【今週はこれを読め! SF編】Anarchy in Osaka

文=牧眞司

 物語の幕が開くのは1969年。

「俺、思うんだけど、何かが俺を変えようとしてんじゃないのかなって」

 中学生になってまもなく、サドルは気づいてしまった。サドルというのは綽名だ。本名が悟で、家が自転車屋だからそう呼ばれている。

 小学生のころはごっこ遊びとか凄く楽しかったのに、いまではそう感じなくなってきている。世界が錆びついたモノクロへと塗り替わりつつある。

 同級生の何人かはすでに変えられてしまったようだ。オトナ人間に。

 オトナは侵略者であり、本来の人類であるコドモに憑依してオトナ人間にしてしまうのだ。サドルは仲の良いシト、未明とともに、オトナが着々と進めている人類奴隷化計画へ徹底的に抵抗しようと決心する。

 コドモ軍の武器は、サドルが出し方を見つけたQ波(キュッパ)だ。Q波を浴びたコドモは、オトナのモノクロ世界から脱するのだ。

 それでもオトナ軍には圧倒的な権力と組織力がある。それに対し、コドモ軍はそもそも組織とは無縁で、まったく後ろ盾もない。かろうじて頼りにできるのは、少女将校ガウリーくらいだ。ガウリーはテレビ漫画の軍服を着た美少女キャラクターである。その番組は急に打ち切りになってサドルをガッカリさせたが、そのあともガウリーはときおりサドルのもとへ現れる。彼女は必要なときに向こうからやってくるのだ。

 ガウリー将校は言う。



 社会的な欲望。それがオトナ人間の核であり本質だよ。人間のように自己が欲望を生むんじゃない。社会的な欲望がオトナ人間という自己を生む。(略)〈社会的である〉という方向を持ったある種のエネルギーこそがオトナ人間なのだよ。



 オトナと対照的に、コドモはアナーキーだ。主義や思想として身につけたアナーキズムではなく、生まれつきのアナーキスト。原始共産制も封建制も社会契約説も資本主義社会も、コドモは全部すっ飛ばしてしまう。なにしろコドモに歴史はなく、今が永遠だ。

 オトナ軍とコドモ軍(と言ってもサドル、シト、未明の三人きりだが)との正面衝突の場に選ばれたのは、1970年の大阪万博会場だった。

 この作品におけるEXPO'70は両義的である。オトナ社会の虚栄がもたらしたものである一方、コドモにとってもワケのわからない歓喜の祭りだ。そのカオス的昂奮のなかで、奇妙な戦争が描かれる。これが『万博聖戦』の第一のクライマックスになる。

 そして、第二のクライマックスの舞台は、一挙に時代が変わって2037年の大阪万博だ。サドル、シト、未明の関係はもうすっかり変わっている。物語の焦点は、彼らが「永遠の今」のコドモのままでいられるのかだ。

 はたしてガウリー将校はまた、彼らを後押ししてくれるだろうか?

 そもそも、彼女はどこからどうやってやってくるのか? じつは、そこに牧野流SFの仕掛けがあった。そして、『万博聖戦』というこの小説そのものが、物語のアナーキーと化していく。

(牧眞司)

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