【今週はこれを読め! エンタメ編】惹かれあう女子二人の書簡小説〜三浦しをん『ののはな通信』
文=松井ゆかり
生涯ただ一度しか経験できないような、その人のことを思うと何も手につかなくなるほどの恋。しかし個人的には、そういったものを追い求める恋愛至上主義にはほど遠い身だし、"結婚してもときめきを忘れたくない"的なことはまったく思わない。...などと斜に構えた人間をも一瞬にして虜にするようなことが起こり得るのも、恋というものの力であるのだろう。本書の主人公たち、野々原茜(のの)と牧田はな(はな)が否応なく落ちたのは、まさにそういった身を焦がすような恋だった。
ののとはなが出会ったのは、中高一貫の女子校である聖フランチェスカ。富裕な家庭の娘たちが集うその学校に帰国子女として途中から編入してきたはなに、ののは強く心引かれた。友情以上の気持ちを抱いているというののの告白をはなは受け入れ、密やかに恋が始まる。やがて身も心も結ばれたふたりだったが、ののにははなに決して知られたくない秘密があった...。
本書は、ふたりの女子の約四半世紀にわたる関係を描いた物語。ふたりは少女から大人へ、時代は昭和から平成へ、伝達手段は手紙からメールへと、さまざまなことやものが移り変わる中で、どんなに年月を経ても変わらないものもあった。お互いに強くひかれ合うその思いこそが、ののとはなを生涯支えたのだった...。
成績優秀でしっかり者と思われているのの。人なつっこく甘えん坊と思われているはな。しかし、それは彼女たちの一面を表しているに過ぎない。しっかりしているののに実はもろいところがあり、甘えん坊のはなが誰にも頼らず大きな決断をしたりするように、人間には見かけによらない(ひょっとすると、自分でも気づいていない)性質が現れることもしばしばだ。もともとの性格が次第に表れてきたのかもしれないし、数々の経験によって徐々に変わったものかもしれない。いずれにしても、時間の経過とともに人の心に変化が訪れる様子が、本書では丁寧に描かれている。これ以上誰かを愛することはできないとまで思った人がいても、また別の人と恋愛関係になるのは不思議ではないこと。激しく傷ついた胸の痛みも、たいていは少しずつ和らいでいくこと。一度は疎遠になった相手とも、形を変えてつきあえるようになる場合もあること。一方で、こうした変化を遂げられる柔軟性を持ちつつも、変わらぬ思いを胸に生きていけるのが人間の強さであろう。一時的にどんなに苦しんだとしても、それでも相手と出会えてよかったと思える人生にできたことは、忘れ得ぬ恋の記憶が彼女たちを支えていたからであるに違いない。
私たちは生きていく中でさまざまな矛盾にぶつかる。やみくもに整合性だけを追い求めても、すべてをきっちりと収められるような世界を実現させるのは不可能だと思うし、もし実現できたとしてもそれは多様性を否定する世界でもあるような気がする。同性を愛したっていい。世間の求める女性像に合致しなくたっていい。人間の心は自由だし、自分の信じるところに従って生きていいのだ。物語の終盤ではなが下す決断は、万人から賞賛される類のものではなく、身近な家族たちにとっては心配の種でしかないともいえるものである。しかし、私ははなの選択を尊いと思った。家庭の他には学校での人間関係だけがほぼすべてだった時代を過ぎて、大人になるといろんな場面で出会いや別れを経験することになる。過去に出会ってきた人々、そしてこれまでに経験してきたこと(本書でいうなら、家族との関係、国際社会において自分に何ができるかを考えること、災害への向き合い方等々)が人間を作っていくのだと本書を読んで強く思い知らされた。生きている限り、人は成長できる。若い頃にくらべると選択肢はかなり減ってきたけれども、まだまだやれることはある。自分に恥ずかしくないように、常に考えて行動しなければならないなと思う。何者になれるのかもわからず将来が見えなくて不安だった10代の頃の自分に、何より現在の自分に。
さて、去る6月28日に『ののはな通信』刊行記念のトーク&サイン会に参加してきた。三浦さんとライターの瀧井朝世さんのトークはたいへんおもしろかったし、作品を理解するうえでいろいろと補完された部分が大きかった。特に印象的だったのが、「中高生くらいの頃に同性への憧れを口にすると、『若気の至り』だといった方向で片づけられてしまう。異性に対しての気持ちだったらそんな風に言われることはないのに」「暴力と天災、それによって引き起こされた事象は結果として同じことではないのかとよく考える」「人が亡くなったりしたニュースを聞いてほんとうに気の毒だと胸を痛めた直後、『ごはん何を食べようか』と心に浮かぶことに負い目のようなものを感じるとともに、その無神経さこそが生きるうえで大切だとも思う」といったご発言の数々。確かになるほどと思わせられる内容のことばかりだ。
また、書簡体小説ということについては、「書簡体小説という手法においては、"すべてを書いているわけではない"と感じさせることが可能。ある意味ミステリーのような趣を出せる」とのことだった。本書については、この形で書かれたことが重要なポイントであると思っている。かなりのアナログ人間であるという自覚がある私でも、いまやほとんど手紙を書くことなどない。でも自分が中学生高校生の頃は違った。授業時間の大半は友だちに手紙を書くことに費やされ(別に休み時間に対面で話せばいいようなことまで!)、便せんやメモ用紙を持ち歩いたりそれらの折り方も熱心に研究したりしたものだった(最近の女子たちは、レターセットにおこづかいをつぎ込んだりしないのだろうか?)。言葉を尽くして相手とわかり合おうとした中学高校時代の自分の情熱を、懐かしく思い出す。トークイベントでは書簡体小説全般についても話が及び、「夏目漱石の『こころ』で先生が書いたのは、遺書のレベルを超えた長さ」「宮本輝さんの『錦繍』は素晴らしい」など、話題が広がった。「書簡体小説という形式に関しては、もうちょっと工夫することもできたのではないかと感じているので、機会があればもう一度挑戦してみたい」とのお言葉も! さらなる三浦版書簡体小説が読めるかもしれませんよ(『あしながおじさん』的な少女小説、あるいはラクロの『危険な関係』のような退廃と官能の物語、だったりして)!!
(松井ゆかり)