【今週はこれを読め! エンタメ編】甲子園復活に尽くした人々の物語〜須賀しのぶ『夏空白花』

文=松井ゆかり

 この夏、いわゆる夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)は第100回を迎えた。しかし、前身である全国中等学校優勝野球大会から数えると今年は104年目。この事実が示すものがピンとこない若者たちは、幸せだといえるだろう。戦中や戦後間もなくの不自由さを実際に経験していないのはもちろん、祖父母や両親たちから戦争中の話を折り入って聞く機会も少なければ日常生活において傷痍軍人や戦争孤児を見かける場面もない平和な時代に育った証しである。なぜ大会の回数と年数にずれがあるのか、それは太平洋戦争によって中断していた時期があったからだ。

 物語の始まりは昭和20年8月15日、朝日新聞大阪本社の屋上。主人公の神住匡は他の社員たちとともに玉音放送を聴いていた。暑さに焼かれながら神住の心を占めていたのはしかし、終戦の詔勅ではなく、11年前に甲子園球場のマウンドに立っていたときの光景だった。神住は元球児。この年の甲子園で最も注目を集めていたのは優勝候補である京都商業のエース・沢村栄治だったが、神住もかなり名の知られた投手だった。しかし無理な投げ込みがたたって肩を壊し、ストライクが入らずフォアボールを量産。満塁になったところで走者一掃のタイムリーヒットを打たれた際の記憶が、既視感となって神住の心に蘇っていた。それは、「まわりに人がいるのに、目も思考もすべて白く霞んで、世界でたった一人で立っているような」感覚だった。

 翌日、別館へ資料を取りに行った神住は、学生野球(特に中等学校野球界)では名の知られた人物である佐伯達夫と再会する。佐伯は神住に「夏の大会を復活させる」と力強く宣言した。戦争が終わったとはいえ、まだまだ食べるにも事欠く日々で、軍に接収されていた球場は芋畑や駐車場や工場などとして使われていたり空襲で焼失したりしていた。そんな中で野球などと呆気にとられる神住に佐伯は、子どもたちの心を立て直すことが何よりも大事でそれには野球が最もふさわしいと説き、「あの子らの一年は、我々の十年に相当する。今、助けなあかんのや」と語る。その後妻の美子にハッパをかけられたり、強豪校・浪華商で印象的な投球をしていたピッチャー・平古場と再会したりしたことによって、神住もまた来年の夏に必ず大会を復活させると心に誓う。

 しかしながら、物事は容易には運ばない。そもそも時期尚早という意見は日本国内にも根強くあり、新たなる日本の統治者として乗り込んできたダグラス・マッカーサー元帥を総司令官とするGHQは基本的に日本野球への理解に欠けていた。それでも米軍の中にも比較的好意的な人材はいて、終戦後最初に関西に上陸してきたアメリカ陸軍第六軍の連隊長であるスミス大佐などは、ここぞというところで神住にちょっとした手助けをしてくれる。そのスミス大佐が紹介してくれた同期のエヴァンズ中佐はもともと野球選手になるのが夢だったという人物で、神住は彼に夏の大会開催に向けて尽力を頼めないかと面会に出向く。最初はけんもほろろの対応で追い返される神住。しかし粘り強い交渉が徐々に功を奏し、少しずつ事態は前進をみせるように...。

 日本とアメリカ。学生野球と商業野球。新聞社と文部省。アメリカ人兵士と日系人兵士。立場の違いがあるところには、さまざまな対立が生じる。各々の言い分は、それを主張する者にとってはすべて正しい。でもきっと、(犯罪者の理不尽な主張などでない限り)どちらか一方だけが100%正しくてもう片方は1%も正しくないなどあり得ないのではないか。個人的には、相互理解に必要なのは何より対話だと思っている。しかし、時に雄弁さ以上に役に立つものもある。この場合は野球だった。

 人気のあるスポーツというだけなら、以前から陸上競技も武道も相撲もある。サッカー人気は野球のそれを凌ぐものだし、今年の冬季オリンピックではフィギュアスケートやカーリングなどにも魅了された。運動といえば体を動かすものという既成の概念を覆すような、最近登場したeスポーツなるものの存在もある。それでも、日本人にとって野球は特別なものといっていいと思う。競技そのものの魅力と、それを大切に受け継いできた歴史の両方によって、野球は人々の心に訴えかける魅力を持ち続けてきた。そうでなければ、どうして我々はあんなに高校野球に熱狂するのか? 例えば高校野球を巨大な市場と捉えてビジネスに過剰に利用しようとするなど、問題点はないわけではない。球児たちにしても、高校野球で活躍してプロへ行ければ将来は明るい、くらいは心をよぎるに違いない。それでも、根底には野球を好きだという思いがあってこその話だと思う。そして、野球好きならアメリカ人も同様だ。もしかしたらアメリカンフットボールの方が人気なのかもしれないけれども、国内野球に留まらない国際交流の手段となり得るという点でやはりベースボールの方が上という気がする(アメフトはアメリカ国内での試合が盛り上がるイメージ)。

 実力が追いついているかどうかは別として、野球をやっていて甲子園に憧れを持たない子はほとんどいないはずだ。スポーツに限らず、晴れの舞台に立つのを夢見るのは何の不思議でもない。サッカーなら国立競技場、ラグビーなら花園、吹奏楽なら普門館。しかし戦時中の球児たちは、夢の舞台そのものを取り上げられてしまった。好きなことをやっていたって挫折を味わう場合もあれば、故障あるいは実力不足などの理由で夢をあきらめなければならないときもある。それだってつらいには違いないけれども、目指す場所自体が失われてしまうこと以上に無力感を覚える事態があるだろうか。もう二度と、大人や体制の都合で若者たちの希望の芽を摘むような戦争を起こしてはならない。自分の好きな道に進む自由を彼らから奪ってはならない。

 本書はフィクションだが、悲運の投手・沢村栄治や学生野球の復興に尽力した佐伯達夫など実在の人物も登場する。このような時代は70数年前、ほんとうに存在したのだ。球児の悲しみや喜びと、記者としての無力感や使命感を併せ持つ神住。彼を主人公に据えたことによって、さまざまな立場の人々の思いを描き出すのに成功したと思う。球児たちはもちろん野球が好きであるに違いないが、記者も書く対象に熱い思いがなければ務まらない。結局のところ、神住や彼の周囲の人々が底抜けに野球好きだったからこそ、さまざまな障害をはねのけられたというわけだ。夏の空に白い花。タイトルの意味はラストでわかる(自分でも驚くほど泣けてきた)。白い花がいつまでも咲き続ける世の中であってくれと切に願う。

 須賀しのぶさんは昨年まで三夏連続で、学生野球を題材にした『雲は湧き、光あふれて』シリーズ(集英社オレンジ文庫)を発表されてきた。今年は三ツ木高校の面々のいない夏か...と意気消沈されていた読者諸君を一気に熱くさせる渾身の一作が本書(高校野球も終わり、さすがに暑さも落ち着いてきて、若干季節外れのご紹介になってしまったが)。須賀版野球小説、毎夏の風物詩となればうれしいです。

(松井ゆかり)

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