【今週はこれを読め! エンタメ編】『続あしながおじさん』が新訳で登場!
文=松井ゆかり
"1作目を超える続編は存在しない"というのは、半ば共通認識のように受けとめられている。特に映画などは1作目が当たったからというので、急遽「続編を作ろう!」となるとお手盛りになりがちだ(まあ1作目がおもしろいと期待値が上がってしまうわけで、しかたがない面もあるとは思うが)。とはいえ、何事にも例外はある。個人的に、「エイリアン」は1作目より2作目の方が好きだ。また、『赤毛のアン』シリーズでは3作目の『アンの愛情』を最も多く読み返す。そして本書、『続あしながおじさん』も私がこよなく愛する"続編"である。
厳密に言うと、『続あしながおじさん』は『あしながおじさん』を超えるとまではいかないと思う。少女文学、そして手紙文学(?)の金字塔ともいえる『あしながおじさん』は私が物心ついたときには傍らにあって、人生で最初に熱狂した本である。『続あしながおじさん』にそこまでの思い入れがあるかと問われれば否定せざるを得ない。しかし、一人の女性が成長していく物語として読むなら、『続あしながおじさん』の方が優れているのではないかと思っている。それぞれの主人公が背負っているものが違うからだ。
『続あしながおじさん』の主人公は、サリー・マクブライド。1作目の愛読者ならすぐにピンとくる人物である。『あしながおじさん』の主人公であるジルーシャ(通名ジュディ)・アボットが大学で出会った親友なのだ。ここで、『あしながおじさん』をお読みになったことのない方のためにかんたんなあらすじを。ジュディはジョン・グリアー孤児院で育った女の子。学業が優秀だったため他の孤児より2年長く置いてもらっていたのだが、いよいよ孤児院を出なければならなくなった。が、そこに孤児院に多額の寄付を寄せる評議員で、ジュディを援助し大学に行かせてやろうという人物が現れる。その人をジュディは一度見たきり、背の高い後ろ姿が足長とんぼのようであるのが印象的な人物だった。大学に通わせる代わりに、勉学に励み毎月1回自分の手紙を書くようにというのが彼の提示した条件。かくして我々読者は、輝かしく希望に満ちた大学生活をジュディからあしながおじさんへの手紙を通して読むことになる...。
そして本書。サリーがジュディにジョン・グリアー孤児院の院長になるよう打診をされたところから話は始まる。『あしながおじさん』同様本書においても、読者は起こっていることのすべてをサリーが書いた手紙を通して知るのだ。ひとつ違っているのは、ジュディが書いた手紙はすべてあしながおじさんに宛てたものだったのに対し、サリーの手紙はジュディや婚約者のゴードン、そして孤児院の担当医師であるロビン・マクレイら複数の人物に向けて書かれていること。もちろんまだメールやLINEなどはなく、電話ですら気軽にかけるものでもない時代、こんなに差出人の感情や必要な情報が詰まった手紙が行き来していたかと思うと感慨深い。ジュディからあしながおじさんに宛てた手紙は、自分の将来や孤児としての出自に関する不安はあったものの、まだ社会の荒波からは離れた大学という世界で生きる娘さんの心の内を表すものだった。一方サリーの手紙には、苦労知らずのお嬢さんの身でいきなり百何人の孤児たちの生活を背負うことになった新米院長の驚きや憤慨、そして奮闘努力の日常が描かれている。学生の悩みというのも決して軽視してはいないが、やはり社会人となってからの苦汁は格別であろう。
ただ、どちらにも共通するところがある。それは主人公たちが人生に立ち向かってゆくガッツの持ち主であり、かつ困難に直面してもユーモアで切り抜ける才能を備えていることだ。多少おとぎ話めいているのは否めないが(ジュディにはあしながおじさんからの手厚い支えがあったし、サリーの孤児院経営においてはいまや支援する側となったジュディが後ろ盾となっている)、このシリーズが書かれた20世紀初頭には、女性が大学に行ったり男性と肩を並べて働いたりというのはまだまだ一般的ではなかったに違いない。残念ながら、女性作家の手による本書であっても男尊女卑の呪縛から完全には逃れていないと感じるが(もうひとつ、これは医学的な見地からだが、遺伝に関する誤った見解に固執している点も気になるし)、当時の女子たちにとっては胸をときめかせるに値する2冊だったのではないだろうか。初めは孤児院に留まるのがいやでいやでしかたなかったサリーが、持ち前の反骨精神や責任感の強さによってどんどん院長としての才覚を目覚めさせていく様子に、惜しみない拍手を送ったことだろう。
さて、本書には恋愛小説としての側面もある。『続あしながおじさん』の原題は、"Dear Enemy"だ。これは初めのうちあまり折り合いのよくなかったマクレイ医師に対してジュディが「敵」(=enemy)というあだ名を付けたことに由来している。"Dear Enemy"とはマクレイ医師宛の手紙の書き出しのことで、すなわち「敵殿」ということだ(「敵」には「かたき」とルビがふられている)。少女小説においては、「題名にもなるような相手が敵のままのわけねーよ!」とツッコミを入れられたとてやむを得まい。私自身は恋愛小説というものにほぼまったく関心がないのだが、例外的に食指が動くケースがある。それは男性がツンデレである場合だ。『あしながおじさん』におけるジュディのお相手にはとりたてて感銘を受けなかったのだが、マクレイ医師についてはほぼ申し分ない(デレるタイミングが少々早かったのが惜しい)。
著者のジーン・ウェブスターは1876年生まれ。母親は『トム・ソーヤーの冒険』の著者であるマーク・トウェインの姪にあたるという。裕福な家庭に育ち、名門女子大学のヴァッサー大を卒業した(リアル『あしながおじさん』!)。品がよくユーモラスなそれでいて社会に問題提起をするような作品を書き続けたが、私生活では妻子ある男性との交際をしたり(彼の妻が精神に異常をきたしていたなどの事情はあったにせよ)となかなかに型破りな面もあったようだ。その後正式に結婚したが、1916年女児を産んだ直後に逝去。ご家族のためにもお気の毒だし、長生きしていたらさらに多くのおもしろい小説を書き続けられたかもと思うと読者としても残念でならない。
ところで、『あしながおじさん』からずっと疑問に思っていることがある。ジョン・グリアー孤児院では子どもたちは揃いの服を着せられているのだが、これが青いギンガムチェックのものなのだ。私はギンガムチェックが大好きなので、ジュディとサリーが悪しざまに言うのがピンとこない。ギンガムチェックの復活!(←p.213に「青いギンガムチェックの終焉!」という太字の記述があるので対抗して)
(松井ゆかり)