【今週はこれを読め! SF編】ティプトリー風の表題作から中国伝奇アクションまで
文=牧眞司
ケン・リュウ三冊目の日本オリジナル短篇集で、二十篇を収録。さまざまな傾向の作品を書きわける安定したストーリーテリングの作家だが、内戦や難民、差別、格差など現代的な問題を(作品によって濃淡はあるものの)設定と深く結びつくかたちで織りこんでいるのが特色といえよう。
収められているうち随一の傑作は、巻頭を飾る表題作だ。空飛ぶ円盤に乗ったトウニン人が地球に到来してから何十年か経過し、いまでは人類とトウニン人が共存して暮らしている。物語は、異種憎悪主義者によるテロリズムのショッキングな場面からはじまる。ボストン湾上空に浮かぶトウニン人の審判船から「生まれ変わり」が地上に降ろされようという瞬間、地面に仕掛けられた爆弾が破裂したのだ。ケン・リュウは設定をいちいち説明したりせず、その世界の内にいる者の視点で語っていくので、読者は断片的な材料を頼りに状況を把握していくしかない。この語りかたが非常に効果的だ。
ここでキーになるのが「生まれ変わり」である。語り手であるジョシュアも生まれ変わりの経験者だ。生まれ変わりはトウニン人とペアで暮らしており、ほかの人間からときに嫌悪、そうではなくとも好奇の目で見られる。
トウニン人は身の丈二・四メートルで、六本の腕と二本の脚を備え、胸は羽毛で覆われており、フローラルな香りとスパイシーな香りがないまぜになった匂いを発する。そして主腕で生まれ変わりの頭を包むと、第二の腕を相手のトウニン・ポートに差しこむ。このつながりはあまりにも甘美だ。身も心も一体になる。
語りのスタイルといい、異星人との官能的な交情といい、まるでディレイニーかティプトリーの作品のようだ。
たんに表現上の問題ではない。トウニン人は自己認識と時間意識からして、人類とはまったく異質なのだ。そもそも彼らには統合化された個人という概念がない。ひとつの肉体は、さまざまな人格によって共有されている。だから、そのひとつの人格が罪を犯したからといって、他の人格に累が及ぶいわれはない。当事者たる人格だけを切り離して処分すればすむ。人類もそうすべきだ。それを可能にする処置が生まれ変わりである。つまり、生まれ変わりは過去に罪を犯した人間であり、いまはその記憶ごと消えて、まったく別な人格になっているのだ。
トウニン人も地球に到来したときは、残虐に人間を殺戮した。しかし、もはやその殺戮者の人格は排除され、すっかり善良な性格になっている。平和主義を掲げ、人類を善意で支配しているのだ。彼らには戦争犯罪の意識すらなく、過去を償うなど思いもよらない。しかし、肉親を奪われた人間はトウニン人を許すことができない。それが過激な異種憎悪主義者を生んでいる。
ここで描かれる人類とトウニン人の非対称性は、あくまでSFのアイデアが作りだしたシチュエーションだが、それが焙りだす怒りや葛藤はこの世界の各地で渦巻いているものとなんら変わりがない。
「介護士」は、高齢化が進むいっぽう、排外主義が主流となった近未来アメリカの物語。語り手は脳卒中で手脚が不自由になり引退した物理教師だ。二、三年前ならメキシコ人か中国人の介護士を住みこみで雇ったところだが、一連の移民法改革によってその選択肢はとざされてしまった。それに替わるものとして子どもたちが選んだのは介護ロボットである。うたい文句は「百パーセントアメリカ人からなる技術スタッフの苦労と努力の末に生まれた製品」。
ロボットの利点は、その腕で裸にされても恥ずかしがらずにすむことだ----語り手は当初そう考える。しばらく世話をされるうち、このロボットの別な良いところが見えてくる。万事が機械的というわけではなく、生き物のような弱点が組みこまれているのだ。たとえば、チェスのやりかたを知らない。しかもネット経由でプログラムをダウンロードしたりせず、語り手に"教える"楽しみを提供する。語り手はロボットをサンディと名づけ、かつて幼い娘を相手にしたときのように話しかける。サンディは注意されると、うつむくような仕草さえするのだ。老人とロボットの平穏な日々がつづくはずだった。しかし、サンディにはユーザーに知られてはならない秘密があった......。
そのほか、宇宙移民船のなかで、ユダヤ教の神様に指名されたレベッカがありあわせの素材でゴーレムをつくり、船内にはびこる鼠を退治するユーモアSF「化学調味料ゴーレム」、テキストが動的に変化する未来の書物についての寓話で、ケン・リュウ自身の読書論がうかがえる「生きている本の起源に関する、短くて不確かだが本当の話」、唐時代の中国を舞台にした伝奇アクション「隠娘(いんじょう)」、など。バラエティに富んだ一冊。
(牧眞司)