【今週はこれを読め! エンタメ編】谷崎潤一郎を囲む女たちの危ういバランス〜桐野夏生『デンジャラス』
文=松井ゆかり
"芸術家は放蕩三昧なくらいの方が作品に味わいが出てよい"的な考え方は根強くあると思うが、いまひとつ共感できない。真面目にやっていても傑作を生み出す芸術家だっているだろう。ただ一方で、素晴らしい作品を「あんなろくでもない人間が作ったものなんて」と否定するのも、それはそれで違う気もする。そもそも何がよくて何が悪いかという判断基準は、特に芸術においてはあいまいで、似た傾向の作品であってもこちらは賞賛されあちらはけなされるということはままある。確かに刹那的にならなきゃやってられないという作家側の事情もあるのかもしれない(それはそうと、実直な文豪とかっていないのかしら。メガネ男子好きのアイドル・中島敦なんかもあんなに真面目そうな風貌ながら、東大在学中に麻雀荘やダンスホールに入り浸り生活からのおめでた婚だというし)。
しかしながら、『デンジャラス』の主要人物である谷崎潤一郎あたりになるとスケールが違う。なんといっても女性関係が華やかだし(自らのフェティシズムやら不倫体験やらを作風に反映させたりも。円満離婚だったという説もあるようだが、自分の最初の妻を同じく作家の佐藤春夫に譲る譲らないでごたついた「妻譲渡事件」も有名)、気前よく散財するし(引っ越しを繰り返すなど)。それでも、谷崎の3番目の妻である松子や、その妹で本書の語り手でもある重子たちは、彼に翻弄されながらもその庇護のもとで生きるしかなかったのだ。
物語の冒頭には「つまいもうと娘花嫁われを囲む潺湲亭(せんかんてい。京都にあった谷崎の住まい)の夜のまどゐ哉」という歌が掲げられているのだが、これは「いかにも谷崎らしい、最愛の女性たちに囲まれた私生活の充実ぶりが表れている」と称されるものだとのこと。「つま」=松子、「いもうと」=重子、「娘」=実子ではなく松子の連れ子である美恵子、「花嫁」=同じく松子の連れ子だが重子の養子となった清一の妻・千萬子を指す。清一については華麗にスルーされているのが印象的(そもそも兄妹なのに、美恵子は手元に置くけれども、清一のことは「男は要らない」と重子に面倒をみさせていたとの記述あり。個人的にはそのエピソードだけで「谷崎、無理」と思ってしまうが)。
今でこそ女性が働くのは当たり前で、場合によっては男性よりも自由な生き方を選択できるようにもなったが、当時はある程度の家庭に育った女が男に頼らずに生きるという選択肢はごく少なかった。さらに、谷崎家においては潤一郎が絶大な力をもって君臨しており、女たちはその寵愛を受けようと必死になっていたことがうかがえる。重子は『細雪』の三女・雪子のモデルとされている女性。もちろん、姉・松子と谷崎の幸せを心から祈っているが、自分が義兄にとって特別な存在であることに誇りを持ってもいる(途中で死別したが、一時期は夫のいる身でもあったにもかかわらず)。そんな危ういバランスで成り立っていた彼らの関係を大きく揺るがしたのが、清一の妻となった千萬子だった。
谷崎は「停滞」や「安定」といったものをよしとしなかったということなのかもしれない。住み慣れた家でも時間が経つにつれてあらが気になり始めるように、女性に関しても常に新しい刺激を求める気持ちがあったように思われる。千萬子は頭の回転が早く進歩的な性質で、老境に差しかかった谷崎には魅力的に映ったのだろうか。旧時代的なものを軽んじる千萬子と彼女に嫉妬の炎を燃やす松子や重子との、ねっとりとしたプライドのぶつかり合いである女の闘い。できる限り穏便に、周囲となかよくやっていきたい自分にとっては何より苦手なものである。
女同士のバトルは陰湿だなどと軽々に言うつもりはないが、そうはいってもウェットになりがちではある女性間のバランスを描かせたら右に出る者はいないのではと思わせるのが、著者である桐野夏生氏。近年『ナニカアル』(新潮文庫)で林芙美子を描いたことも記憶に新しい。『ナニカアル』にしても本書にしても、実在の人物を描いた作品ではあってもすべてが事実であるというわけではないだろう。それでも、史実と虚構が渾然となり、リアリティをもって読者の胸に迫ってくる描写は圧巻としか言いようがない。桐野さんには今後とも「穏便に」だの「周囲となかよく」だのと小さいことを気にせず、新しい時代の文豪として突っ走っていただきたい。
それにしても、私が本書を読んで何より驚いたのは、巻末に渡辺千萬子さんへの謝辞が掲載されていることである。この内容でオッケーしたの...!? 相当感じ悪く描かれている気がするが、肝が据わっておられることこの上ない。谷崎の目に狂いはなかったということだ。
(松井ゆかり)