【今週はこれを読め! SF編】独自の思考と伝統的SFとのあいま、そして『結晶世界』の予兆
文=牧眞司
J・G・バラードの全短編を執筆順に集成する全5巻の全集。第1巻を紹介するタイミングを逃してしまったが、併せてお薦めしたい。作品を年代順にたどることによってバラードの思考および表現の発展がわかり、またいっぽうで彼が繰り返し還っていく原風景が確認できる。
第1巻『時の声』の巻頭を飾ったのは、退嬰的なリゾート地《ヴァーミリオン・サンズ》を舞台にした「プリマ・ベラドンナ」だった。シュルレアリスティックなガジェットが目を引くが、物語の焦点はあくまでファム・ファタール(宿命の女)に翻弄される男の姿にあり、なんともスマートな逸品だ。こんなしゃれた味わいの小説が、英国のちっぽけなSF雑誌に発表されたのかと驚く。それこそスリック雑誌にカラーイラストつきで載りそうな小説だ。
第2巻にも《ヴァーミリオン・サンズ》を舞台にした作品が、二篇収録されている。「ステラヴィスタの千の夢」と「歌う彫刻」だ。どちらもファム・ファタールと消費的な快楽(前者は向心理性住宅、後者は歌う彫刻)の物語だ。それら快楽は刹那の虚栄だが、むしろその価値を失ったあとの残骸に、不思議な情緒が宿る。
行きすぎた消費社会やあらゆるものが産業化される仕組みに対しては、フレデリック・ポールやロバート・シェクリイをはじめ多くのSF作家が文明批評的な作品を書いている。外形的なアイデアだけに注目するとバラードもその系譜に位置づけられそうだが、この作家がほかと一線を画すのは、そうした社会に警鐘を鳴らすのではなく、そこにある欲望を見据えているところだろう。その社会は人間を疎外するが、その状況を呼びよせているのはほかならぬ人間なのだ。バラードの筆致は両義的である。人口が超過密になった世界をコミカルに描く「至福一兆」や、サブリミナル広告が蔓延する「無意識の人間」は、その好例といえよう。
そのいっぽう、作家活動の初期においてはバラードは伝統的なSFのコンテクストに沿っており、アイデア・ストーリーとしてそつなくまとめている感もある。それが強く出ているのが、タイム・トラヴェルものの「優しい暗殺者」や、心理サスペンス「九十九階の男」で、それこそリチャード・マシスンあたりの初期作といっても通じそうだ。「永遠へのパスポート」は、いままでに体験したことのない珍しい旅行を望んだセレブ夫婦の物語で、宇宙各地でのアトラクションやら擬似現実ツアーなどが列挙され、フィリップ・K・ディックばりのガチャガチャした展開。初訳の「ミスターFはミスターF」は、妻が妊娠して胎児が成長するにつれて夫が若返っていく。最初は気のせいだと思っていたのが、いつのまにか事態が進んで引き返せなくなる。これもディックかブラッドベリが書きそうな小説だ。
逆に、いかにもバラードらしい作品といえるのが、宇宙開発が物理的フロンティアを広げるのではなく、人間精神の深いところに作用してしまう「爬虫類園」や「地球帰還の問題」だ。前者は浜辺、後者は南米のジャングルが舞台となり、遙かな宇宙と生命の始原的な場所とが通底してしまう。まさに、バラードの代表長篇『結晶世界』の予兆がここにある。
(牧眞司)