【今週はこれを読め! エンタメ編】予想もつかない物語〜藤谷治『燃えよ、あんず』
文=松井ゆかり
どんな展開になっていくのか想像もつかない、という読書体験を久しぶりに味わった気がします。だいたいの小説は、読む前からどのような話なのかということは予想できるものではないでしょうか。『吾輩は猫である』→「猫が出てくるんだろうな」、『1973年のピンボール』→「1973年のピンボールの話なんだろうな」と、題名からでも見当がつくものもあります。さもなくば、出版社のサイトなどに載っている内容紹介の文章やら本に巻いてある帯やらを読んで、当たりを付けることも可能でしょう。私は決して、そういった事前の情報供給のあり方を否定するものではありません(そもそもこのようなコーナーにおいて毎週新刊紹介をさせていただいている身ですから)。どういう内容か概ねわかっていてもなお心を打つ物語は、いくらでも存在しますし。
そこで本書、『燃えよ、あんず』です。この題名からだけでストーリーを言い当てられる人がいたとしたら、正真正銘の超能力者か、この本をすでに読んでいたことを忘れて内容のみを覚えているという変則的な記憶喪失者だけではないでしょうか。もしかしたら、出典をご存じという方はいらっしゃるかもしれませんが、だからといっていったいどうしてこの題名になったかはお読みになってみなければわからないに違いありません。本書を出版した小学館のサイトをちょっとのぞいてみましょう。少し長くなりますが、〈書籍の内容〉を引用します。「下北沢の小さな書店・フィクショネスには、一癖も二癖もある面々が集っていた。癖の強い店主、筋金入りの「ロリータ」愛読者、大麻合法を真面目に主張する謎の男、大手企業で管理職に就く根暗な美形男性、そして、決して本を買わずに店で油を売り続ける、どこか憎めない女子・久美ちゃん。そんな彼女に新婚間もなく不幸が訪れる。それから十数年。ある日、久美ちゃんがお店にふらりとあらわれた。同じく懐かしい顔の男を伴ってーー。」とありました。確かにここに書かれた通りのお話なのです。でもこの文章では何も伝えていないことと同じです(見事なまとめ方といっていいでしょう)。なぜなら、〈書籍の内容〉からは最終的にどんな結末になるかはまったくわからないと思われますので。
だから、私は今回出版元が明らかにしている以上のあらすじを書こうとは思いません。内容がわからなくてもいい、いや、むしろわからない状態で読んでもらいたいのです。ふだんの新刊紹介においては、私はあらすじに加えて、「これまでにもまして著者の筆力が冴えわたっている」だの「作家としてのさらなる飛躍が期待される」だのと、なぜおまえのような泡沫ライターがそんなに上から目線なのかと糾弾されてもおかしくないような記述に誌面を割いてきました。もちろん、あらすじや作品の位置づけなどといった情報が必要だと考えたうえでのことではあります。泡沫ライターは泡沫なりに、"こう書いたら興味を持ってもらえるだろうか"と試行錯誤して...いや、そんなおもしろくもない苦労話はどうでもいい。しかし今回、私は直接あなたに語りかけたいのです。「次に読む本をなんとなく探している不特定多数(いや、少数か)の読者」にではなく、いま、この文章を読んでくださっている「あなた」に。『燃えよ、あんず』がどんな本であるか予備知識は持たなくていいのです、読めばわかるから。類い希な小説であることは、読み始めてすぐにわかりますから(私が確信したのは21ページあたりです)。
もしお知らせするとしたら、ひとつだけ。下北沢で書店「フィクショネス」を営んでいる主人公のオサムさんは、著者の藤谷治さんご自身がモデルかと思われます。藤谷さんが作家業の傍ら書店を経営されていたということは、閉店後に知りました。行ってみたかった。「アルゼンチンの作家ボルヘスの代表作を採って」名づけられた書店、控えめにいって最高ですよね。
(松井ゆかり)