【今週はこれを読め! エンタメ編】加害者家族と被害者家族の対峙〜岩井圭也『夏の陰』

文=松井ゆかり

 加害者家族と被害者家族。彼らの物語を純粋なフィクションとして捉えられるのは、幸いにも自らがどちらの立場にも立ったことがないからだ。

 もともとスポーツ小説は好きなのだが、次男三男が中学で部活に入っていたこともあって、剣道ものには特に興味を引かれる。剣道はある意味不思議なスポーツだなという気がする。ふたり合わせて合計約6年間、試合の応援にも通ったが、剣道に関しては一向に観戦する際のポイントをつかめた気がしなかった。野球ならホームインすれば得点、サッカーならゴールすれば得点。同じ武道であっても、弓道なら的に的中すれば中り(あたり)。比較的判定がしづらそうな柔道でも、こうなれば技が決まったことになる、という見極めは剣道よりもわかりやすい気がする(素人判断なので、誤った認識だったら申し訳ありません)。剣道の技に関する判定が難しいのは、そこに精神性が関係してくるからではないかと思う。竹刀が体に当たれば一本取れるというものではなく、気力が充実していることや美しい姿勢であることが求められ、さらには最後まで気を抜かずに行われたものかどうかということまでが問われるのだ。所詮は数年間ただ見ていただけの人間には、計り知れない世界といえよう。

 しかしながら、本書はスポーツ小説であると同時にもうひとつ重要な要素を備えている。ひとつの重大事件に関わりながら相対する境遇に身を置いてきた主人公たちの物語でもあるのだ。主要人物は、宅配便配達の仕事に明け暮れる27歳の倉内岳と、京都県警の警備部機動隊に所属する24歳の辰野和馬。ふたりを結びつけるものは剣道、そして、15年前に起きた発砲事件である。岳は銃撃犯である浅寄准吾の息子、和馬は撃たれて亡くなった警察官・辰野泰文の息子である、という正反対の立場にある者たちであるのだが。

 自分の家族が犯罪者になるなんてつゆほども心配していない、と言い切れる人は幸いである。"家族全員を四六時中見張って自分の意に染まない行動はさせない"ということを徹底するのはほぼ不可能であるし、それでもなお他者の心を(たとえ家族といえども)完全にコントロールすることはできないだろう。我々はいつ何時、「加害者家族」とならないとも限らないのだ。縁起でもないことではあるが、"「被害者家族」になるならまだわかる"かもしれない。実際のところ、被害者家族が被るダメージについてならある程度推量できそうな気もする。とはいえ、被害者家族たちがこんな風に周囲から傷つけられるような事態が起こり得るとは、本書を読むまで想像したことはなかった。家族を亡くしてなお、痛手を負わなければならないなどと。本書は、15年にわたって岳と和馬がそれぞれに歩んできた茨の道を鋭く描き出している。私を含む大多数の読者にとって、本書を読むことは高みの見物のようなものかもしれず、興味本位と詰られるなら甘んじて受け入れるしかないかなとも思う。それでも私は知りたいと思ったのだ、彼らの人生に何らかの救いはあったのかということを。

 圧巻は岳と和馬がある試合で相対する場面である。「剣道は対話である」というのは、剣道教室の先生方もおっしゃっていたことだが、試合中ふたりの心に浮かぶ激情は実際に互いに向けて思いの丈をぶつけているかのようだった。胸を締めつけられるような魂の叫びから、目をそらしたいのにそらせなかった。救いはあったともいえるし、あのような事件の当事者となってしまったからには救われることなど永遠にないようにも思える。それでも、彼らは彼らの人生を生きていくしかないのだと感じた。

 著者の岩井圭也さんは、『永遠についての証明』で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、本格的に作家デビュー(受賞時には岩井圭吾名義。第8回にも同賞の奨励賞を受賞されている)。単行本は本書が2冊目とのこと。

 さてもう1点、表紙の美しさにもぜひご注目いただきたい。銀色のカバー紙に、防具を着けて佇む人物の姿が印刷されている。面を付けているので、これが岳なのか和馬なのか(あるいは別の人物なのか)はわからない。本来ならキラキラして見えるはずの色味の表紙は静謐さに満ちていて、そこに描かれた者は対戦相手のみならず自分の心とも向き合っているかのようである。

(松井ゆかり)

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