【今週はこれを読め! SF編】そこにあるだけの奇跡、手を伸ばしつづける希望
文=牧眞司
エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』(東京創元社《創元海外SF叢書》)
エリザベス・ハンドの短篇集。日本オリジナル編集で、ネビュラ賞・世界幻想文学大賞を受賞した四作品を収めている。
表題作は、十六歳の娘ムーニーが、スピリチャリスト・コミュニティに滞在中の母を訪ねる。母はここには"彼ら"がいて、だからこそこのコミュニティが一世紀以上もつづいているのだと主張する。母もそうだし、コミュニティにいるひとたちは、金色に耀く"彼ら"が見えるのだ。しかし、ムーニーには見えないし、その存在を信じてもいない。
コミュニティ滞在者は、頑迷な狂信者というのとは違う。受け答えはそれなりに辻褄があっているし、押しつけがましくもない。そもそも、"彼ら"はただ存在するという事実を除いたら、魔法めいたところはないという。
乳癌がかなり進行している母を気づかうムーニーの心情と、コミュニティにいるひとびとたちの静かな交流が、精彩に富んだ筆致で綴られる物語のなか、謎めいた"彼ら"の気配、コミュニティの来歴についての断片的記録がちらちらと垣間見られる。そして、クライマックスで現出するのは、おぞましくも壮麗な光景だ。
オカルトめいた現象を肯定でも否定でもなく、宙吊りにしたまま語り進む点においては、巻末に収録された「マコーリーのベレロフォンの初飛行」も同様だ。この作品では、若いときに航空宇宙博物館に勤務していた三人の男性が、元上司であるマギーのために、失なわれた短篇フィルムの再現を試みる。マギーは病気で余命いくばくもないのだ。
失われたフィルムは、ライト兄弟よりも早く飛行機を実現したエルネスト・マコーリーの試験飛行の記録である。ただし、マコーリーのマシン(ベレロフォンという名称だ)は、その設計図を見るかぎりとても飛ぶとは思えない。また、失われたフィルムには不審な点があった。ひとつはだれがどこから撮影したかわからないこと(アングル的に宙に浮いた位置にカメラがないとならない)、もうひとつは奇妙な光が映りこんでいること。これは偽造記録か? それとも、計り知れぬ何かがが起こっていたのか?
「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」も「マコーリーのベレロフォンの初飛行」も、ファンタスティックな要素を扱いながら、それ自体は物語の中心ではない。奇跡は人間の手の届くところにはなく、よしんば届いたとしてもなにかの解決や解消になるわけでもない。しかし、決まりきった日常だけがつづくのではなく、世界と人生には謎や不思議がある。その感覚がいつまでも余韻を引く。
他の二篇も同様だ。「イリリア」は、仲の良いいとこであるマディとローガンが、隠し部屋で精緻なおもちゃの劇場を発見する。もつれあうように成長し、演劇と音楽で才能を発揮していく(挫折もある)ふたりにとって、おもちゃの劇場は大切な秘密だった。「エコー」は、世界が滅びゆくなか、孤絶した島で暮らすわたしがかつての恋人を想い、彼からの便りを待ちつづけている。恋愛と言うには、あまりに静謐な情感に満ちた作品。
(牧眞司)