で優雅な二階建ての別荘があり、それが彼を魅了する。別荘は、自分の作品に溢れていた雰囲気の造形的な象徴だった。やがて、その窓に迷える一対の目をもった顔がのぞく。そして、別な窓にも......。だんだんとその数が増えて、まるでヴジェシミャンを誘いこむようだ。
芸術を極めようとする衝動が、即物的な恐怖へ置き換わっていくところが凄まじい。いや、もしかすると即物的と見えるのは感覚的な迷いで、グラビンスキの空間では情念も物理も等価なのかもしれない。
(牧眞司)