【今週はこれを読め! SF編】メタモルフォーシスと魅入られた者の情念
文=牧眞司
夏の楽しみは、東雅夫さん編の怪奇・幻想短篇集が読めることだ。2012年の泉鏡花『おばけずき』からはじまった平凡社ライブラリーの文豪怪異小品シリーズも、本書で7冊目となる。幻想短篇集はナイトテーブルにおいて、毎晩一篇ずつ、銘酒を味わうようにゆっくり読むのが理想だが、谷崎の文章の口当たりの良さにページをめくる手がとまらず、一気に読みあげてしまった。
加えて編集の妙もある。創作と随筆を大別せずに、たとえば「人間が猿になった話」「紀伊国狐憑漆掻語」「白狐の湯」と、動物変身譚を三篇つづけたあとに、露伴の「対髑髏」を推す短文「感銘をうけた作品」、露伴を上田秋成や滝沢馬琴と比較した「方今文壇の大先達」、漱石と紅葉にふれた「漱石先生/十千萬堂主人」、鏡花を絶賛する「純粋に「日本的」な「鏡花世界」」、鏡花追悼「泉先生と私」を並べてみせる。谷崎特有のロマンチシズム形成が、実作と文学的回想の両面から浮きぼりになる仕組みだ。
そのあとに、伝承を絡めた創作「覚海上人天狗になる事」と、その伝承にまつわる随筆「天狗の骨」を対にして置かれる。つづくは、李白の魂が布製の鯛に宿る「魚の李太白」、および支那に憧れた男の顛末を描く「鶴唳」で、それに付するように随筆「支那趣味と云うこと」が配置される。このように、読者の興味をうまく導く、メリハリのある編集がなされているのだ。
そして、本書の柱のひとつともいえる短篇小説「人面疽」がくる。これがたいへんな傑作なのだ。出だしの文書を引用しよう。
歌川百合枝は、自分が女主人公となって活躍して居る神秘劇の、或る物凄い不思議なフィルムが、近ごろ、新宿や渋谷辺のあまり有名でない常設館に上場されて、東京の場末をぐるぐる廻って居ると云う噂を、此の間から二三度耳にした。それは何でも、彼女がまだアメリカに居た自分、ロス・アンジェルスのグロオブ会社の専属俳優として、いろいろの役を勤めて居た頃の、写真劇の一つであるらしかった。
そのフィルムの日本題は「執念」だが、原題の意味は「人間の顔を持った腫物(できもの)」だという。しかし、百合枝自身はそんな映画にまったく心当たりがない。映画を観たというひとから内容を聞いても、どのシーンひとつとっても出演した覚えがないのだ。
映画は、凄惨なる復讐譚だ。遊郭の花魁に恋い焦がれる、乞食の青年。彼は極貧で器量も醜い自分が相手にされるはずがないと諦めていた。しかし、花魁の情夫であるアメリカの船員から、自分たちが逃げるのを手伝ったら、一晩だけ彼女を自由にしてもよいと持ちかけられる。喜ぶ青年。もちろん、そんなうまい話はない。青年は利用されるだけで、けっきょく思いは叶わず、崖から身を投げて死んでしまう。花魁を激しく恨みながら。
アメリカの向かう船のなかで、花魁は足に腫物ができているのに気づく。その腫物はやがて死んだ青年の顔になり、ついには言葉さえ発するようになる。花魁はそれをひた隠しにして社交界で浮き名を流し、ますます妖艶さを増していくが、栄華の頂点ともいえる大夜会で恐ろしいことが待ちうけていた。
この正体不明のフィルムは、グロオブ座から直接日本に売られたものではなく、フランス人のブローカーが持ちこんだものだという。買い取ってまもなく、フィルムの曇りを修正するため、ひとりの技師が作業室で映写していると怪異にみまわれる。恐ろしい気分になって最後まで観ていられず、その後も夢でうなされ、しまいには精神を病んでしまった。その技師だけではない。ひとりでフィルムを観た者の身にはよくないことがおきる。しかし、せっかく仕入れた品物を無駄にはできず、妥協案として小さな常設館にひっそりと貸しだすことになった。ひとりで観るのではなく、公開の場ならば怪異も起きないだろう。
読者は当然、なぜひとりで観ると怪異が起きるのか、その怪異がどんなものなのかという興味に駆られるが、その点はぬかりなく、しかも興趣を損なうことなく、むしろさらに高めて語られる。しかし、それにしても不可解なのはフィルムそのものである。グロオブ座にも記録は残っておらず、そもそも映画で乞食の青年を演じた俳優はグロオブ座で仕事をした誰にも該当しないのだ。
つまり、「人面疽」という作品は、(1)凄惨な因縁話を描いた映画、(2)映画を見た者に降りかかる戦慄、(3)フィルムそのものの不可解な来歴----この三層の怪異からなり、ひとつひとつの層が性質を異にしながらも、不吉な雰囲気によって共鳴しあい、全体としてなんとも言いがたい味を醸しだしている。
この作品につきそうように、随筆「映画雑感」と「春寒」が収録されていて、前者はタイトルのとおりだが、後者は博文館の編集者であり新鋭作家だった渡辺温の追悼となっている。渡辺温はプラトン社の映画原案コンテストに「影」を投じ、谷崎の推輓で一等入選を果たした縁があった。谷崎は「影」を読み、「カリガリ博士」の画面を思い浮かべたそうだ。
谷崎は好みの映画について「映画雑感」のなかでこんなふうに述べている。
「プラーグの大学生」や「ゴーレム」の如き真に永久的の価値ある物を除いては、中途半端なものよりも寧ろ俗悪な物が大好きである。いかに俗悪な、荒唐無稽な筋のものでも、活動写真になると不思議に其処に奇妙なファンタジーを感じさせる。
奇妙な夢の断章を綴った「Dream Tales」を挟み、評論「感覚的な「悪」の行為」では、歌舞伎に描かれる「悪」を取りあげ、「矛盾や非論理的なところにこそ、人の官能を異常に刺激する「悪の齎らす一種の快さ」を感ずる」と述べている。いまさらいうまでもないが、谷崎は日本文学の高峰にして、ミステリや幻想小説ともきわめて親和する作家なのだ。
このあとに、本書のもう一本の柱ともいうべき「魔術師」が置かれている。浅草六区よりもなお俗悪で頽爛した公園でおこなわれた魔術師の興行を、語り手は女連れで観る。絢爛たるイルミネーションに彩られた幻影の巷を描く谷崎の筆致は、ほとんど魔法といってよい。魔術師が繰りだす技の数々に語り手は惹きつけられ、しまいには壇上にあがって変身術の被験者になる。まさに後戻りのできない領域へと、進んで足を踏みいれてしまうのだ。この男の衝動も凄いが、彼につきそった女の行動がそれ以上に激しい。
本書の底流をなすテーマは、東さんが巻末の「編者解説」でおっしゃっているとおり「メタモルフォーシス」だが、それと併走するように「魅入られた者の情念」が描かれている。「魔術師」の女はもともと柔和な乙女だったが、語り手を愛するあまりに、彼の俗悪な嗜好を彼以上に自分のものにしてしまっているのだ。破滅的なまでの愛。
「魔術師」と対をなす随想が「浅草公園」である。そのなかで谷崎は、旧劇はこの先衰微する一方だろうし、新劇は芸術気どりの低能にすぎないと難じている。それらに比べ、浅草で発生しているさまざまな若々しい娯楽が好ましいという。この価値観が面白い。
そのあとに珍しい翻訳が二本。ポオ「アッシャア家の覆滅」と、ゴーチエ「クラリモンド」(芥川龍之介と共訳)だ。とくに「クラリモンド」は、まさに「魅入られた者の情念」が全篇を覆う作品であり、耽美的雰囲気といい、谷崎の嗜好がこれほどマッチする作品もなかろう。
しめくくりは随想四篇。「芥川君と私」「いたましき人」「佐藤春夫と芥川龍之介」「佐藤春夫『病める薔薇』序」。芥川龍之介も佐藤春夫も谷崎と世代が近く、個人的に交流があった。ゴシップ的な興味を含めて、谷崎文学の特質を考えるときの補助線となるだろう。
(牧眞司)