【今週はこれを読め! SF編】至高のミリグラム、赤ちゃんのエネルギー化、人造美人の広告
文=牧眞司
こんな奇想小説家がいたとは! SF風のガジェットを用いたもの、メタフィジカルなもの、皮肉な風刺が効いた作品、宗教的含意がこめられた小品、さまざまな手ざわりの二十八篇が収録されている。どれもごく短い。
作者フアン・ホセ・アレオラはメキシコの作家。1918年生まれというから、オクタビオ・パスより少し歳下、フアン・ルルフォとほぼ同世代、カルロス・フエンテスよりひと世代上になる。ルルフォとは友人であり、本書の「訳者あとがき」によればアレオラが主宰する雑誌にルルフォが寄稿したこともあるという。また、フエンテスが活躍するきっかけをつくった先輩作家でもある。
メキシコは、アンドレ・ブルトンに「シュルレアリスムに選ばれた土地」といわしめた場所だが、こと散文に関しては長いことリアリズムが主流であり、二十世紀半ばまではルルフォやアレオラのような書き手は例外的な存在だった。『共謀綺談』の初版は1952年に刊行されている。邦訳されたのは、のちに増補された版である。
「転轍手」は、ひとけのない駅に駆けつけた外国人が主人公。目的地までの切符を買ったものの、なかなか汽車がこない。鉄道員と思しき男に話しかけると......。主題的には石川宗生「バス停夜想曲」やコルタサル「南部高速道路」を思わせるが、雰囲気はブッツァーティに近く、読みすすめるにしたがい不吉な胸騒ぎが募っていく。
「まことに汝らに告ぐ」は、ラクダを針の穴に通す研究をおこなっている科学者の物語。いうまでもなく、聖書の警句「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」を踏まえている。さまざまな試みがおこなわれ、ことごとく水泡に帰すさまを描くユーモア作品だが、最後にその失敗こそが、ほんらいの目的に近づく唯一の道だったことが示される。ピリっとした後味が、星新一を思わせる。
「驚異的なミリグラム」は、ひねりのある動物寓話。一匹のアリが、ひとつの驚異的なミリグラムを見つける。その絶妙な重量はアリにとって至高の理想だが、物体がどういうものかはまったく言及がない。ここで大切なのはあくまでミリグラムなのだ。ミリグラムはアリの巣に、革命的な混乱をもたらす。メタフィジカルが現実に作用する感覚は、レムの「泰平ヨン」の初期作のようでもあり、もっと衒学的な修辞をほどこせばボルヘスに近づく。
「ベビー・H・P」には、赤ちゃんをエネルギー源化するデバイスが登場する。田丸雅智が得意とする架空のモノを中心にしてアイデアを発展させるショートショートだが、アイデアそのものとは関係のない「イリノイ州アトランタにあるJ・P・マンスフィールド・アンド・サンズ社の品質保証がついております」の一文が、絶妙のユーモアを醸しだしている。こうした、ちょっとした調味が、作品の印象をぐっと引きたてる。そのあたりがじつにニクい。わかっているねえ。
「お知らせ」は、女性型アンドロイド、ビーナスPlastisex©の宣伝文だ。男性向けにあなたのお好みのタイプをカスタマイズして提供します。こんなオプション、こんな用途、こんな効果がありますよ。世間で言われている批判に対しては、わたくしども(販売元)はこのように釈明いたします。いえいえ、ビーナスPlastisex©は、社会の脅威になるどころか、人間の価値観の修復のための闘いにおいて強力な朋友になります。女性にとってもメリットばかりです。......といった調子で、軽いアイデア・ストーリーとしてまとめられているものの、山本弘『プラスチックの恋人』で扱われた解決のつかない問題が包含されている。
「物々交換のたとえ話」は、「古女房を新しいのと換えるよ!」という謳い文句に、多くの夫たちが乗ったのに、主人公のわたしは妻のソフィアを取り換えない。それだけだったら良識ある夫婦の話だが、取り換えなかったことで、世間の風向きも、またソフィアとの関係もぎくしゃくしてしまう。この逆説的展開も面白いが、ほかの夫たちが交換した新しい妻たちが錆びはじめて(粗末な機械性だったらしい)、もう一段、形勢がひっくりかえるところが面白い。かといって、やはり夫婦愛が大切というナイーヴな結論にならない、いいようのない苦さが良い。
「弾道学について」は、古代の弩砲(バリスタ)についてレポートを書いている若い研究員(もしくは学生)が、古代武器の世界的権威に教えを請う。研究員は、弩砲の凄い威力を信じていて、充実したレポートを書く気まんまんなのだが、武器の権威は実際の戦闘において弩砲がほんらい期待された機能を果たした例はないと、諄々と説くばかり。つんのめるように食いついていく研究生と、のれんに腕押しの権威のやりとりが絶妙だ。じゃあ、弩砲はまったく役立たずだったのかといえば、そうではなく......のヒネリも面白い。
「村の女」は、頭に角の生えた弁護士ドン・フルヘンシオの苦悩を描く。角が邪魔だとか、世間の目が冷たいというシンプルな事情に終始するのではなく、寝取られ亭主をさして「角を生やす」という定型表現もおそらく意識されているのだろう。角の存在は、日常生活や仕事の次元ではほとんど障害にならないのだが、ドン・フルヘンシオの精神状態に深刻なダメージとなって降りかかる。幻想的な描写も鬼気迫るが、それ以上に気がかりなのはタイトルの「村の女」だ。作中には、村の女についての言及はなく、ドン・フルヘンシオの妻も登場しない。なのに、こんな題名がついているのだ。語られない何かを、読者は想像せずにはいられない。
『共謀綺談』のなかには、宗教的主題のものがいくつか収められていて、ぼくにはピンとこなかったのだが、もしかすると何か知識なり素養があれば、補助線を引くように鮮やかな奇想もしくは寓意が浮かびあがるのだろうか。ぜひ、「自分はこう読んだ」「こう解いた」というご意見をお聞かせねがいたい。
(牧眞司)