【今週はこれを読め! エンタメ編】サマセット・モームのスパイ小説『英国諜報員アシェンデン』
文=松井ゆかり
私がスパイ志望だったことについては当欄の読者の方には周知の事実であろうから、これまでに取り上げたスパイものについてはいま一度、2014年11月12日や2015年3月11日更新のバックナンバーをご確認いただきたいと思う(嘘。私の夢想などはどうでもいいのですが、イアン・マキューアン『甘美なる作戦』や柳広司『ラスト・ワルツ』はたいへんおもしろい作品ですので、ぜひお読みになってみてください)。本書も同じくスパイが主人公の小説、しかもイギリスの大作家サマセット・モームによる古典作品だ。
「え! モームって『月と六ペンス』とか書いた人でしょ?」と思われた方も多いに違いない。文豪のイメージのある作家が娯楽作品を書くなど、日本作家でいったら森鴎外がコメディ小説を書いたというような意外さに相当するのでは(いや、この例え正しいかな)。とはいえ、実はモーム本人がスパイとして活動していた過去があるのだ。イギリスにおいてはスパイ経験のある作家が多く、『第三の男』のグレアム・グリーンや「007」シリーズのイアン・フレミングなども諜報活動に従事していたことがあるとのこと。自分の経験の重みを作品に活かす作家、あたかもコンビニ店員としてのキャリアを芥川賞受賞作『コンビニ人間』に反映させた村田沙耶香さんのようではないか(この例えも合ってるかどうかあやしい)。
本書の「前書き」の最初の一文を引用してみよう。「この作品は戦時中の諜報部での経験にもとづいているが、あくまでもフィクションである」と書かれている。なんというか、このカジュアルさにまず驚く。スパイだった過去って"墓場まで持って行く"類の秘密ではないのだろうか。いくら戦争は終わったからといって、狙われたりするかもとか考えないのか。それに、万が一戦争が再び始まるようなことがあったら、「あいつ前スパイやってたからな」と監視される可能性だってあるだろうに。そういった経験をもとに小説を書くとは、転んでもただでは起きないたくましい作家精神を感じさせる。
「アシェンデン」とは作家兼スパイである主人公の名前。スパイというとやはり思い起こされるのは、「007」のジェームズ・ボンドや「ミッション・インポッシブル」(昔のテレビドラマでいうところの「スパイ大作戦」)のイーサン・ハントあたりだろう。"アクション派手、小道具は最新鋭、ついでに女性関係も華やか"といったイメージを持ちがちだが、アシェンデンに関してはほぼ全編を通して地味な記述が続く。書類の受け渡しをしたり、暗号を解いたり、尋問をしたりと、ダニエル・クレイグもトムクルーズも「スタントなしの体当たり演技!」などと意気込む必要のない場面ばかりだ。そこにリアルさがあるのだろう。
本書で丁寧に描き出されるのは、アシェンデンの目を通して見た他者の姿。相手は同じスパイだったり(しかも二重スパイだったり)、密告を疑われる貴族だったり、反英活動家の愛人だったり。淡々とした筆致の短編から中編くらいの長さのエピソードが積み重なることによって、人間の滑稽さや残酷さ、戦争の非情さや空しさが胸に迫ってくる。それでいてかすかな希望も感じられるのは、モームがその先にある救いを書こうとしていたからではないだろうか。人間は愚かであり、そんな人間たちが引き起こした戦争もまた愚かしい。しかし、ひとりひとりは家族を愛する者であり、気のいい人間たちである。モーム本人は幼少の頃に両親を亡くしたため孤独な生活を余儀なくされ、さらには吃音や同性愛者であることなどを理由に迫害される人生を送ったようで、シニカルさには定評がある作家だ。しかし、心の奥底では人間の良心を信じていたのだと思いたい。
全編にわたって印象的だったのは、モームのユーモアのセンス。特に文学に関しての皮肉な描写が笑える。「現代作家の書いた作品を読まされているような気がする。多くの取りとめのないエピソードを与えられて、あとは各自でそれらをつなぎ合わせ、一貫した物語を考えなさいとでもいわれているかのようだ」とか、「本屋で本をめくったものの、寿命が千年くらいあれば読んでもいいような本ばかりだった」とか。いわゆる真面目な顔をしておもしろいことを言うタイプとお見受けした(モームの画像を検索すると、出てくるのはしかつめらしい表情ばかり。こういう人物がお笑い的にはいちばん効果的)。いきいきとした新訳で本書を紹介してくださった金原瑞人さんの「訳者あとがき」によれば、同じ訳者同じレーベルの『ジゴロとジゴレット モーム傑作選』に収録されている中編「サナトリウム」でも、アシェンデンの活躍が読めるとのこと。アシェンデンが結核を患ってサナトリウムで療養したときのエピソードが綴られているらしい。かわいそうなアシェンデン!
(松井ゆかり)