【今週はこれを読め! SF編】それでもなお、ひとは自由意志を希求する
文=牧眞司
ピーター・ワッツの長篇『ブライントサイト』の衝撃は忘れがたい。知性にとって意識は必然的なものではない。この大前提に、まず痺れた。そして、未知の宇宙知性と対峙するために地球側が仕立てたメンバーが、正常な人間精神から逸脱した者ばかりというところにも驚いた。突飛な設定のようだが、なにも物語の見栄えのためにそんなことをしているのではない。ワッツは、ぼくたちが当然と思っている判断基準や論理性が、しょせんローカルにすぎないことを、あっさりと示してしまうのだ。
そうした姿勢は、日本オリジナル編集の短篇集である本書に収められた十一篇でも貫かれている。語りの視点を絞り、物語性よりもテーマ展開に重きを置いているせいで、『ブラインドサイト』より、小説として先鋭化しているといってもいい。
巻頭に配置された「天使」は、自律的に考える機能を実装された無人軍用機の物語だ。それは人間と違って敵を殺すこと(戦術上妥当であれば味方さえ殺すこと)にためらいはない。トラウマもなければ、強迫観念にとらわれることもない。ただ、実戦のなかで学びつづける。学ぶことで、あらかじめプログラムされた以上の判断が可能になる。つまり、新たな知恵と自律性の獲得だ。その過程を、人間的な情動をいっさいまじえず、たんたんと語っていく。
「遊星からの物体Xの回想」は、ジョン・カーペンター監督のSFホラー『遊星からの物体X』を、物体Xの視点から語り直してみせる。地球人側からは怪物による侵略に見えていたものが、特定の肉体に縛られない異星知性の「わたし」にとっては相手との"交霊"にすぎない。シャーリイ・ジャクスン賞受賞作。
「天使」も「遊星からの物体Xの回想」も、人間ならざる者の主観で書かれているため、定型的な情緒を頼りにした読みかたは通用しない。
つづく「神の目」は、空港の保安検査の列という日常的シチュエーションで、語り手の「わたし」も人間だ。わたしの個性は通常とはいささか異なっているものの、ここで描かれる不安は普遍的なものだろう。煎じつめれば、「内心の自由」が制約されることへの畏れだ。この作品では、飛行機機内での犯罪を防止するためにスワンクという技術が導入されている。反社会的な欲望を探って、それを一定期間(つまり搭乗中)無効化する仕組みだ。一万人にひとりほどの割合で重篤な副作用を生じるが、あくまで公益が優先される。そして、多くのひとびとはそれを甘受している。
しかし、犯罪を実行していないのに、心に秘めた傾向を一時的であれ、本人以外のものが操作するのは正当と言えるのか。ここで俎上にあがっている問題は、従来の倫理基準では判断しきれないところかもしれない。
あらためて省みれば、スワンクのようにピンポイントで狙いうちはできないにせよ、日常に溢れている広告、そして信仰や主張によって、ひとの考えや感情は操作されてしまう。ならば、自由意志とはなんだろうか? ワッツはそうした疑問も作品に組みこんでいる。
本書の解説で高島雄哉さんは、次のように指摘する。
(ワッツは)機械論的な世界観に親近感を持っているのだった。彼は自由意志なんて信じていない。と同時に、自由意志があると感じている事実は、もちろん受け入れている。
機械論的な世界観と、自由意志があると感じている人間。この構図が強く打ちだされているのは、本書の締めくくりにまとめて収録されている《サンフラワーズ・サイクル》連作、「ホットショット」「巨星」「島」の三作である。
二十二世紀、人類存続のため小惑星を改造した、複数のワームホール構造船を宇宙に送りだすディアスポラ計画が実施される。「ホットショット」は、そのうちの一隻〈エリオフォラ〉の乗組員候補として、遺伝子操作によってつくられたサンディの物語である。彼女はつねに反抗的だが、こうした性質すら計画の範囲内なのだ。宇宙で遭遇する不測の事態に対応するには、従順なロボットでは足りない。勝手なことをはじめる人間が必要なのだ。だから教育期間中に、道を逸れても大目に見られる。多少であれば。しかし、サンディ自身はそれが気に入らない。他人があらかじめ用意した、範囲内の自由などなんの価値がある。もちろん、それはサンディだけの事情ではない。サンディは遺伝子操作によってコントロールされているが、自然の人間はたんにランダムなだけで、自由意志などないのだ。
しかし、この太陽系で唯一、自由意志が実感できる機会があるという。それは太陽ダイブだ。まっすぐ太陽に落ちていく瞬間、複雑に絡みあった磁力線の作用でなにかが破砕される。その破砕ポイントで自由意志が見つかるというのだ。
正直言って、太陽ダイブで自由意志が見つかるというのは、どういう機序かさっぱりわからない。しかし、象徴的には、くっきり際立って映る。そして、サンディはある特殊な経験を得るのだが、それが従来考えられているような自由意志----ひとがすべてのふるまいを何ものにも拠らずに選択できる全能性----ではないのだ。
巨大天体への落下(急接近)というモチーフと自由意志の主題は、「巨星」「島」にも共通する。両作品とも時系列では「ホットショット」よりもあと(ただし発表された順は逆)で、地球から遠く離れた宙域を航行中の〈エリオフォラ〉が舞台だ。乗組員たちは人工冬眠しており、船の操作・運営はAIチンプに委ねられている。不測の事態に直面したときにだけ、わずかな数の人間が呼び覚まされるのだ。どちらの作品においても、不測の事態とは非地球型知性との遭遇である。
もちろん、ワッツの作品なので、牧歌的なコンタクト、あるいは地球上で起きるようなわかりやすい闘争(利害衝突)が描かれるはずもない。また、〈エリオフォラ〉船内も一枚板ではなく、視点人物と他の人物、あるいはチンプとのあいだに食い違いがある。ワッツはありふれた感情移入や共感を許さない作家なので、視点人物の主張や行動が正しいという保証はない。そもそも宇宙において、正しい判断などありえないのだ。
(牧眞司)