【今週はこれを読め! SF編】複雑にもつれる多民族・多文化の未来史
文=牧眞司
アリエット・ド・ボダールは2006年から作品発表をはじめ、これまでにネビュラ賞、ローカス賞、英国SF協会賞を受賞し、各種の年刊SF傑作選へも多くの作品が採られている、旬の作家だ。彼女がデビュー直後から書きついでいるシリーズ《シュヤ宇宙》は、コロンブスと同時期に中国人がアメリカ大陸に到着し、独自の植民地文化を発展させた時間線上に展開する、長大なスケールの人類史だ。本書は、同シリーズこれまでに発表された31作品のうちから、9作品を選んで訳出した日本オリジナル短篇集だ。
《シュヤ宇宙》として発表された諸篇はそれぞれが独立していて、舞台となる時代や場所、登場人物の個性・立場もそれぞれ異なっている。本書の訳者である大島豊さんによれば、「共通するのは、我々のものとは異なる歴史と原理をもつ宇宙で、登場人物たちはヴェトナムに相当する地域の出身者またはその子孫であること」だそうだ。作品内では《シュヤ宇宙》全体像の説明はなく、読者は描かれたディテールを手がかりに、オルタナティヴな文明世界・歴史の流れを推察することになる。
その手ざわりは、コードウェイナー・スミスの《人類補完機構》を髣髴とさせる。ただし、《人類補完機構》の各作品が人類史上の大きな転換点を題材としていたのに対し、《シュヤ宇宙》ではもっぱら主人公の人生や情動がフォーカスされる。そこで語られるのは、ジョン・ヴァーリイの《八世界》諸篇よりもさらにパーソナルな物語だ。表題作であるネビュラ賞受賞中篇「茶匠と探偵」は、外形的には深宇宙で発見された死体の謎をめぐるミステリ(そのタイトルどおり茶匠と探偵のバディストーリーでもある)だが、物語の中核をなすのは主人公たちの来歴であり、過去に残してきたものへの償いである。
注目すべきは、ド・ボダールが描くパーソナルは、民族や階級をどうしようもなく背負っていることだ。それはアイデンティティであると同時に、逃れられない桎梏でもある。
文化人類学的視野に立ったSFは1960〜70年代にひとつのサブジャンルをなし、そこではもっぱら、西欧文化の価値観(主人公側の視点)が異文化によって相対化される過程が描かれた。それに対して、ド・ボダール作品はひとつの社会にマジョリティとマイノリティの文化が相互干渉的に入り組んだ状況を、その内部に生きる人物の切実な問題として描き抜く。
たとえば「包嚢(ほうのう)」という作品では、メジャー文化であるギャラクティクのなかで生きる、被征服文化ロンのひとびとの葛藤が浮き彫りになる。
包嚢はウェラブルデバイスであり、民族的コンフリクトを緩和するツールだ。内部にギャラクティク文化のあらゆる面をデータベースとして保持しており、それを纏う者が適切なふるまいをするよう身体的にガイドする。ロンの人間がギャラクティク文化に適応するうえで有用、むしろ必須だが、これに頼ることでいくばくかのストレスを被る。そして、社会的バイアスを内面化させてしまった者にとって、包嚢なしに人前へ出るのは恐怖ですらある。かくして包嚢中毒という奇妙な症状が生じる。
ド・ボダールは文化間格差が孕む蹂躙性/依存性をシャープに剔出する。そして、ただそれを糾弾したり、物語的カタルシスによってまぎらわしたりもしない。
作品を読むうえで作者の出自に過剰な意味づけをするのは慎むべきだが、ド・ボダールはフランス人の父とヴェトナム人の母のあいだに生まれた。生誕地はニューヨークだが、一歳のときに家族でフランスへ移住。母語は仏語だが、作品はすべて英語で発表している。
彼女の作品のもうひとつの特質は、過剰なほど生々しい身体性だ。先に紹介した「包嚢」もたんなるガジェットではなく、身体にまつわりつく感覚が濃厚に描かれていた。また、《シュヤ宇宙》での宇宙船はメカニカルなものではなく、人間の母胎のなかで育まれ、血と粘液にまみれて生みだされる。《有魂船(マインドシップ)》と呼ばれる彼らは、個別な意識と性自認を有している。「茶匠と探偵」の茶匠《影子(シャドウズ・チャイルド)》も、分身を地上に投影して活動をしているものの、実体は宇宙空間にある《有魂船》だ。
《有魂船》の母----抱魂婦(マインド・ペアラー)と呼ばれる----になるのは、栄誉でもあり犠牲でもある。この両義性の根底に、文化格差が重くわだかまっている。「船を造る者たち」では、抱魂婦になることを引きうけた異邦の娘ゾキトルと、彼女が宿す《有魂船》を設計する意匠技術者ダク・キエン、このふたりの女性の運命が描かれる。ゾキトルは人間の子どもを産まない奇妙な妊娠を志願する。いっぽう、ダグ・キエンは同性のパートナーを選んだことで、シュア文化のなかで二級市民と見なされ子どもを持つことが許されない。社会的立場も思想も正反対といってよいふたりだが、ゾキトルの分娩を機として、もつれながらも通じあう。哀しい物語だが、静謐な余韻が尾を引く。
(牧眞司)