【今週はこれを読め! SF編】破滅と再生の寓話、イヴを畏れるアダム
文=牧眞司
『紫の雲』は、翻訳が待ち望まれていた古典である。作者M・P・シールは1865年生まれ47年歿のイギリス作家、二十世紀になる直前から作品を発表しはじめた。この経歴は、年代の上ではH・G・ウエルズとぴったり重なる。
ウエルズといえば、ジュール・ヴェルヌと並ぶ「SFの元祖」と目されることが多い存在だ。もっともSFはウエルズから直線的に発展してきたのではなく、アメリカで大衆娯楽として粗製濫造され、その坩堝のなかで、小説の洗練度とジャンルの輪郭を獲得していった。この流れを貫いていたのは、テクノロジカル・フィクションの方法論、つまり世界はフィジカルで合理的に捉えうるという暗黙の了解である。
しかし、別なSF史もあったのではないかと、ときどき夢想してみる。その先頭に来るのがほかならぬM・P・シール『紫の雲』(1901)であり、つづいてウィリアム・ホープ・ホジスン『異次元を覗く家』(1908)、デイヴィッド・リンゼイ『アルクトゥールスへの旅』(1920)、オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』(1930)、C・S・ルイス《別世界物語》三部作(1938〜45)などがあらわれる。テクノロジカル・フィクションとは異なる、観念性に重きを置いたスケールの大きな寓話の系譜である。もちろん、ジャンルSFとして発表されたなかにも、アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』(1953)のように、この流れを汲む作品もある。
1960年代のニューウェイヴ以降、SFの状況は変わったものの、依然、多くのジャンルSF読者はテクノロジカル・フィクションをデフォルトとして受けとめている。その視点でみれば、『紫の雲』はかなり奇異な作品だろう。
外形的には破滅SFだ。地球最後の男となったアダム・ジェフソンが、過去を回想するかたちで語り進められる。起点は北極探検だった。アダム自身は気乗りしなかったものの、恋人クローダの執拗な勧めに従い、前人未踏の北極点を目ざす「北風号」の一員となる。ほかの隊員たちが次々に倒れ、必死のサバイバルをくぐり抜けアダムひとりが北極点制覇を成しとげるが、そのあいだに世界は突如発生した紫の雲によって滅ぼされしまう。人間と動物は毒に冒されて死ぬが、その毒の効果か死体は腐敗しないままだ。紫の雲が去ったあとは、春の桃の香りが漂っている。そんな孤独の世界を、アダムは旅してまわる。
物語が三百ページほどある全篇のうち、二百ページまではアダムひとりが登場人物だ。いや、もうひとり、地球そのものが登場人物といってもいいかもしれない。擬人化というのとも違うのだが、地球環境がなにか意志があるもののように描かれるところがいくつかある。たとえば、カンタベリーでアダムがカンテラを手に入れようと、ランプ屋の窓ガラスを割る場面。
恐ろしい音がするのはわかっていたから、十五分か二十分ほど立ったままためらっていた。けれども、神よ、あのような音がするとは----あれほど激しく、支配的で、秘密を露(あら)わすような----そして、おお天よ、あれほど長くつづく音がするとは夢にも思わなかった。私はある惑星の泣きどころを突いてしまったらしく、その星は突如倒れ込み、私の耳元で蜿蜒(えんえん)と呻き、醜態を演じたのだ。
ギルフォードでは嵐に襲われる。
イギリスの嵐のようではなく、むしろ北極の風に似ていて、ある点で、何か人格のようなものと騒がしい悪意、そして説明し難い冥府の暗黒を思わせた。
そのいっぽうで、アダムは「世界は私一人のために造られた」という、奇妙な全能感を覚えもするのだ。
やがて彼は、世界の各都市を爆破してまわりながら、エーゲ海のインブロス島に「地上の王」にふさわしい豪華な宮殿を建造するという、途方もないプロジェクトに打ちこみはじめる。けっきょく、宮殿は完成まで十六年を要した。
宮殿に暮らせば、無為と安寧の日々だ。しかし、ほどなくアダムの意識に、「白」と「黒」が言い争う声が割りこんでくる。実は、このふたつの声は、七歳のころから北極探検に参加するときまで、断続的にあらわれていた。二十年ものあいだ途絶えていたが、いまになって戻ってきたのだ。一方の声は「行け!」と言い、もう一方の声は「行ってはいけない」と言う。
アダムはかつてケンブリッジ大学で出逢った、風変わりな世界観を持った男のことを覚えている。この男によれば、「白」と「黒」のふたつの力がこの宇宙を求めて、狂おしく争っているという。「白」のほうが強いが、我々の惑星の状態はその成功にあまり有利ではない。ヨーロッパでは中世以降、「黒」の前に「白」が屈することがつづいている。
『紫の雲』の物語が大きく動くのは、アダムがひとりの娘と出逢ってからだ。彼は「白」と「黒」の言い争いを振り払う気持ちで(振り払えはしないのだが)、コンスタンチノープルへと出かけ、街を焼いたのち、森の中へ歩みいる。小川の縁に彼女がいた。
アダムはかつて恋人のクローダに振りまわされた苦い記憶があるため、女にかかずらおうとはしない。しかし、彼女は勝手にアダムについてくる。娘は言葉を知らないため、意志の疎通もできない。
いうまでもなく、これは新しいアダムとイヴの物語だ(さしずめクローダはリリスといったところだろう)。アダムは娘を畏れつつ、惹かれてもいる。娘は無垢にして善良でありながらも、アダムの気持ちを揺らす存在でもある。あるとき、ふたりは釣りへ行く。娘はじっとしていられないので、アダムは「そんなでは魚は釣れない」と窘めるが、けっきょく、娘はたくさん釣りあげ、アダムは一匹も釣れない。
アダムは彼女を拒絶すべきか、それとも受けいれるべきか? そして紫の雲の脅威も、完全に去ったわけではなかった。はたして人類は新しい歴史をはじめられるだろうか?
(牧眞司)